2009年08月21日13時55分掲載
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市民派企業経営者・堤清二の今 自公政権退場は転換への第一歩 安原和雄
戦後初めての「政権選択」が焦点の衆院総選挙戦たけなわである。自民党が居残るのか、それとも民主党が新政権の座につくのか、といえば予測の大勢は民主の勝利と出ている。小泉政権時代に猛威を極めた新自由主義=市場原理主義路線の破綻とともに自民・公明政権の寿命は尽きているというべきである。無用な悪あがきはいい加減にして、政権を譲り渡す方が後世において評価されるかも知れない。
問題は民主中心の政権が誕生した場合、変革によって果たして新しい日本をつくることができるのか、である。かつての市民派企業経営者・堤清二、今、市民派文化人として活躍中の辻井喬さんが「自公政権の退場は転換への第一歩にすぎない」など総選挙後の日本の進むべき道について示唆に富む発言を行っている。
▽辻井 喬 「自公政権は退場するとき」
「しんぶん 赤旗」(日曜版・09年8月16日号)が「総選挙目前 作家 辻井喬さん語る」という特集記事を組んでいる。つぎの大きな見出しも並んでいる。
自公政権退場は第一歩です
次へ踏み出すために
憲法守る政党が伸びないと
的確な情勢分析と傾聴に値する問題提起が少なくないので、その大要を以下に紹介する。
*アメリカの一極支配は終わった
今回の経済危機でアメリカの一極支配は終わった。世界は多極化の時代を迎える。中国、EU(欧州連合)をはじめ、アメリカと並ぶ複数の極が生まれるだろう。そうなると、日本にとってアジアでどういう役割を果たすかが一番大きな問題だ。アジアには大きな発展の可能性がある。金融資本・独占企業中心のグローバリゼーションと対抗するためにもアジアの地域的な連携が必要だ。
一言つけ加えれば、私は日本を多極化時代の極の一つに考えていない。
*憲法を守る政党が伸びないといけない
現在の日本は中国、韓国などアジア諸国から信頼されていない。憲法「改正」を党是に掲げる政党がいつまでも政権についているのでは、信頼されるわけがない。自民党はマニフェスト(政権公約)で、いまだに「自主憲法の制定」を掲げている。総選挙でこの勢力を退場させるのが第一歩だ。共産党が言うように、いまの(自公)政権を倒すことがまず第一歩だ。
その後、第二歩、第三歩をどう踏み出すのか。民主党の中にも改憲志向がある。憲法をしっかり守る政党が伸びないといけない。平和主義に徹して、本当の意味で豊かな生活を送れる社会を実現する。憲法を掲げて、世界中にその道を示せるのは日本だけである。
*大事なのは平和と自然環境
日本経済は大きな転換期にある。転換期とは経済だけ考えていれば、経済がうまくいく時代は終わったということで、こういうときは、大事なものから押さえいかなければいけない。それは平和と自然環境だ。人間生活の根本は衣食住。日本の食料自給率40%は深刻だ。この点からみれば、日本は国際的な平和のなかでやっていくしかない。もう一つはきれいな水と空気。これを守ることは国民のためはもちろん、外国から来る人にも魅力だ。
*政治に問われるのは自民か民主かではない
政治に問われるのは深刻な不況で苦しんでいる人の側に立つか、それとも、前と同じもうけを維持しようという側に立つのかだ。あえていえば自民か民主かではない。
メディアは「大きい政府か小さい政府か」「バラマキか財政均衡か」と、すぐに短絡的な図式をつくるが、これは国民を誤誘導するものである。政府は必要なところは大きくしていいし、不必要なところは徹底的に減らす。その結果、全体として減ればいい。
共産党の政策をみると、反対するところがない。筋が通っている。私はどこに(一票を)入れたら日本のためになるかを考えて投票しようといっている。
▽堤清二 「〈市民の国家〉に改造を」
