2009年10月03日11時52分掲載
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文化
イランに「おくりびと」はいるのか? テヘラン共同墓地ベヘシュト・ザハラーを訪ねて 大村一朗
映画「おくりびと」のオスカー受賞のニュースは、映画大国イランでも、主要紙の文化欄や芸術欄で少なからず取り上げられた。そこでは、真摯な社会的ドラマとして評価されてはいるものの、この映画がイランで公開されることは、まずないだろう。男性の納棺師が女性の遺体を着替えさせたり、身体を拭いたりすることは、イスラムの倫理に触れるからだ。
イランには、納棺師という仕事は存在しない。なぜなら、棺桶そのものが存在しないからだ。死者は洗浄されたのち、白布で包まれ、そのまま墓穴に納められる。強いて言うなら、遺体を洗い、最後の処置を施し、白布に包む仕事が納棺の仕事に当たる。イスラムでは、果たしてどのように人を「おくる」のか。それを見るため、テヘラン郊外の共同墓地ベヘシュト・ザハラーへ向かった。
◆テヘラン市民の行き着く場所
テヘランから南へ40分ほど車を走らせた郊外に、広大な共同墓地ベヘシュト・ザハラーがある。イスラム教徒は土葬であるため、衛生面や場所を取ることなどを考慮し、たいていどこの町でも、郊外の荒野に広大な共同墓地を擁し、ほとんどの市民がそこへ葬られる。ベヘシュト・ザハラー墓地も、人口800万のテヘラン市民の共同墓地として、今も拡張を続ける総面積434ヘクタールの広大な墓地だ。
墓地の門を車でくぐると、直線道路が延々と続き、その左右には、木立に囲まれた墓地がどこまでも続いている。
「ここは1つの国みたいなもんだよ。大統領も、軍隊も、芸能人も、一般市民も、みんなここに眠っているんだから」
今日、ここへ私を案内してくれたスィーロスさんが言う。
「もう何回も来たことあるけど、広すぎて道順が覚えられないね」
私たちが探していたのは、ガッサール・ハーネと呼ばれる遺体洗浄場だ。
イランでは、自宅に遺体を安置し、通夜や葬儀を催す習慣はない。家族が亡くなれば、その当日か、遅くてもその翌日には埋葬される。埋葬にあたって、遺体とその関係者がまず訪れるのが遺体洗浄場である。
ようやくたどり着いた遺体洗浄場は、周囲の静寂とは対照的に、喪服に身を包んだ数百名の人々であふれかえっていた。突然の訃報に、まだ心の整理もできていない人々が、いたるところで泣き崩れている。
大理石でできた建物から、洗浄を終えた遺体が担ぎ出されてくるたびに、「ラー イラーハ イッラッラー(アッラーの他に神はなし)」の掛け声と、遺族の泣き叫ぶ声があたりに響き渡る。遺体洗浄場の入り口は、男性用、女性用に分かれており、誰でも自由に建物の中に入り、遺体の洗浄を見学できる。
見学サロンは、部屋の左右両面に張られたガラス窓越しに、洗浄室の様子を覗き込むことができるようになっており、どこか産婦人科の新生児室を思わせる。洗浄室には、石造りの台座と浴槽が4セット置かれ、緑のつなぎにゴム長靴とゴム手袋、腰痛対策の太い革ベルトといういでたちの洗浄人の男たち5、6人が待機している。
遺体は、黒いナイロンの袋に入れられ、担架で運ばれてくる。それを2人がかりで石の台座に乗せると、ナイロンの袋を開け、遺体の着ているものを手際よくハサミで切り、あっという間に丸裸にしてしまう。今度はそれを空の浴槽に横たわらせ、身体全体にシャワーをかける。大きなスポンジで立てた泡で身体中を包み込むように洗い、防腐剤入りの液体をバケツで身体全体にかけ、身体に傷口などがあれば、そこに薬品をふりかける。そして、再び台座に戻すと、ビニールと何枚もの白布で身体を巻き、頭と足の先を白い帯で縛り、再び担架に載せて、遺族の待つ外へ送り出す。1人あたり、ものの5分もかからない。手馴れた作業だ。
