2009年11月23日13時42分掲載
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社会
作文「進化する親切」の波紋に期待 相手が喜ぶからこそ自分も楽しい 安原和雄
新聞投書はよく読むようにしているが、最近は寒々とした光景、殺伐とした体験などをつづる投書が目立つ。現実の日常生活でも路上を歩いていて、あるいは電車の中で争いや乱暴な姿勢に出会うことが珍しくない。有り体にいえば、その背景には破綻したはずのあの新自由主義(=自由市場原理主義)路線の残影が色濃く浮き出ている。弱肉強食の争いの渦中で目先の私利、小利を追い求める自分本位の姿勢が目立つのである。
しかし救い、希望がないわけではない。「小さな親切」作文コンクールで女子中学生が受賞した「進化する親切」は光っている。その趣旨は自分本位とは正反対で、「相手が喜んでくれれば、自分も楽しい」という利他的行為を日常感覚で表現した作品である。「進化する親切」が日本列島上に次々と波紋を広げていくことを期待したい。
▽ 「本当に相手のことを考えたとき、親切は進化する」
第34回「小さな親切」作文コンクール(「小さな親切」運動本部主催、毎日新聞社後援)で、西東京市立明保中学校3年、本橋りのさん(15)が、「小さな親切」運動本部賞を受賞した。作文のタイトルは「進化する親切」で、本橋さんは、このコンクールでは1年生で特別優秀賞、2年生で優秀賞、さらに今回で3年連続の受賞となった。
作文「進化する親切」(毎日新聞09年11月11日付・大要)を紹介しよう。
母の職場に行ったときのこと。近くにある駐輪場の管理人さんが、自転車のサドルを雑巾で拭いているのを偶然見かけました。一生懸命拭き続ける姿を見て、(駐輪場を利用している人は、おじさんがサドルをきれいに拭いているのを知っているのだろうか。おじさんは会社から言われて拭いているのだろうか。)と、とても気になりました。しかし聞く勇気はなく、そのまま通り過ぎてしまいました。
職場についてから、おじさんのことを話すと、「私もよく見る。どうなんだろうね。」母も気になっていたようです。
それから何ヶ月かして・・・(中略)
数カ月後、母は少し興奮したように駐輪場のことを話し始めました。その日は、午前中から雨が降っていました。駐輪場にあるすべての自転車のサドルに白いビニールがかぶせられていたというのです。近くにも駐輪場がありますが、ビニールがかけられているのはここだけだ、というのです。
「あなたに頼まれていたから、気をつけて見ていてよかったわ。本当にきれいなのよ。」
きちんと並べられた自転車。白いサドル。
(私も見てみたかったな。)
中学校生活最後の夏休み。私はおじさんに会う決心をしました。
はじめは、「親切だなんて。」と言って、大きく手をふっていたおじさんですが、私が前からこの親切に関心をもっていたことを話すと、いろいろなことを教えてくれました。
水を吸収してしまうサドルと、はじくサドルがあること。サドルが拭かれていることに気がついた人が、お礼を言ってくれたこと。レジ袋を、奥さんに頼んで集めておいてもらったこと。しかし三百台近くある自転車すべてにかけるため、ポケットマネーで袋を買ったこと。「自分だったらどうしてもらいたいかな。」と考えて、自分で始めたのだということ。
私だったら、仕事は楽なほうがいいし、なぜそこまでするのですか、と聞いたところ、おじさんは会社を退職するまで毎日、お客様がどうしたら喜んでくださるかと考えていたからだ、と楽しそうに話してくれました。
「本当に相手のことを考えたとき、親切は進化する。」
長い間の疑問の答えは、これでした。
▽ 寒々とした光景、そして殺伐とした体験
さて親切とはまるで逆の事例を新聞の投書欄から紹介しよう。一つは、「無言で道尋ね、去る 寒い光景」と題する投書(朝日新聞・09年11月11日付「声」欄、投書者は東京都東村山市 駅員31歳)である。
新宿駅の駅員として、一昔前ならなかったであろう光景を目にします。
道を尋ねてくる人が「すいません、これ」という一言の後、携帯の画面にある乗り換え案内や地図を無言で駅員に見せる。目指す方向がわかった途端、案内を最後まで聞かない。「ありがとう」も言わずに立ち去る人が、予想以上に多い。ゲーム機を操作しながら尋ねる人もおり、目と目が合わないコミュニケーションもあります。
いつからこのようになってしまったのでしょう? コミュニケーション能力の問題以前に、モラルの低下を感じます。
