2010年04月08日19時11分掲載
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文化
テレビ制作者シリーズ11 「報道のお春」吉永春子ディレクター 村上良太
TBSテレビで「魔の731部隊」「天皇と未復員」など数々の話題作を作った吉永春子ディレクターは「報道のお春」と呼ばれていました。帝銀事件、下山事件、松川事件などGHQ統治下に起きた一連の謎の取材を原点に、放送人生は55年に及びます。この20年近くは毎週、深夜のドキュメント番組「ドキュメント・ナウ」(旧「ドキュメントDD」)をプロデュースしてきました。ディレクターが一人でビデオカメラを回し、原稿・音楽・編集まで手がけるものです。こうした作り方に「カメラが安定しない」とか、「技術がない」などと批判する人も業界に大勢いました。しかし、吉永さんは信念をもっていました。「報道とは自分の目で発見したことを報じることである」現場で取材した人間が一番現場を知っている。その発見を伝える事がニュースである。そんな吉永さんの原点はラジオ時代にありました。
昭和30年(1955年)4月、吉永さんはその年開局したばかりのKRT(ラジオ東京テレビ=後のTBS)に入社しました。配属されたのはラジオ報道部です。テレビは2年前にNHKと日本テレビで始まっていました。しかし、1955年のテレビの普及率は0.9%で国民の1%に満たないささやかなメディアでした。当時、次々と開局したテレビ局は番組作りの試行錯誤を続けていました。その間、吉永さんは10年に渡りラジオ報道に携わります。
「午前6時頃家を出て、会社に着くのが午前7時15分。それからデンスケを持って現場に出かける毎日でした」
駆け出し時代の吉永さんは朝、放送局に出勤すると「デンスケ」と呼ばれる30cmほどの録音機材を持って現場に向います。ラジオ報道部は10人ほどの部署でした。ネタは前日の夕方、デスクが黒板に書いた取材リストからそれぞれ得手不得手を考えて分担したものです。
「恐いけれど、底知れない謎があるものにひきつけられました。」
そんな吉永さんは人と人がぶつかり合う闘争や衝突、格闘などの荒々しい現場が好きだったのです。そのため、「原子力を考える科学者の会議の取材などはグーグー寝ちゃって怒られた」そうです。当時は組合運動が盛んで、労使の闘争も今では信じられないほど激しいものでした。吉永さんは対立する双方の間に入り込み、飛んでくるものをかわしながらマイクを右に向け、左に向け罵声と喧騒を録音していたそうです。
中には親子の心中未遂事件もありました。共同通信から速報が入り駆けつけたのです。
「病院に行くと畳敷きの大部屋に家族3人寝ていました。おばあさん、母親、息子の3人です。声を拾わないと番組にならないので困ったな、と思いながら、親子の枕元でじっと見守っていました。目を覚ましたとき、第一声で何を言うか?それを録音しようと思ったのです。最初に子どもが目を覚ましたので一緒に遊んでいると、しばらくして母親が目を覚ましました。途端にワーッと泣き出して、どうして死なせてくれなかったんですか、と言いました」
具体的な理由は話してもらえませんでしたが、夫が家を出て、生活苦にあったようです。もらい泣きした吉永さんは自分の給料から当時の金で千円を紙に包み「これで明日からやってください」と手渡したそうです。
午後、取材を終えて局に帰ると、編集も自分で行います。当時の編集は録音テープを編集機にかけ、斜めに切ってつなぐ、フィルム編集に似た方式でした。インタビューで使いたい言葉や音を編集してリールごとに分け、生放送でアナウンサーのナレーションと録音素材を交互に流していたのです。午後6時から7時台の日々のニュースが基本でしたが、不定期に午後8時からラジオ・ルポルタージュを放送していました。取材がたまって1本にまとまった段階で放送するのです。
当時の放送局には映画や新聞などから中途入社で入ってきた人々が多数いました。ラジオ報道部の吉永さんの上司は毎日新聞からやってきた記者でした。ある日、こう言ったそうです。
「お春、スクープを取れ」
「スクープってどうすれば取れるんですか!?」
「帝銀事件、下山事件、松川事件を追うんだ。どれも未解決だ。」
