2009年07月04日16時17分掲載
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大規模近代化農業に未来はない 安田節子『自殺する種子』 安原和雄
「自殺する種子」とはあまり聞き慣れないが、どういう種子かお分かりだろうか。世にも恐ろしい物語といえば、いささか夏の夜の怪談めくが、現実にそういう種子を武器に使って食の世界を支配しようという企みが進行しつつある。「食の安全」が危うくなってすでに久しいが、うっかりしていると、我が「いのち」がさらに危険にさらされるだけではない。いのちの源である「食」と「農」そのものが、その土台から掘り崩されるという到底容認できない現実に取り囲まれることにもなりかねない。
さてどうするか。一口に言えば、いわゆる大規模近代化農業にもはや未来はないことを察知して脱出口を探索し、変革を進める以外に妙策はない。
ここで紹介する安田節子(注)著『自殺する種子 ― アグロバイオ企業が食を支配する』(平凡社新書、09年6月刊)はなかなか読み応えのある作品である。その目次は、つぎの通り。
はじめに ― なぜ種子が自殺するのか
第一章 穀物高値の時代がはじまった ― 変貌する世界の食システム
第二章 鳥インフルエンザは「近代化」がもたらした ― 近代化畜産と経済グローバリズム
第三章 種子で世界の食を支配する ― 遺伝子組み換え技術と巨大アグロバイオ企業
第四章 遺伝子特許戦争が激化する ― 世界企業のバイオテクノロジー戦略
第五章 日本の農業に何が起きているか ― 破綻しつつある近代化農業
第六章 食の未来を展望する ― 脱グローバリズム・脱石油の農業へ
(注)安田節子さんは、1996年、市民団体「遺伝子組み換え食品はいらない」キャンペーンを立ち上げ、2000年まで事務局長。現在、食政策センター「ビジョン21」を主宰。日本有機農業研究会理事。著書に『消費者のための食品表示の読み方 ― 毎日何を食べているのか』、『遺伝子組み換え食品Q&A』(いずれも岩波ブックレット)、『食べてはいけない遺伝子組み換え食品』(徳間書店)など。
目次一覧からも分かるように、世界的視野に立って食と農に関する最新の情報が盛り込まれている。全容は割愛して、いくつかの要点に絞って以下に紹介し、私(安原)のコメントを述べる。
▽「自殺種子」の特許技術が世界の食を支配する
著作の「はじめに」で種子の自殺についてつぎのように書いている。
種子は、生命を育み、生命を次世代に伝えていくという、生物のもっとも大切な、最も根源的な存在のはずである。その種子が自ら生命を絶ってしまう! これはいったいどういうことなのか。生物の生命にかかわる部分でいま、私たちの想像もつかない大変なことが進行している。
アグロバイオ(農業関連バイオテクノロジー〔生命工学〕)企業が特許をかけるなどして着々と種子を囲い込み、企業の支配力を強めている。究極の種子支配技術として開発されたのが、自殺種子技術で、この技術を種に施せば、その種から育つ作物に結実する第二世代の種は自殺してしまうのである。次の季節に備えて種を取り置いても、その種は自殺してしまうから、農家は毎年種を買わざるを得なくなる。
この技術の特許を持つ巨大アグロバイオ企業が、世界の種子会社を根こそぎ買収し、今日では種子産業が彼ら一握りのものに寡占化されている。彼らは農家の種採りが企業の大きな損失になっていると考え、それを違法とするべく活動を進めている。
〈安原のコメント〉― 「いのちの源」の支配をたくらむ貪欲の群
本書によると、この自殺種子技術は、米国農務省と綿花種子最大手D&PL社(のちにモンサント社=米国の多国籍バイオ化学メーカー=が買収)が共同開発し、1998年米国特許を取得、さらにデュポン社(電子・情報から農業・食品までも含む米国の多国籍総合メーカー)も、翌年米国特許を取得している。
