2009年07月06日15時38分掲載  無料記事
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戦争を知らない世代へ

「東洋のゲルニカ」重慶爆撃の惨事を忘れまい 日中戦争から72周年 中谷孝(元日本軍特務機関員)

  7月7日が七夕だということは知っていても、72年前の1937年(昭和12年)の同じ日に日中戦争が始まったことを知る日本人は少ないだろう。日中戦争に於いては南京大虐殺が大きく取り上げられてきたが、日本軍が侵攻できなかった臨時首都重慶の悲劇を知る人はさらに少ないに違いない。「東洋のゲルニカ」と言われる市民の無差別殺戮が日本軍の重慶反復爆撃により起きていたのである。 
 
 過去戦争の度に戦場となった都市住民は例外なく大きな犠牲を強いられてきた。日本では戦争末期に起きた沖縄戦、或いは本土大空襲による住民被害が語られているが、重慶爆撃の惨状もその例外ではない。「東洋のゲルニカ」と言われるのは、同じ年にスペインのフランコ軍を支援するナチス・ドイツ空軍の爆撃によってゲルニカの多数の市民が犠牲となった惨状に匹敵する激しいものであったからである。 
 
 同年上海攻防戦が決着した日本軍が首都南京攻略に向かうと、南京の国民政府機関は一時漢口に疎開し、更に四川省の省都重慶に移った。翌1938年(昭和13年)10月日本軍は漢口を制圧したが、僅か上流の宜昌を占領した時点で進撃が止まった。補給の限界であった。 
 
 その後は長期に渉り重慶市街に対する爆撃が続いた。重慶は背後に岩山が連なり、政府機関は山腹に掘った横穴に設けられて破壊を免れていたが、市街地の被害は大きく死傷者も多く発生した。その為、山腹に巨大な横穴式防空壕が作られ、空襲の度に多数の市民がそこに避難していた。 
 
 或る日、日本軍の波状攻撃が特に長時間にわたった為、密閉状態の壕内が酸欠となり、奥の方の避難者が開扉を求めて出入り口に殺到し、内開きの門を開くことが出来ず、数千人が窒息死する惨事となった。 
 
 当時、現地新聞には死者一万人と報じられたが、五千人以上とも伝えられている。開戦当初、中立地帯、上海共同租界南京路で大群衆を中国空軍機が誤爆した事件以来の大災害であった。 


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