戦後の闇を象徴するこれらの事件は1948年から1949年に起きています。いずれも未解決でした。しかし、吉永さんがラジオ報道を始めた1955年にはすでに過去の事件でもありました。ただ松川事件だけはまだ被告達が裁判闘争中で足がかりになりそうでした。こうして吉永さんは福島県の松川駅を中心に、事件の鍵を握りそうな人物たちを訪ね、デンスケを抱えて歩きまわります。謎めいた死者、謎めいた手紙、謎めいた投稿記事と謎の連鎖でした。決定的証拠こそつかめませんでしたが、現場を足でたどるうちに深い闇があることが分かってきたそうです。吉永さんが取材したラジオ・ルポルタージュ「松川事件の謎」シリーズは3回に渡り放送されました。草をかき分けるような地道な取材はテレビ報道時代のスクープにつながります。ラジオ・ルポルタージュの1つ「松川の黒い霧」(1962年)で放送団体から第一回目のギャラクシー賞を得ました。
体当たり取材のラジオ・ルポルタージュは年々視聴者が増え、話題の番組に成長しました。「報道のTBS」と呼ばれる基礎がここにあったのです。当時の視聴者は今のようにながら作業で聞くのでなく、番組の始まる定時になるとラジオをつけ、固唾を飲んで聞いていたようです。中学生など若い世代も真剣に視聴していました。投書も多く、応援もあれば脅しもありました。「脅しに負けるな。僕が吉永さんを守る」といった中学生の投書も届きました。「国民的議論を呼ぶものこそ報道だ」というのが吉永さんの考えでした。それが嵩じてこんなこともありました。
「松川事件の謎」の放送中、心配になった上司がスタジオにやってきて「お春、この番組はKRT(TBS)とは一切関係ありません、と言え」と言ったそうです。吉永さんは答えました。「うるさいわねぇ!」アナウンサーにキューを出したり、録音を出したりと忙しかったのです。
昭和41年。入社しておよそ10年がすぎ、吉永さんはテレビ報道部に移動を命じられます。開局当時、アメリカの番組を輸入していたテレビ局もその頃になると、独自の番組を作っており視聴者も増えていました。テレビがメディアの主役に転じたきっかけは昭和34年(1959年)に行われた皇太子の結婚です。人々は競ってテレビを買い、およそ1500万人が皇居から東宮仮御所までの皇太子夫妻のパレードをテレビ中継で見たと言われています。1953年8月にテレビ放送が始まったとき、受像機が2600台だと言われていますから、6年で大衆が見る媒体に成長した事になります。(NHK放送文化研究所「テレビ視聴の50年」による)
しかし、テレビに移った吉永さんは意外にもこう思ったそうです。
「テレビに移って本当にがっかりした。」
自分でデンスケをかついで自由に取材でき、自由に編集できたラジオ時代に比べると、テレビではカメラマンや録音マンなど多数のスタッフと組まなくてはなりません。当時のカメラマンは映画界から来た人がほとんどで、撮影も三脚を立ててお決まりの絵になるカットをぱっぱっと撮影して終わりだったと言うのです。激しく動いている事象を生で追いかけたい吉永さんの思いとまるで正反対でした。録音マンも大きな機材をかついで腰が重かったと言います。
型にはまらず生の現場を撮影したい、そんな吉永さんの取材方法を理解するスタッフが生まれるまで10年近く闘いが続いたそうです。編集もお決まりの編集でリアリティが生かせていませんでした。少々カメラががたがたしていても面白いシーンがあるものですが、そうしたシーンはカットされることが多かったのです。絵や構図の美しさや型にはまったインタビューは報道と関係がない。人間の本音と真実が描けるならカメラが少々揺れていてもいいのだ、というのが吉永さんの考えでした。そうした編集方法を理解できない編集者とも戦いが続きました。しかし、粘り続けるうちにやがて、吉永さんの方法を理解する新しいスタッフが出てきました。
吉永さんが続けてきた深夜のテレビドキュメンタリーはデンスケをかついで自由に取材したラジオ時代に原点があると言えそうです。ディレクターが自分の目で発見した事に報道の命があるというのです。
「今テレビのニュース番組はどの番組も大体同じ政治家が出てきて、同じような言葉を吐いている。一体どこに記者の目があるんですか。」
吉永さんは毎日テレビをウォッチし、新聞数紙を読みながらニュースに目を配っています。そればかりでなく吉永さんは今日も現場で取材を続けています。
村上良太
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