著者は「種(生命体)に特許と聞いて、違和感を覚えませんか」と疑問を提起している。同感である。従来は生命体には特許権は認められていなかった。それがバイオテクノロジー(生命工学)の商業化、つまり利益を追求するビジネスとなってから、従来なら非常識とされた企みがまかり通るようになっている。その背後に世界の「食」と「農」を支配しようとする野望が秘められていることは間違いないだろう。
「カネ」を貪欲に支配してきたマネー資本主義とそれを支えた新自由主義路線は破綻したが、今度は「いのちの源」の支配をたくらむ貪欲の群が動き始めているのだ。目が離せない新段階といえる。
▽豚インフルエンザの発生源は「高密度の養豚場」か
まだ記憶に生々しいあの豚インフルエンザについてつぎのように書いている。
2009年4月、メキシコで豚由来のインフルエンザウイルスが分離され、人から人に感染する新型インフルエンザと認定された。豚インフルエンザは本来、人には感染しにくいが、今回は感染しやすくなり、人から人への感染を起こしたのである。
メキシコの各新聞は、発生源を、世界最大の養豚会社、米国スミスフィールドフード社が経営する高密度の養豚場だと伝えている。最初に発生したとみられているラグロリア村に同社子会社の養豚場があり、ここでは5万6000頭の雌豚から、年間9万頭の豚が生産(08年度)されている。
この養豚場は、管理が不衛生だとして悪評が高く、住民やジャーナリストたちは、ウイルスがこの養豚場の豚で進化し、その後ウイルスを含む廃棄物(糞や死体)によって汚染された水やハエなどを介して人間に感染したと主張している。
密飼いから起こるストレスで豚は病気になりやすく、そのため抗生物質など薬剤が日常的に投与され、その結果、抗生物質耐性菌の出現やウイルスの変異が引き起こされる。
〈安原のコメント〉― あの豚インフルエンザ騒動から学ぶこと
日本列島にも上陸したあの豚インフルエンザの背景に何があるのかについてほとんどのメディアは伝えていない。感染者が何人に増えたかという単純な報道に終始した。しかし著者によると、発生源は「世界最大の養豚会社が経営する高密度の養豚場」であり、しかも「その養豚場は管理が不衛生だとして悪評」と指摘している。そう断じていいかどうかはともかく、「高密度の養豚場」に容疑があることは否定できないのだろう。
このことは日本にとっても決して他人事ではない。著者は「日本の家畜の6割が病気」というショッキングな事実を報告している。「疾病(尿毒症、敗血症、膿毒症、白血病など)や奇形が認められと、屠殺禁止、全部廃棄、内臓など一部廃棄となるが、その頭数は牛、豚ともに屠殺頭数の6割に達する。家畜の多くが病体だという現実はほとんど知られていない」というのだ。日本でも「高密度の生産現場に容疑あり」ということではないのか。これではいつ日本発の新型インフルエンザが発生するか、安心できない。
著者のつぎの指摘に耳を傾けたい。
「健康的な質のよいものを少し」という食べ方は、生活習慣病にならない健康を守る食べ方でもある。消費者の意識の変革とその選択が生産現場を変えていく― と。
▽究極のリサイクルシステムの中の近代養鶏
本書は日本農業が衰退しつつある現状を多様な側面から描き出している。その典型例が究極のリサイクルシステムの中の近代養鶏である。つぎのように指摘している。
近代化農業は農薬、化学肥料、飼料、機械、燃料、種子など必要な資材すべてを外部から購入しなければならない。そういう近代化農業の典型が養鶏で、何十万羽という単位の大規模ケージ(鶏舎)飼いが一般的である。
日本の場合、鶏卵の自給率は95%、鶏肉は69%だが、飼料はほとんど米国からの輸入で、これを勘案すると、自給率は鶏卵9%、鶏肉6%に落ちる。
現在、米国では致死率の高い新たな鶏白血病ウイルスが急速に広がり、すでに複数の養鶏企業が廃業に追い込まれている。日本にも種鶏の輸入から広がる懸念がある。鳥インフルエンザも世界各地で大混乱を引き起こしている。こうした出来事は反自然の工業的生産に対する自然の逆襲のように思える。