ターミナル駅では疲弊した人の往来を含め、豊かな国の貧しい一面を目の当たりにするつらさがあります。礼節を尊ぶ日本人の道徳観が失われる現状に危機感を覚えます。今見逃すと、取り戻すのに時間がかかりそうです。何とかしなければいけません。
もう一つは、「殺伐とした通勤電車はつらい」という見出しの体験記(朝日新聞・同月17日付「声」欄、筆者は東京都稲城市 会社員44歳)である。
通勤ラッシュの夕方の地下鉄で、女性にけられたり、男性に絡まれたりした。世の中に殺伐とした雰囲気が漂い、通勤がつらいと感じる機会が増えた。
銀座線の赤坂見附駅で3週間前のこと、ドア脇にいた20代後半のOL風の女性が、降りる乗客が多いため、ホームに押し出された。この女性から2人後ろにいた私もホームに降りた。いきなり後ろからこの女性に右足のふくらはぎをけられた。振り向くと、女性は無言で地下鉄に乗り込んだ。痛くて見たら血がにじんでいた。
同線虎ノ門駅で先週には、携帯を見ながら乗り込んできた30代のスーツ姿の男性に絡まれた。車内は満員に近く、私の後ろには年配の男女がいた。少し踏ん張って、乗り込んできた男性の勢いを制した。すると男性は「てめえ、やる気か!」と怒鳴った。私が無視をしてことなきを得た。
物騒な人には思えない2人がなぜ、と思う。これからも気が立っている人が増え続けるのだろうか。
▽ 〈安原の感想〉 ― 「自分本位」は楽しくない
地下鉄銀座線の虎ノ門駅で、携帯を見ながら乗り込んできたスーツ姿の男性が「てめえ、やる気か!」と怒鳴った ― を読んだとき、私(安原)自身のささやかな体験を想い出した。
*「文句あるか!」 とすごまれたことも
もう10年も前のことで、場所はJR秋葉原駅の長距離列車の切符売り場であった。窓口は2つあったが、どういうわけか1つしか開いていなくて、10数人が行列を作っており、私はたしか先頭から5、6番目に並んでいた。駅員に相談しながら切符を求める人もいて、流れが停滞し、行列に多少イライラ気分がみられ始めた頃、もう一つの窓口も開けられた。
小さな事件はその時、起こった。最後尾で待っていた40歳前後の男が、その窓口を目指して突進し、1番目となったのである。私はその男に向かって声をかけた。「順番を守りましょうよ」と。その男は私を振り向いてすごんでみせた。「文句あるか」と。スーツ姿でネクタイもちゃんと締めて、それなりの会社のサラリーマン風であった。
「申し訳ないが、事情があって急いでいるので・・・」とでも説明すれば、こちらも「どうぞ、どうぞ」で、丸く収まるはずだが、ルールを破っていながら、「文句あるか」はないだろう。私はその瞬間、「こういう男が勤めている会社なら、間もなく倒産だな、お気の毒に」と内心感じて、怒るよりもむしろ憐れみを覚えた。
*ゲーム機やケータイ電話の奴隷に
「ありがとう」も言わずに立ち去る人、ゲーム機を操作しながら尋ねる人 、さらに携帯(ケータイ電話)を見ながら歩く人・自転車に乗る人・車を運転する人 ― 投書の指摘にまつまでもなく、こういう光景は今では珍しくない。
要するにゲーム機やケータイ電話を自主的に活用しているというよりも、その奴隷と化しているようなもので、周囲のこと、他人様(ひとさま)のことに目が届かない、気づこうともしない。まさに自分本位の横行である。自分本位の所作で楽しいだろうか、幸せを感じるのだろうか。いのちの危険に直面する恐れもあることに気づかないのだろうか ― など様々な感慨が湧いてくる。
*相手が喜んでくれるから自分も楽しい
これに対し、作文コンクールの「進化する親切」は自分本位とは対極の位置にある。作文中の「お客様がどうしたら喜んでくださるか、と楽しそうに話してくれました」に注目したい。「相手が喜んでくれるから、自分も楽しくなる」というお返しがあるということだろう。目先の私利、小利にこだわる自分本位では相手は喜ばないし、自分自身も楽しくならない。そこに着目した女子中学生の作文は光っている。こうした若者が次々と増えていけば、日本の未来は明るいだろう。
仏教に「自利利他円満」という考え方、生き方がある。その意味するものは、まず他人様のお役に立つこと、そうすれば、結局自分へのプラスとなって返ってくるということ。いいかえれば「世のため、人のため」の利他的行為のすすめである。たとえば電車、バスで座席を譲るようなささやかな行為も、利他の実践といえる。そこにはささやかであるにせよ、満足、喜びがある。
*本稿は「安原和雄の仏教経済塾」からの転載です。
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