2010年01月02日14時44分掲載
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検証・メディア
日米安保体制はもはや聖域ではない 2010年元旦「社説」を論評する 安原和雄
今年2010年は「安保50周年」である。1960年に現行日米安保条約が締結されてから半世紀の歴史を刻んできた。半世紀という異常に長い期間続いてきた軍事同盟・安保を今後も継続するのか、それとも変革(チェンジ)の21世紀にふさわしく転換し、新しい日米関係の構築を模索するのか、その大きな選択が問われている。
元旦の大手紙社説は日米安保をどう論じたか。メディアの世界では朝日新聞をはじめ、安保容認論が広がっている。日米安保の本質は軍事同盟であるが、その本質が果たして理解されているのかどうかに危うさを感じる。強調すべきことは、日米安保体制といえども、もはや決して批判を許さぬ聖域ではないということである。そういう視点で元旦社説を論評する。
▽ 元旦社説は日米安保をどう論じたか(1) ― ユニークな東京新聞社説
大手5紙の元旦社説は日米安保体制(=日米同盟)をどのような視点で論じたか。まず社説の見出しを紹介する。
*朝日新聞社説=激動世界の中で より大きな日米の物語を
*毎日新聞社説=2010 再建の年 発信力で未来に希望を
*読売新聞社説=「ニッポン漂流」を回避しよう 今ある危機を乗り越えて
*日本経済新聞社説=繁栄と平和と地球環境を子や孫にも
*東京新聞社説=年のはじめに考える 支え合い社会の責任
これらの見出しから判断するかぎり、一般的、抽象的な見出しとなっているので、具体的な中身は、分かりにくい。日米安保に関する記述量の多い順に並べ替えると、朝日、読売、日経、毎日の順で、東京は安保には一行も触れてはいない。
しかし東京新聞は表面上は安保には言及してはいないが、それは軍事安保(軍事力中心の安全保障)の話であって、それとは異質の経済安保(経済的安全・安心を土台とする安全保障で、かつて1970年代の大平自民党政権時代に話題になった)には触れているといえるのではないか。社説筆者の意図はともかく、私(安原)はその意味でユニークな社説と読みとりたい。
社説の中の「個人の自己責任でリスクに備えるよりみんなで支え合う方が有効ですし、失われてしまった社会連帯の精神を取り戻すことにもなる」という指摘に着目すべきで、社会的連帯感を失った国が軍事的防衛力をいくら増強しても、しょせん有効とはいえない。
「主体者としての覚悟は」という小見出しの下に書かれたその趣旨は以下の通り。
〈東京新聞社説〉
◆主体者としての覚悟は
高度経済成長時代に企業と家庭が担った福祉はグローバル経済下では不可能になりました。働く夫と専業主婦がモデルだった家庭も共働き夫婦に姿を変えています。子ども手当には、未来の担い手は社会が育てるとの理念とともに雇用不安と格差社会での新社会政策の側面が含まれます。「コンクリートから人へ」の財政配分も時代の要請でしょう。
医療や介護、教育や保育などはだれもが必要とする社会サービスで、やはり国が提供すべきでしょう。結婚したくてもできない、子どもを産みたくても産めない若者の増加をこれ以上見過ごすことはできないからです。
国の所得再分配機能と平等化が重要になっていますが、生活安心のための施策に財源の裏付けを要するのは言うまでもありません。月二万六千円の子ども手当には毎年五・五兆円の恒久的財源が、〇七年度に九十一兆円だった医療、年金、介護などの社会保障給付額は、二五年度には百四十一兆円に膨れると試算されています。財源問題をどうするのか。
歴史的と呼ばれた昨年の政権交代の真の意義は国民自身の手で政権交代を実現させたことでした。国民の一人一人が統治の主体者として責任を負ったのです。政治や社会の傍観者であることは許されず、どんな社会にするかの主体的覚悟をも問われたのです。
福祉や社会保障は弱者救済や施しの制度ではありません。われわれ自身の安心のためのシステムです。企業や家庭からみんなが支え合う時代へと移りつつあります。個人の自己責任でリスクに備えるよりみんなで支え合う方が有効ですし、失われてしまった社会連帯の精神を取り戻すことにもなるはずです。
政府も税や社会保険など国民負担について率直に語り、論議は深められていくべきです。消費税ばかりでなく所得税も。一九七〇年代は75%だった最高税率は現在40%、税の累進制や社会的責任の観点からこのままでいいかどうか。グローバル時代に適合する公平・効率の税制が構築されるべきです。わたしたちもその責任から逃れることはできません。
▽ 元旦社説は日米安保をどう論じたか(2)― 同盟擁護に積極的な朝日新聞
