2009年11月23日15時54分掲載
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ロシアン・カクテル
(11)ロシア人の心とは? 未知の世界に夢と理想を求めて葛藤 タチヤーナ・スニトコ
ロシアの物語は、よく次のように始まる。「むかしむかし、ある国のある家に誰それが住んでいました。」そして主人公は大体遠くへと旅に出かけるのである。皇太子イワンは、自分の行き先もわからずに火の鳥を探しに、或いは賢女ワシリサを求めてはるか遠い国へと出発するのです。つまり、旅はロシアのおとぎ話でいつも使われる筋書きの主題なのである。主人公は必ず未知の場所に向かって出発し、大変なさまざまな困難を克服する。おとぎ話の中には「未知の世界へ出かけて見知らぬものを持ち帰れ」という題名のものもある。
実際、ロシアの大地・空間は広大である。昔、人々が遠くに離れ去る時、例えば、娘が遠くに嫁いだり、息子が村から町に出たりする場合、何年も或いは2度と会えない可能性があった。
ロシアに住んでいる人たちには自分と国を不可分の一体、即ち自分の「家」として感じることは難しい。「母国」はいつも遠方・遠地であり、「母国の広大な空間」なのである。「母国の広大な空間」については、ロシアの小学生が初めて学校に入学したときに読む初等読本の「母国の広大な空間」」には、次のような沢山の歌が載っている。
広き我が祖国
花咲く草原 畑よ森よ
これぞ偉大なる 労働のみのり
自由の大地 広き畑
美わし豊かな 我が大地よ
美わし豊かな 我が大地よ
何百万という人々がスターリンの収容所に入れらたあの恐ろしい1936年に作られたこの歌をロシア人たちは良く知っている。この歌は数年の間ソ連時代のラジオ放送のコールサイン(呼び出し曲名)として使われていた。
人は国に境界があることを感じていないと、未知の地平線を越えて出かけていこうとするようになるのである。
無限の空間を「開拓すること」は、ロシアの特有な観念なのである。長期間に渡ってロシアの旅人は地平線のはるかかなたへ向かってシベリア・極東・コーカサスの土地を開拓してきた。ウラジオストク(東方を支配する)やウラジカフカス(コーカサスを支配する)という町の名前はその特徴的なものである。一昨年ロシアが北極圏の大陸棚の大きな部分をロシアの所有であると宣言したのはその傾向の一つの現れである。
無限の空間というものはいつでも不確かで未知なるものなのである。それ故、自由というものはいつでも無秩序、有名なロシア語の「タスカー:寂しさ・憂鬱」、となる可能性があるのである。「タスカー」というのは魂が不確かな何かを求める感情であり、何かわからない不確かさ故に、それは人を悲しい感じにさせるのである。この感情の故に人は運命や幸運といったものを信じたくなるのである。
ロシア語の有名な “Авось”「アヴォシ」という言葉は普通、「多分」「ひょっとしたら」と訳される。だが、「アヴォシ」は常に、ひとりでにすべてがうまくいくのではないかという期待を表現する。(「大丈夫さ」「何とかなるさ」)自分では何もしなくても(ロシア語には日本語の「頑張る」に正確に対応するものがない)、不愉快な状況からの出口がひとりでに見つかる(というニュアンスがある)のである。
ロシアのおとぎ話「ひとりでに(カマスの命令で)」の主人公エメーリャもこのように振舞う、つまり、暖炉の上で寝ているだけで、すべてが自然にうまくいくのである。
“По щучьему веленью”ひとりでに(カマスの命ずるところ)[抜粋]
(カマス:細長い体の食用海魚)
昔々ある所におじいさんが住んでいました。彼には3人の息子がいました。二人は賢く、3番目のエメーリャは馬鹿でした。二人の兄弟は仕事をしていましたが、エメーリャはというと、一日中ペチカの上で横になっていて、何もしようとしません。ある時、兄弟が市場に行っていない時に、嫁達が、彼を水くみにやろうとしました。
エメーリャはペチカの上から彼らに答えて言います:いやだよ
―行って来てよ、エメーリャ。
―もう、分かったよ。
エメーリャはペチカからはい降りて、川に行きました。エメーリャは氷にくり抜かれた穴にカマスを見つけました。カマスを手に捕まえると、それは、突然人間の声で話出したのです。
―エメーリャ、僕のこと放してよ。そしたらあんたの役に立つからさ。
エメーリャは笑って言います。―お前が何の役に立てるというんだい。
カマスは彼に聞きます。―エメーリャ、エメーリャ、あんたが何を望んでいるのか言ってごらんよ。
―バケツどもが自分で歩いて家に帰って欲しいもんだよ、 しかも水がこぼれないようにね。
カマスが彼に言うことには、―僕の言葉を覚えておくんだよ。何か望むことがあったら、「カマスの命ずるままに、僕が望むままに」とさえ言えばいいんだよ。
エメーリャは言いました。―カマスの命じるままに、僕が望むままに、バケツども、自分で家に歩いていくんだ...