近代養鶏は、レンダリング(注)という究極のリサイクルシステムを生み出した工業化農業の最たるものである。これ以上の効率化はできないと思われるほどだが、さらにイスラエルでは遺伝子組み換え技術を駆使して、羽のない肉用鶏を作り出した。羽をむしる工程が省けるわけだが、肌むき出しの鶏の写真を見たとき、慄然とした。
倫理の歯止めを持たないまま、科学技術の商業的利用が進んでいく現状に懸念を覚えざるを得ない。
(注)レンダリング(rendering=廃肉処理)とは、肉以外の食用にならない頭、足、がら、羽毛、さらに病死家畜などをレンダリング工場で煮溶かすなどの処理を加え、それをまた家畜の餌として与える。膨大な肉食の普及とその効率化に伴って、レンダリングは今では不可欠の役割を担っている。
〈安原のコメント〉― 倫理なき工業化農業の行方
ここで見逃せない著者の指摘は、つぎの2点である。
・反自然の工業的生産に対する自然の逆襲
・倫理の歯止めを持たないまま、科学技術の商業的利用が進んでいく現状に懸念
工業がいのちを削る産業だとすれば、一方、農業はいのちを育てる産業である。だから工業と農業とは本質的に異質の産業である。ところが今、急速に農業の工業化が進行しつつある。いいかえれば農業自体がいのちを削る産業に急速に変化しつつある。だからこそ農業が自然の逆襲に見舞われ、いのちを育てるという倫理の歯止めが外れてきた。これでは肝心のいのちをだれが守り、育てるのか。工業化農業の堕落というほかないだろう。その堕落とともにいのち軽視の進行に無感覚になって、倫理なき経済社会が広がっていく。世は乱れるほかない。
▽加工食品と巨大なフードマイレージ、増大する食品添加物
現在、加工食品、冷凍食品、外食食材の原料はほとんどが輸入で、そのため日本は世界一巨大なフードマイレージ(注1)の国となっている。農林水産省の01年の試算では総量で9002億800万トン・キロメートルで、世界で群を抜いて大きく、国民1人当たりでも1位である。世界中からかき集めたさまざまな原料が、多数の中間業者を経て流通し、トレーサビリティ(注2)も困難で、監視も行き届かない。これは昨今の数々の食品汚染事件の大きな背景である。
加工食品の増大は、食品添加物の多様・増大と軌を一にする。戦後に始まった食品添加物の使用はうなぎのぼりに増大し、現在日本では1人当たり年間約24キログラムも使用されている。添加物の指定数も、約1500品目(化学合成の指定添加物は339品目)もある。
添加物の摂取は味覚障害、皮膚炎、子どもでは発育の遅れ、胎児への影響さらにイライラの原因でもある。
(注1)フードマイレージは「食料の輸送距離」のことで、食料輸送が環境に与える負荷の大きさを表す指標として使われる。海外の農場や漁場から消費者の食卓まで食料を運ぶ距離に食料の重量を掛け合わせて算出する。
(注2)トレーサビリティとは、英語の「トレース」(Trace:足跡をたどる)と「アビリティ」(Ability:できること)の合成語で、「追跡可能性」の意。
〈安原のコメント〉― 自然環境も健康も守れなくなった農業
自然環境に依存する農業は本来、その営みによって自然環境を守り、いのちの源を提供することによって人間一人ひとりの健康を支えるのがその役割である。しかしこの農業の社会的貢献度(自然環境や健康への貢献度)は極度に低下してきた。
自然環境に対する負の貢献度は、加工食品の原料を海外からの輸入に依存しているため、フードマイレージが不名誉にも世界一という事実に表れている。自然環境を汚染・破壊しながら、「食」の見かけの多様な豊かさを誇っても、決して自慢できる話ではない。
一方、加工食品の増大に伴う食品添加物の多用は健康を蝕む要因となっている。こういう農業 ― 加工食品の増大に対し、その未来は期待できるのかと問いかけないわけにはゆかない。
▽自給国家をこそ、日本は目指すべきだ
農林水産省と現代経済学が主張する日本農業生き残りのシナリオは、「大規模近代化農業こそ」と宣伝カーのようにやかましく聞こえるが、本書はそれに正面から異議を唱えている。つまり「大規模近代化農業に未来はない」という立場である。つぎのように主張している。