次々に運び込まれ、運び去られてゆく遺体。病院で長い闘病の末に亡くなった遺体には、それとわかるタグが付いている。一方、事故や、自宅で亡くなった場合には、必ず検死が行なわれ、そうした遺体には、喉元から下腹部付近にかけて、縦一文字の派手な縫合跡が見られる。
見学サロンでは、自分の親族の遺体が運ばれてくるまで、他人の遺体洗浄を興味深げに見学する人が多い。ナイロンから遺体が顔を出すたびに、ギャラリーからのため息や舌打ちが響く。それが若者であれば、「かわいそうに」、「事故かな」、「病気だろ」とささやきが漏れる。
実際、20代と思われる若者の遺体が多いのに驚かされる。建設現場で鉄筋の下敷きになって亡くなったという青年の洗浄では、遺族や友人の泣き叫ぶ声がサロンに響いた。小児癌だろうか、骨と皮だけになった10歳くらいの男の子の遺体には、直視できず、首を振りながら立ち去る人も少なくなかった。縫合跡のある、20代の若者の洗浄では、ガラス窓に頭を打ちつけ、「なぜ先に行く」とつぶやきながら、その様子を見守る父親の姿があった。
「自殺だってよ。薬で」
まわりにいる誰かがささやく。
「あの父親、麻薬中毒だな。しゃべり方でわかる」
イスラムでは、自殺は、完全に楽園への扉が閉ざされる、償いようのない罪とされる。そこに至るまで、この青年はどれほどの精神的ストレスに苦しんだのだろう。見渡せば、この父親以外、彼の洗浄を見守る人の姿はないようだった。
洗浄室の男たちの仕事は、少々荒っぽいものだった。シャワーも薬液も顔面から浴びせかけるし、けっして邪険な扱いではないものの、遺族の見ている前でもう少し丁寧にできないものかと思った。そもそもこの作業を5分で終わらせること自体、無理がある。だが、日に100体以上の遺体がここに運ばれてくるのだから、5分で1体を終わらせなければ、日が暮れてしまう。イスラムでは、埋葬は日没前に終わらせなければならない。それは彼らの腕にかかっているのである。
遺体洗浄の光景は、たとえ無残な手術跡があろうと、事故による無残な損壊があろうと、目を背けたくなるようなものではけっしてなかった。それはおそらく、彼らが亡くなって一両日中であるため、遺体がまだ新しく、その表情に至っては、生きた人間の安らかな寝顔となんら変わりがないからだった。顔にシャワーをかけられた瞬間、驚いて目を覚ますのではないかと思えるほど、人間らしさを残していた。
不謹慎を覚悟で言えば、私は、次々と運ばれてくる遺体を見ているのが、とても面白かった。死には、それぞれ理由があり、その人の人生が滲む。死体という、最も無防備な姿を眺めるのは、その人の人生を覗き見ているような感じさえした。裏を返せば、同性とはいえ、大勢に赤の他人に自分の遺体の洗浄を見学されるのは、ずいぶんなプライバシーの侵害である。洗浄中、死者の尊厳をかろうじて守っているのは、下腹部に掛けられた1枚の布切れだけだ。
スィーロスさんが横から私につぶやく。
「ここに来ると、本当に人生について考えてしまうよ。つまらないことで人といがみ合っていることが本当に馬鹿らしく思えてくる。だって、人生なんていずれ、ほら、こんなふうに終わるんだから」
テヘラン市民のスィーロスさんにとっては、これら4つの浴槽は、いずれ必ずそのうちの1つに自分も横たわり、同じようにシャワーと薬液を頭から掛けられる場所なのだ。私とは、抱くリアリティーの質が違うのは当然だ。
◆死者の行く末を案じる
洗浄を終えた遺体は、親族の男たちの肩に担がれ、埋葬場所へと向かう。私は、24歳で肝臓を病んで亡くなったという青年の葬列とともに歩いた。
この青年のいとこだという男性が、肩を抱えられながら泣き崩れる人たちを指差し、あれが故人の母親、あれが半年前に結婚したばかりのお嫁さん、などと教えてくれる。つい昨日亡くなったばかりなのだから、死者との別れもまだ十分にできていないのだろう。泣き叫び、全身で悲しみを表している。