そう言うや否や、バケツはひとりでに家に向かって歩き出しました。エメーリャはカマスを穴に返し、自分はバケツの後を追って歩き出しました。
バケツが村を歩いていくと、人々は驚いている様子。でもエメーリャはその後をただ笑って歩いているばかり...バケツは百姓の家に入り、自分で長椅子の上に載り、エメーリャは、ペチカによじ登りました。...エメーリャは皇女マリヤと結婚し、国を治めることになりました。(ハッピーエンド)
他にも次のような例がある。ロシアの船乗りとスペインの居留民コンチータとのロマンチックな愛の物語である「ユノナとアヴォシ」というミュージカルがある。“アヴォシ”とは、船乗りレーザノフがアメリカへ航行する時に乗っている帆船の名前である。(望むところに着くだろう)
「何事もないだろう(無事に済むだろう)」(橋が危ない状態であるのに、それを修理しない。今にも崩れ落ちそうな屋根を修理しない。原子力発電所を建設しているものの、しかるべき防御システムがない:何も悪いことは起こるまい。)
「На авось(運まかせに)」は、理性に反して何も悪いことは起こらないだろう、何とかうまくいく、或いは何事もないだろうと期待すること、幸運や僥倖、ハッピーエンドを当てにすることを意味する。На авосьは、当てずっぽうに、あらかじめ何も考えずに、といった意味である。
有名なお笑い芸人アルカージイ・ライキンが買い物網を意味するавоськаという言葉を考えついた。(よもやそこから何も落ちることはないだろう。)これは糸で編まれた穴が沢山あいているようなものである。もし、買ったもののサイズが穴よりも大きければ、落ちることもない。
ロシア人は СУДЬБА”スヂバ“「“運命“」という言葉をавосьと同じように理解している。
ある人がいつも車を道路の真中に、時として何日も鍵を閉めずに放置している。
「どうして君は車の鍵を閉めないんだい?−と彼は聞かれた−今の時代じゃ皆、自分の車には鍵を10個ずつつけているよ。」「それは、運命を知らない奴らさ。」−と彼は冗談でも言うかのように答えた。
ロシア人はいつも理想・完全調和・究極の美を追い求めているのであるが、それらは到達不可能なのである。20世紀の共産党のユートピアはこの典型的な例なのである。
ロシア人は常に国の運命を心配する傾向がある。多くのロシア人作家や思想家が心を痛めながらもロシアの運命を扱うのは偶然ではない。彼らはただロシアの運命を定めよう(裁こう)とするのではなく、ロシアを住み良くしせめて思考の中だけでも、その去りやらぬ秘密、永遠の謎を理解しようとするのである。(ソルジェニーツィン「ロシアをいかにして住み良くすべきか」)。
人間の魂の中の未知なる分野へと探求する心が偉大なロシア文学を生み出すことになったのである。“人間の心を、暗黒の部分も含めて、言い尽くす”という崇高な目標でドストイェフスキーは小説を書いたのである。ロシア文学の世界というのは到達不可能な理想に向かっての永遠の戦いなのである。
自分自身さえ理解できないのに、夢や現実における理想を求めて葛藤しているロシア人をいったい誰が理解できるのであろうか・・・・。(つづく)
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