朝日新聞社説は、同盟という安定装置、「納得」高める機会に、アジア新秩序に生かす、の3つの小見出しを付けて以下のように論じている。大手紙のなかで一番力を入れて、日米同盟擁護論を説いているのが朝日である。なお読売、日経、毎日の安保に関する社説の内容紹介は省略する。
〈朝日新聞社説〉
■同盟という安定装置
最強の軍事大国と専守防衛の国。太平洋をはさむ二大経済大国。類(たぐい)まれな組み合わせをつなぐ現在の日米安保体制は今年で半世紀を迎える。
いざというときに日本を一緒に守る安保と、憲法9条とを巧みに組み合わせる選択は、国民に安心感を与え続けてきた。そして今、北朝鮮は核保有を宣言し、中国の軍事増強も懸念される。すぐに確かな地域安全保障の仕組みができる展望もない。
米国にとって、アジア太平洋での戦略は在日米軍と基地がなければ成り立たない。日本の財政支援も考えれば、安保は米国の「要石」でもある。日本が米国の防衛義務を負わないからといって「片務的」はあたらない。
アジアはどうか。日米同盟と9条は日本が自主防衛や核武装に走らないという安心の源でもある。米中の軍事対立は困るが、中国が「平和的台頭」の道から外れないよう牽制(けんせい)するうえで、米国の力の存在への期待もあるだろう。中国を巻き込んだ政治的な安定が地域の最優先課題だからだ。
同盟国だからといって常に国益が一致することはない。そのことも互いに理解して賢く使うなら、日米の同盟関係は重要な役割を担い続けよう。
問題は、同盟は「空気」ではないことだ。日本の政権交代を機に突きつけられたのはそのことである。
■「納得」高める機会に
普天間問題の背景には、沖縄の本土復帰後も、米軍基地が集中する弊害で脅かされ続ける現実がある。
過去の密約の解明も続く。米国の軍事政策と日本の政策との矛盾。当時の時代的な背景があったにしても、民主主義の政府が隠し続けていいはずはない。密約の法的な効力がどうなっているか。国民が関心を寄せている。
いま日米両政府が迫られているのは、これらの問題も直視しつつ、日米の両国民がより納得できる同盟のあり方を見いだす努力ではなかろうか。
とくに日本の政治には、同盟の土台である軍事の領域や負担すべきコストについて、国民を巻き込んだ真剣な議論を避けがちだった歴史がある。鳩山政権のつたなさもあって、オバマ政権との関係がきしんではいるが、実は、長期的な視野から同盟の大事さと難しさを論じ合う好機でもある。
日米の安保関係は戦後の日本に米国市場へのアクセスを保証し、高度成長を支える土台でもあった。いまや、日中の貿易額が日米間のそれを上回る。中国、アジアとの経済的な結びつきなしに日本は生きていけない。
しかし、だからといって、「アジアかアメリカか」の二者択一さながらの問題提起は正しくない。むしろ日本の課題は、アジアのために米国との紐帯(ちゅうたい)を役立てる外交力である。
■アジア新秩序に生かす
アジアには経済を中心に、多国間、二国間で重層的な協力関係が築かれるだろうし、いずれ「共同体」が現実感をもって協議されるだろう。
だが地域全体として軍備管理や地域安全保障の枠組みをつくるには、太平洋国家である米国の存在が欠かせない。そうした構想を進めるうえでも、日米の緊密な連携が前提となる。
日本が米国と調整しつつ取り組むべき地球的な課題も山積だ。アフガニスタン、イラクなどでの平和構築。「核のない世界」への連携。気候変動が生む紛争や貧困への対処。日米の同盟という土台があってこそ日本のソフトパワーが生きる領域は広い。
むろん、同盟の土台は安全保障にある。世界の戦略環境をどう認識し、必要な最低限の抑止力、そのための負担のありかたについて、日米両政府の指導層が緊密に意思疎通できる態勢づくりを急がなければならない。
日米の歴史的なきずなは強く、土台は分厚い。同盟を維持する難しさはあっても、もたらされる利益は大きい。「対米追随」か「日米対等」かの言葉のぶつけ合いは意味がない。同盟を鍛えながらアジア、世界にどう生かすか。日本の政治家にはそういう大きな物語をぜひ語ってもらいたい。
▽ 日米安保体制も聖域ではない ― 同盟擁護論への疑問
私(安原)はいわゆる安保世代といってもいい年齢である。新聞社入社早々の地方支局勤務から東京本社社会部に配属になったのが1960年5月で、翌6月現行日米安保条約が国会で成立し、発効した。私は当時、都内の警察担当で、取材に駆り出された。安保阻止国民会議による大規模の安保阻止デモ隊が毎日、国会を取り巻き、連呼する「アンポ・ハンターイ」の叫びは、いまなお鮮明に記憶に残っている。その体験からしても、安保容認論になびくわけにはいかない。
そういう私から見て不思議なのは、昨今の若い人、といっても、50歳前後の諸氏はなぜ安保容認論に傾きやすいのか、である。想像するに、今年2010年は「安保50周年」であるため、物心がついた頃にはすでに安保体制は存在していたわけで、ちょうどテレビや車を当然のこととして受け容れるのと同じ感覚ではないかという気がする。