*オイルピークと近代化農業の行き詰まり
・米国の大規模企業型農場にとっては、なによりも収量増加が最優先であり、そのため大量の水を使う大規模モノカルチャー(単一作物の栽培)となっている。しかしいまや農業生産に使用できる水資源は減少し、地力は痩せ、遺伝子組み換え作物に対する国際的な逆風にも直面し、米国型近代農業は永続不可能な農業になりつつある。
・そもそも農業には、工業のような大量生産、規格化、効率化はなじまない。工業製品とは違う自然の理(ことわり)が中心にある生命産業である。大規模モノカルチャーは、気象変動が激しくなった昨今、その影響をもろに受けている。
・近代化農業は大型機械、施設栽培、農薬、化学肥料のどれも石油によって成り立っている。人類がオイルピーク(注)を迎えた今、近代化農業の先行きがあやしくなってきた。さらにグローバリゼーションによって拡大してきた食料貿易にも大きな影響を与えている。オイルピークの影響を一番受けるのは、近代化農業と国際フードシステムである。
(注)オイルピークとは、世界の石油生産量が頭打ちになって、減少に向かう事態を指している。世界の1人あたりの石油生産量は1979年にピークを迎え、それ以降減少を続けているという説もある。
*日本の風土に合った農業を
・自給国家をこそ、日本は目指すべきである。幸いにも主食の米は自給を保っている。先祖が営々と築いてくれた田んぼは日本の貴重な資源であり、これを徹底して守るべきである。輸入米の流入を許せば、日本の国土から水田風景が失われてしまう。
・南北に長く、山川が入り組み、高低差がある日本は、大規模単一生産には不利、不向きで、むしろ多品目生産ができる条件に恵まれている。多品目生産のメリットは、気象変動に強く、また価格暴落などのリスク分散もできる。
・農地集積のネックとされる日本田畑の分散も、水害などのリスク分散を考えた祖先の知恵である。平坦で広大な農地を有する大陸型の輸出国農業のものまねではなく、自国の風土に合った農業をこそ、食料生産基盤として維持・保護すべきではないか。
〈安原のコメント〉― 東洋思想の「身土不二」を生かしてこそ
著者の指摘に大筋では賛成である。
私は農家の生まれで、小学生時代(昭和20年夏の敗戦時は小学5年生)は農業の手伝いが暮らしの中心であった。毎年の梅雨時の田植えには裸足で水田に入って手伝った。当時はわが家で牛を飼っていたので、その牛を農業用水のため池の土手へ連れて行って草を食わせるのが日課でもあった。夏には沢山の蛍が、近くの田んぼを縫って流れる水の澄んだ小川で舞い踊り、小川にはフナやドジョウが泳いでいた。
こういう牧歌的な風景が一変したのは、戦後間もなく撒布され始めた農薬のせいである。やがて小川は三面コンクリートで固められ、澄んだ水は汚水に変わった。蛍も小魚も姿を消した。さらに減反時代を迎えて田んぼに雑草が生い茂る。
あれから半世紀以上の時を経て、いま近代化農業の行き詰まりに直面している。もちろん工夫努力を重ねて農業再生に取り組んでいる農家も少なくないことは承知している。ただ海外食料と石油に依存する農業(食品加工業なども含む)が生き残ることはむずかしい。
どうするか。著者も指摘しているように「脱グローバリズム・脱石油の農業へ」の転換を模索する以外に妙手は発見しにくい。その際、考えてみるべきことは、東洋思想の「身土不二」(しんどふに=自分の体と生まれた土地とは一体という意。だから四季に従って土地の生産物の旬のモノを食べること)をどう生かすかである。これは最近強調される「地産地消、旬産旬消」(土地の食べ物で旬のモノを大切にすること)の実践でもある。長い目で見れば、それこそが著者の唱える「自給国家」への道となるのではないか。
*本稿は「安原和雄の仏教経済塾」からの転載です。
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