2009年08月06日11時05分掲載
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マイケル・ジャクソンと蚊のお話 幸せは達成感よりもプロセスに 安原和雄
この世に生を受けたからには誰しも幸せを願うのが人情というものである。ただ人間にとって幸せとは何か。このテーマに頭を悩まし始めたらきりがない、永遠のテーマともいえるが、焦点は、物事を成し遂げたときの達成感なのか、それとも行為のプロセス(過程)そのものにあるのか、である。ここでは幸せはプロセスにあり、という視点から話題を提供したい。
話題の主の一人は、最近死去したあのマイケル・ジャクソンであり、もう一つは夏の夜の厄介者で知られる蚊(か)である。蚊がここでは人間様から感謝される生き物に早変わりして登場してくる。
▽人間は達成感で幸せになるのではない
「幸せはプロセスに」と題する海原純子さん(心療内科医)の「心のサプリ・一日一粒」(毎日新聞日曜くらぶ=09年7月26日付)を興味深く読んだ。まずその要旨を以下に紹介する。
才能があったらどんなに幸せだろう。お金があれば一生幸せなのに。と思うものだが、そうではないらしい。
マイケル・ジャクソンさん(米国のミュージシャン)の死で、それを強く感じた方も多いのではないか。
人は宝くじで数億円当たっても、その幸せに慣れ、お金があるのが当たり前になる。そして、満足度、幸せ度は目減りしてしまうというデータがある。達成感というのは一瞬のもので持続しない。すぐに、もっともっとと欲望が増えていく。
世界を巻き込む大ヒットを放ってしまい、かなえられないような目標を達成できたら、次の目標をどこへ置いたらいいのか。マイケルさんの場合も、その目標を設定できず、心のなかに膨れ上がった不安と焦燥をまぎらわすための浪費や薬だったのだろうか。
人間は達成感で幸せになるのではない。目標に向かって少しずつ登る努力のプロセスに幸せを感じるのだ。マイケルさんもコンサート動員などの数の目標ではなく、より内的、音楽の質的変容を目指していたら、違ったかもしれない。
さて、今、目標に向かって努力する楽しみをもっている人が少ないように思う。単に社会的地位やお金を目標にすると、限りがある。
私事だが、米国で研究することになり、これはどうやら一生やってもしつくせない学問テーマになった。やれやれ、これで死ぬまでプロセスを楽しめそうである。お金にはならないが。(以上引用)
上記一文の要点をまとめると ― 。
・達成感というのは一瞬のもので持続しない。
・人間は達成感で幸せになるのではない。
・目標に向かって努力するそのプロセスに幸せを感じる。
こう指摘されると、ハッとする。達成感がすなわち幸せ感につながると思っている人もいるはずである。ところがそれは、悪しき思い込みにすぎないというのだ。普通、達成感と幸せ感は同じ、それとも違う? ― などと深く考えてはいないので、改めて正面から突っ込まれると、「なるほど」とうなずくほかない。こういう幸せ感からみれば、大富豪(?)マイケル・ジャクソンも決して幸せではないという結論になる。
▽坐禅しながら六波羅蜜(ろくはらみつ)を行ずる
さて仏教の世界ではどうか。「幸せはプロセス(過程)にあり」といえるのかどうか。大乗仏教での修行に六波羅蜜(ろくはらみつ)がある。涅槃(ねはん)、すなわち「一切の悩みや束縛から脱した円満・安楽の境地、分かりやすくいえば幸せ」に至るためのつぎの六つの行(ぎょう)を指している。
・布施(ふせ・他者に施すこと)
・持戒(じかい・不殺生戒などを守ること)
・忍辱(にんにく・じっと我慢すること)
・精進(しょうじん・辛抱して努力すること)
・禅定(ぜんじょう・精神を集中すること)
・智慧(ちえ・真理を見きわめる認識力)
ここでのテーマは坐禅(本来は座禅ではなく、坐禅が正しい)しながら、この六波羅蜜を行ずる方法があるか ? である。
主役として夏の夜に飛び回るあの蚊(か)が登場してくる。じっと坐り続ける坐禅の最中に蚊に襲われたらどうするか、六波羅蜜とどのように関係してくるのか、それが問題である。答えは以下の通り。
・布施=蚊に食われるにまかせて、蚊に血を施す。
・持戒=痒(かゆ)くとも叩かない。これは蚊を殺さないという不殺生戒の修行である。
・忍辱=痒くともじっと我慢する。
・精進=痒くとも辛抱して坐り続ける。
・禅定=蚊に食われても、それに気づかないほどの心境になって坐り抜く。
・智慧=蚊に食われるのではない、食わしてあげるのだ、という智慧を磨く。
坐るだけで、六波羅蜜を行ずることができる。これほどありがたいことはないではないか。ちょっと発想の転換をするならば、蚊に食われることも、実に楽しいではないか。
(以上の答えは、臨済宗妙心寺派第31代管長の故西片擔雪老大師の『碧巌録提唱』=09年2月、岡本株式会社・明日香塾編集発行・非売品=から引用。『碧巌録』は、中国の唐から宋の時代に活躍した高徳の禅師の言行録から百話集めたもので、今日なお日本の禅宗では宗門第一の書とされている)
▽蚊にお布施を!という心境になれるか
田舎育ちの私(安原)にとって高校生の頃までは夏になると、室内でも団扇(うちわ)で蚊と格闘したものである。最近の都会では蚊の影も薄くなり、蚊を追い払ううちわも余り必要がなくなっているように思うが、そういう世の移り変わりはさておいて、蚊にお布施を!という心境にどこまでなりきれるか。凡夫としてはなかなか・・・、ということだが、だからこそあえてやり抜けば、その行為は「幸せはプロセスに」と相通じることになる。修行とはそういうものなのだろう。昔の禅僧は蚊の巣窟とも言える藪(やぶ)のなかであえて挑戦したという。これは蚊に食われて感謝する行為である。
夏の夜の怪談ならぬ小さな蚊のお話となってしまった。もしあなたが、多数の蚊に食われるままに坐禅を続ける人物から血を腹一杯吸い込んで、飛べなくなった蚊が、バタバタと落ちてくる光景を、目の当たりにしたら、どう感じるか。想うに夏の夜の怪談よりも「ぞーっと」身の縮む思いがするに違いない。
一口に「幸せはプロセスに」といっても、そのプロセスは、人の生き方、幸せ感と同様に様々である。
*本稿は「安原和雄の仏教経済塾」からの転載です。
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