しかしそういう感覚で日米安保体制を観察し、容認するのは危険である。安保体制の軍事同盟としての本質が見えてこないだろう。安保体制といえども、決して批判を許さぬ聖域ではないという認識と自覚が不可欠である。
朝日社説への疑問点は沢山ある。米国流の軍事力による抑止力を土台にしたソフトパワー論が発想の根っこにあるらしいが、ここでは以下の1点に絞ってコメントを付けたい。
*「いざというときに日本を一緒に守る安保と、憲法9条とを巧みに組み合わせる選択は、国民に安心感を与え続けてきた」について。
上記の認識は「同盟という安定装置」という小見出し付きで書かれている。大きなテーマを随分あっさりと片づけているという印象である。
まず「日本を一緒に守る安保」というが、かつての米軍のベトナム侵攻、今のイラク、アフガンでの軍事力行使は在日米軍基地が侵攻のための基地として利用されている。この現状をどう捉えるのか。これは日本を守るためなのか。今日イラク、アフガンが日本を攻撃するのを阻止するために米軍が出動しているという話は聞いたことがない。
つぎに「憲法9条とを巧みに組み合わせる選択」と指摘しているが、ここでの憲法9条は本来の9条の理念(非武装、交戦権の否認)が事実上骨抜きになっていることをどう考えているのか。骨抜きになった9条でなければ、軍事同盟としての安保とは両立できない。
もう一つ「国民に安心感を与え続けてきた」とはどういう感覚なのか。憲法9条本来の理念をよみがえらしたいと願う「憲法9条の会」が全国で何千と結成されており、しかも米軍基地周辺の住民がどれだけ犠牲になり、苦痛を強いられてているか、を考えたい。一体どこに「国民にとっての安心感」があるというのだろうか。
それに小見出しの「同盟という安定装置」の表現も不可解である。「同盟」を仲良しクラブとでも思っているのだろうか。戦争のための軍事同盟である以上、それはむしろ「不安定装置」あるいは「暴力装置」と捉えるべきである。
その昔の昭和10年代の日独伊3国軍事同盟を想起したい。当時の朝日、毎日などの大手紙は、3国同盟を擁護し、戦争を煽った。昭和20(1945)年の敗戦とともに新聞はその過ちを反省し、再出発したはずである。その初心を忘れ果てたのか、いま再び軍事同盟を容認する姿勢を打ち出している。
▽ 「世界に変化しないものは、ひとつもない」 ― 諸行無常の真理
知人、清水秀男さんから元旦に届いた賀状の一節を以下に紹介したい。
「世界は変化しつづけているんだ。変化しないものは ひとつもないんだよ。
春が来て夏になり秋になる。葉っぱは緑から紅葉して散る。
変化するって自然のことなんだ」
(米国の哲学者、故バスカーリア博士の子供向けの絵本、『葉っぱのフレディ』から)
さらにつぎのように賀状は続いている。
変化し流転する真理は、貴重な贈物。一つは生まれ変り、生成発展へと挑戦するチャンスであること。もう一つは過去のこだわりを捨て、日々に新たに今の一瞬一瞬を怠ることなく、充実して最善を尽くす大切さへの気づき。
今年は寅年。勇気と希望を持って虎穴に入り、毎日を今日一日と心得、日々新鮮に、創造的に生きていく年にしたいと思っています ― と。
仏教は「諸行無常」(しょぎょうむじょう)すなわち「この世のすべてのことは変化する」という真理を説いている。身近な例でいえば、健康な人も病気になり、また病気が治って健康を取り戻すことができる。人間を含む命ある生き物が最後には死を免れないのも、その具体例である。
日米安保体制といえども、この諸行無常の真理から逃れることはできない。この真理に逆らうのは愚者の浅慮といえよう。今年は「安保50周年」で、このこと自体がすでに異常であり、やがて「安保の終わり」がやってくるのは避けがたい。過去の日本の同盟の歴史をみると、日英同盟(1902〜23年)、日独伊3国同盟(1940〜45年)のうち長期の日英同盟も20年で終了している。これに比べると、「安保50周年」がいかに異常な長期に及んでいるかが理解できよう。
しかも世界の軍事同盟は今や解体の方向に進んでおり、現在残っている2国間軍事同盟は、日米安保のほか米韓軍事同盟、米豪軍事同盟のみとなっている。2国間軍事同盟はいまや時代遅れになってきたというべきである。
日米軍事同盟を解体するからといって、それが日米間の果たし合いを意味するわけではない。そうではなく現行安保条約から新しい日米平和友好条約へ切り替えて、「変革」の21世紀にふさわしい日米関係を構築していくことを意味している。諸行無常の真理に事後的に翻弄され、混乱に落ち込むのではなく、むしろ意図的に活用して、新しい歴史を創っていくことこそが日本人が実践すべき智慧というものではないか。
*本稿は「安原和雄の仏教経済塾」からの転載です
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