2009年08月10日10時59分掲載
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戦争を知らない世代へ
ポツダム宣言受諾の日 日本軍兵士の運命を分けたのは駐留地点だった
1945年8月15日は日本の歴史に残る衝撃の一日だった。日本のポツダム宣言受諾により15年戦争の終結した日である。(中谷孝)
日本帝国主義の暴発とも云うべき第二次大戦に従軍し海外に駐留していた日本軍人は膨大な数に達していた。それが敗戦に際し現地で武装解除を受け帰国する迄の経過は地域によって大きく明暗を分けた。私自身もその一人であったが、極めて恵まれていたことを後日知ることになった。
日本の敗戦が伝わらず戦後三十年に亘り、グアム島或いはフィリピンの小島に潜んでいた軍人もいたが、海外駐留日本軍の集団帰国は1956年(昭和31年)に終了した。その後海外で服役していた戦犯も日本に移送され、巣鴨刑務所に収容されて服役したのである。
海外に駐留していた日本軍人の運命は敗戦時、駐留して地域により大きく分かれた。最も幸運に恵まれたのが、最も長期に亘り最も過酷に接して来た中国国民党支配地域に駐留していた日本軍であったことは意外であった。同じ中国であり乍ら、進入して来たソビエト軍に連行され、酷寒のシベリアで長年月に亘り重労働を課された満州駐留軍との運命の違いは余りにも大きかった。
中国国民党を指揮していた蒋介石は、日本のポツダム宣言受諾の報に直ちに駐留日本軍に接収を申し入れ、四川省沚江に於いて、日本軍総司令官代理との間に降伏調印を行った。更に蒋介石はラジオを通じて国民に対し勝利宣言を行うと共に、「勝利に驕る勿れ、怨みに報いるに徳を以ってせよ」との布告を発し、特に軍人に対して厳重にその実行を命じた。その為日本軍及び民間人の帰国は大きなトラブルを生じることなく終了した。
南方諸地域からの復員も順調に進んだ。保有船舶の大半を撃沈され不足する輸送力を補足したのはGHQから貸与された大型輸送船であった。
中国及南方諸地域からの復員が終わっても一向に進まなかったのは満州から侵入したソビエト軍によりシベリアに連行された60万人を越す軍人であった。スターリンは捕虜をシベリア開発の労働者として酷使することを目論んだ。ソビエトに抑留された軍人の帰国は大きく遅れ、終了したのは1956年(昭和31年)であった。その間、酷寒のシベリアで斃れた兵士たちは6万を越えた。
国際法によって捕虜の虐待は禁じられているが、洋の東西を問わず守られた例を知らない。太平洋戦争終結後、戦勝国により敗戦国が裁かれ、アウシュビッツと南京が特に大きく取り上げられ、責任者の絞首刑により一件落着したが、連合国軍を含め多くの残虐行為が行われたことは余り伝えられていない。
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