以上は作家・辻井喬としての発言であり、自公政権退場の必要性を明確に指摘している。私(安原)は財界担当の経済記者として市民派企業経営者・財界人としての堤清二とは30年以上も前の1970年代に何度も取材インタビューを含め対話する機会があった。当時すでに辻井喬のペンネームで作品を発表していた。
安原「最近のあの作品、読みましたよ」
辻井「そう、それは有難い」
この程度の会話はあったが、私の関心はやはり堤清二の方に向いていた。当時のインタビュー記事の一部を紹介したい。「〈市民の国家〉に改造を」などと語っている。
(毎日新聞経済部編『揺らぐ日本株式会社 政官財50人の証言』=毎日新聞社刊、1975年=参照)
〈安原〉:公正取引委員会の大企業分割論などを中心とする独禁法強化の動きに対し、経済界は「いまの自由主義経済にとって自殺行為だ」と反対している。独禁法強化は日本資本主義の延命策であるはずだが、経済界の目にはそうではないと映るらしい。どうも経済界はかつて公害反対運動を「目の敵」にしたのとよく似ている。同じ愚を繰り返すのではないか。
〈堤〉:その通りだ。公経済の分野がひろがって、それと私経済との混合による新しい資本主義になっているのに、日本の経営者はいまなおアダム・スミス当時の自由主義経済を頭に置いている。財界だけがタイム・カプセルに入って凍結されている。しかしスミスを読み直してみると、自由競争には限界があるとして、企業家の自己抑制の必要を強調している。とにかく自由にやらせるのが自由主義経済だといっていたのでは、大衆から見放される。
〈安原〉:公経済の分野がひろがっているということだが、どの程度の公権力の介入ならよいと考えるか。
〈堤〉:いまの国家は「市民社会のための装置」という認識を持つべきだ。市民社会のための政府であれば、介入も市民のための介入になるので、企業にとっても歓迎すべき介入になるはずだ。介入が是か非かではなく、介入する国家の体質が市民社会のためになっているかどうかが問題だ。しかしいまの政府はそうなってはいないので、市民社会のための国家に改造していく必要がある。そして介入の仕方、分野、度合について介入を認める立場で注文をつけていく。
▽市民派文化人として今なお健在
以上のインタビュー記事をまとめた1975年当時、堤さんは西武百貨店社長、西友ストアー会長、西武流通グループ代表などの地位にあった。そういう地位にありながら、財界に向かって苦言を呈することに極めて率直であった。だから「体制内反逆者」とでもいうべき特異な存在であった。
インタビューのなかで私(安原)が注目したのは、つぎの点である。これは市民派企業経営者・財界人と呼ぶにふさわしい。
国家は「市民のための装置」であるべきだが、現実はそうなってはいないので、市民社会のための国家に改造していく必要がある。そして国家による介入(行政による公的規制など)を認める立場で市民の側から注文をつけていく ― と。
こういう認識と発言について一面的な観察力しかない昨今の評論家たちは、恐らく「それは社会主義だ」と叫ぶに違いない。社会主義ではなく、市民第一主義ととらえるべきだろう。
もう一つ、私が「えっ?」と感じたのは、イギリスの経済学者アダム・スミス(1723〜90年、主著は『道徳感情論』『国富論』)への理解である。彼はこう語った。
「日本の経営者はいまなおアダム・スミス当時の自由主義経済を頭に置いている。しかしスミスを読み直してみると、自由競争には限界があるとして、企業家の自己抑制の必要を強調している」と。
この指摘に私自身もスミスを読み直してみなければならない、と受け止めたことを記憶している。
例えばスミスの国富論は、自由競争について「正義の法を犯さぬかぎり」という厳しい条件を付けている。いいかえればスミスは決して身勝手な「自由放任のすすめ」を説いたのではない。あの長編の国富論のなかで「自由競争」という言葉はあるが、「自由放任(レッセ・フェール)」は一度も出てこない。堤さんはそこに着目したが、日本の経営者たちで、これを正確に理解している者はごくまれである。むしろ「スミスすなわち自由放任説」という誤解がまかり通っている。
