2010年02月23日13時52分掲載
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【TV制作者シリーズ【(9)アジアを舞台に農と食、そして人生を撮る原村政樹ディレクター 村上良太
原村政樹ディレクター(桜映画社)が新作ドキュメンタリー「里山っ子たち」三部作を完成しました。NHK・ETV特集「里山保育が子どもを変える」(2007年10月28日)で放送した後、再編集して映画にしたものです。映画は千葉県の「木更津社会館保育園」で行っている興味深い育児法を描いています。
園には公園にありがちなありふれた遊具がありません。あるのはドラム缶などのガラクタばかり。大人の背丈よりも高い櫓も園内に置いています。よほどの危険がない限り保育士は子どもが登る事を止めません。さらに保育園の玄関先には子どもが躓きそうな石がわざと置いています。宮崎栄樹園長の考え方が反映しています。
「油断していたらちょっと痛い思いをする。でも怪我をしないと子どもは育たない。危ない事や汚いことを通り抜けてこないと、人間として健全なセンサーが成熟しないのです」
喧嘩は止めず、園児が何かに熱中した時は続けさせます。最初は周囲から異端視されていた宮崎園長ですが、次第に理解者が増えました。やがて育児に里山を導入します。里山の中には小さな危険があり、助け合うことを学習できるというのです。喧嘩していた園児達は互いに気遣うようになります。
ドキュメンタリーを作った原村政樹監督(53)は保育園との出会いをこう語ります。
「大学2年の時にフィリピンを訪ねて以来、アジアの貧しい地域をたくさん歩きました。国は貧しくても子ども達の目は生き生きと輝いていました。しかし、日本に帰るたび子供たちに元気がないように見えました。2006年に木更津社会館保育園を初めて訪ねたとき、園児がアジアの子ども達そっくりに見えました」
原村監督は子どもの頃、「素晴らしい世界旅行」というドキュメンタリー番組を毎週日曜に見ていました。プロデューサー牛山純一、ナレーター久米明で知られる日本テレビの長寿番組です。やがて秘境や原始社会に惹かれるようになりました。大学ではアマゾンに行こうと上智大学ポルトガル語学科に進みます。原村さんの作品には人類学的な視点を感じます。30代はアジア各地を取材で訪ねましたが、40代では日本に暮らすアジア人や「食と農」にテーマが移っていきます。
■「里山はうまい米を育む」 有機農業に賭ける人々
NHKのETV特集「里山はうまい米を育む〜山形県高畠町の1年〜」は映画「いのち耕す人々」(2006)の元になった番組です。全国米食味分析鑑定コンクールで最高点を得た山形県東置賜郡高畠町の遠藤五一さん。その有機農業による美味しいコシヒカリ作りを9ヶ月間丹念に追いかけます。遠藤さんは驚くような努力をしていました。3月、種の中の病原菌を60度の湯に7〜8分浸して殺菌します。農薬を使わないため、先祖が開発した方法を踏襲したのです。しかし、タイミングを誤ると種自体が死んでしまいます。有機米作りにはこうしたサスペンスがたくさんありました。
この番組には高畠町で有機農業が始まった頃の試行錯誤と葛藤のまっ只中にいる農民達のリアルな映像が挿入されています。撮影されたのは1986年当時。ヘリコプターによる農薬の空中散布。腹を見せて浮いている蛙。有機農業をどう進めるか話し合う農民たち。若い日の遠藤五一さんの姿もあります。消費者が高畠町を訪ね、作付け会議で意見や感想を述べるシーンもあります。すでに都会の消費者と有機農業を始めた農民との交流が始まっていました。これらの映像は原村さんら、桜映画社が撮影した素材でした。しかし、日の目を見ることなく、20年間蔵に入っていたのです。
「1986年から16ミリフィルムで1年半、正味104日間撮影した映像が残っていました。当時僕は助手でしたが、夏休みに有機農業者に会いに高畠町に出かけていました。その当時の映画の企画も僕が作りました。自炊・合宿の撮影で、高畠町の人々に野菜や米を分けていただき、大変なお世話になりました。しかし映画はお蔵に入ってしまいました。うまくまとめることができなかったのです。何とか形にしたくても当時助手だったのでできませんでした。でも、50歳になる前に、あのフィルムを使って何とか映画を完成させよう、と思いました。予算など困難が予想されましたが、作る事に賭けたのです」
この番組作りでの出会いが後にETV特集「よみがえれ里山の米作り〜小さな米屋と農家の大きな挑戦」(1月10日放送)につながりました。耕作放棄になっている棚田の再生に挑戦する人々の物語です。
■「海女のリャンさん」 ハルモニの半生
原村さんは映画とテレビの両方に携わっています。テレビで放送した後もさらに撮影を続け、放送局にも理解をしてもらって、映画にしているのです。こうしてできた映画の中に、在日一世の人生を描いた「海女のリャンさん」(2004)があります。
映画「海女のリャンさん」の元になったのはNHKウィークエンドスペシャル「53年ぶりのチェジュ島〜海を渡った海女の記録〜」(2002年6月16日放送)です。2000年6月の金大中韓国大統領と金正日総書記の南北首脳会談の結果、70歳以上の朝鮮総連系の在日朝鮮人が1週間に限って韓国に里帰りできるようになりました。この番組は在日1世のハルモニ(おばあさん)が、母親の供養のため生まれ故郷のチェジュ(済州)島に53年ぶりに里帰りする話です。
主人公のリャン・イーホン(梁義憲)さんは87歳。明るく、力強い性格です。53年間、イーホンさんが済州島に帰れなかった理由はイーホンさんが結婚によって北朝鮮籍になっていたからです。
イーホンさんは1941年、先に大阪に出稼ぎに行っていた夫の後を追って、日本にやってきます。済州島の海女の技術は知られており、日本でも求人があったのです。太平洋戦争末期空襲が激しくなるとイーホンさんは済州島に帰ります。しかし、1948年の済州島4・3事件がイーホンさんの運命を変えました。 1945年、朝鮮半島では北緯38度線を境に、北にソ連軍が、南に米軍が駐留していましたが、1948年に南だけで国家を樹立する選挙が行われようとしたとき、祖国の分断につながると済州島民が武装して立ち上がります。この時、鎮圧部隊により20万人の島民のうち、5万人以上が殺されました。イーホンさんは難を逃れるため、娘を母親に預け日本に密航します。
イーホンさんは鹿児島、対馬、愛媛、三重、静岡、神奈川と日本各地の海を潜り、朝8時から夕方5時まで働きました。稼いだお金は韓国と北朝鮮に離散した4人の子どもたちに送りました。植民地支配と祖国の分断、そしてそれらがからまった複雑な事情で、イーホンさんの子ども達は3つの国で生きる結果になります。53年ぶりの里帰りで島に残してきた娘と再会しますが、家族がバラバラになってしまったその寂しさが胸を打ちます。
原村さんがリャン・イーホンさんの取材を始めたのは大阪在住の記録映画監督・辛基秀(シン・ギス)氏との出会いがきっかけでした。辛監督は在日の映像資料を多数保管していたのです。原村さんは海女の人生を撮影した未発表のフィルムにひかれました。撮影されたのは1966年から1967年。その主人公がリャン・イーホンさんです。古い白黒映像。そこで懸命に働くイーホンさんは今どうしているのか。それが取材の始まりでした。
「ハルモニたちは自分の人生を語りたがっていました」という原村さんの言葉が印象深く残っています。
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