埋葬地には、網の目のように墓穴が掘られている。実際には、1つ1つ掘られたものではなく、巨大なプールのようなものをブルドーザーで掘り、その内部をレンガの壁で格子状に区切り、その1スペースが1人用の墓穴となる。深さは2メートルほどあり、上下2段に区切って埋葬することも可能だ。
埋葬を前に、ここで最後の儀式が行なわれる。墓穴に横たわった死者に、最後の礼拝を行なわせるのだ。白布の結び目を解き、死者の顔を少しだけ外に出してやり、その顔をメッカの方角に向けさせる。そして、あたかも生きている人間が礼拝を行なっているかのように、近親者がその肩をゆすってやる。次に、聖職者が死者に向かって特別な祈りを捧げ、その中ではイスラムの預言者やイマームたちの名が唱えられる。埋葬された夜、死者の傍らに天使が現れ、そうしたことを試問するからだ。死者はそれに正しく答え、晴れてあの世へと旅立って行く。
最後に、遺体の上から泥が流し込まれる。泥で遺体を封じ込めると、上から石板で閉じ、その上にさらに土が盛られる。
墓穴の中に、故人の遺品を忍ばせる習慣はない。現世への執着を最も醜いこととするイスラムでは、物品を埋葬することはもちろん、死者に化粧をほどこしたり、美しく着飾らせたりすることさえ、無意味な行為とされる。イスラムでは、来世に持ってゆくべきものは、現世の行ないだけであるとされる。それによって、最後の審判の日、地獄行きか天国行きが決まるからだ。
「裸でこの世に生まれてきたのだから、裸でこの世を去ってゆけばいい。死者に金持ちも貧乏もないでしょ」
スィーロスさんによれば、残された遺族にとって何より重要なのは、死者が楽園にゆけるかどうかだけだという。
死者を送り出した後、遺族は3日目、6日目、40日目に、改めて死者の追悼式を行なう。近所のモスクを2時間ほど借り切り、お坊さんを呼んで礼拝を行ない、その後、招待客に昼食を振舞う。遺族は40日忌まで黒い服を着て喪に服す。
盛大な追悼式を催す代わりに、自宅で身内だけの簡単な式を行ない、浮いたお金を貧しい人に寄付する遺族もいる。また、週末には、甘いナツメヤシの実を商店で買い、他のお客にふるまうため、レジの横に置いてゆく人もいる。こうした寄付やふるまいは、死者の魂を安らかにし、その旅路を平穏なものとするためだ。
映画「おくりびと」の魅力の1つは、日本人ですら気づかなかった、死者をおくる様式美に触れることだ。イランにはイランの、イスラムにはイスラムの、死者をおくる様式美というものがあるのなら、それを見てみたい。そう思って訪ねたベヘシュト・ザハラーの遺体洗浄場だったが、彼らの仕事の中に、洗練された美はなかった。彼らの仕事は、死者を清めるというよりも、埋葬後の、腐敗による臭気や伝染病の発生を防ぐための処置という意味合いの方が強い。
この違いは、現世を仮の住処とし、来世の永遠こそを重んじるイスラムの死生観によるものだろう。イスラムでは、残された遺族にとって何より重要なのは、死者の来世での魂の安らぎであり、死者が楽園にゆけるかどうかだ。残された遺族の心情を慮ることではない。そのため、遺体の洗浄に様式美が伴う必要は全くないのだ。
では、遺族の心情に重きを置く、日本の納棺師のような仕事は、イスラムの死生観の前では無意味な存在となってしまうのだろうか。
後日、映画「おくりびと」を観たイラン人の友人は、その感想をこう述べた。
「納棺師の仕事によって、残された人の心が救われたり、考え方が変わったりする。それだけでも、とても意味のある仕事だと思う」
人の心は、時に、宗教や習慣の違いを容易に乗り越えてしまえるほど、柔軟なものなのかもしれない。さもなければ、この映画がオスカーを取ることなど、なかっただろう。
*本稿は、出版社「めこん」のホームページに掲載の「大村一朗のイラン便り」の転載です。
http://www.mekong-publishing.com/
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