1980年代に入ってから中曽根政権の登場以来、米国主導のあの新自由主義=市場原理主義が導入され、小泉政権時代に猛威を極めることになるが、その基本的な考えは、企業利益を最優先にし、一方、大衆の生活を破綻に追い込む身勝手な「自由放任のすすめ」である。これでは当のスミスにとっては実にありがた迷惑な話そのものである。
堤さんはこうも指摘している。「とにかく自由にやらせるのが自由主義経済だといっていたのでは、大衆から見放される」と。
彼の予測通り、それから30年以上という歳月の経過は、いささか長すぎたとはいえ、新自由主義=市場原理主義は破綻し、その推進役を果たした自民・公明政権が今まさに総選挙によって大衆から見放され、退場を求められようとしている。
かつての市民派企業経営者は今では作家であり、同時に市民派文化人として、その健在ぶりは変わらない。その証(あかし)が「辻井さん語る」の「自公政権の退場」「憲法を守る政党が伸びること」「大事なのは平和と自然環境」などである。
▽二大政党制にこだわるメディアにもの申す
09年8月30日投開票の衆院総選挙が8月18日公示された。新聞メディアの大手紙社説は総選挙の意義をどうとらえているのか。まず5紙(8月18日付)の見出しを紹介する。
*朝日新聞=総選挙公示 「09年体制」の幕開けを
*毎日新聞=衆院選 きょう公示 日本の未来を語れ
*読売新聞=6党党首討論 有権者の疑問に率直に答えよ
*日本経済新聞=09衆院選 政策を問う 政権を選ぶ歴史的な選挙の幕が開く
*東京新聞=09年衆院選きょう公示 さあ本番 覚悟新たに
毎日社説はつぎのように指摘している。
歴史的な選挙戦のスタートである。「歴史的」なのは、言うまでもなく政権選択の選挙だからだ。外国では選挙による政権交代は何ら珍しくない、しかし日本では1955年の保守合同以来、もっぱら自民党を中心とする政治が続いてきた ― と。
「政権選択の選挙」という認識は各紙に共通している。この認識に異をはさむ余地はない。その通りである。ではどのような政権選択なのか。
朝日社説はつぎのように論じている。
健全な民主主義をつくるために2大政党による政権交代が望ましいという考え方は、昔からあった。(中略)せっかくの2大政党・政権交代時代の流れを逆戻りさせることは許されない ― と。
一方、読売、日経、東京の各社説はつぎのように連立政権に言及している。
読売=今回の選挙は、自民・公明の連立政権の継続か、民主・社民・国民新の連立政権か、を選ぶ性格を持っている。
日経=自民、民主のどちらが第1党になっても連立は不可避の情勢だ。「建設的野党」の立場を打ち出した共産党を含め、各党は選挙後の連立政権に臨む基本方針を示して、有権者の判断を仰ぐ必要がある。
東京=国民新、社民両党は民主との連立政権を見込み、共産と渡辺喜美氏らの新党は自民とも民主とも一線を画す。
毎日は外交、安全保障、日米同盟に重点を置き、2大政党制にも連立政権にも触れていない。
以上から分かるように2大政党制にこだわっているのは朝日である。また3紙の連立政権論も2大政党を軸にしたものである。問題は自民と民主の2大政党の間で政権交代を行う2大政党制の是非である。冒頭の辻井発言、「政治に問われるのは自民か民主かではない」、つまり2大政党制にこだわるのは疑問という説に賛成したい。
その理由は自民と民主は政策面で大差ないこと、この両政党の間の政権交代だけでは日本の現状打開にも未来にも希望が持てないこと、さらに小選挙区中心の現行選挙制度では死票が多すぎて、有権者の意思を正しく反映しないこと、などである。
ただ今回の総選挙では民主党が勝利を収めて、自公政権は退場するのが望ましい。それを第一歩として新しい日本への変革が始まることを期待したい。
*本稿は「安原和雄の仏教経済塾」からの転載です
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