2010年06月10日09時24分掲載  無料記事
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中国

「今の中国政治に最も欠けているのは『寛容な文化的精神』だ」 朱厚沢・元党中央宣伝部部長の遺言

  1989年6月4日に起きた天安門事件は、現在の中国を考えるうえで必要不可欠である。6月4日の武力弾圧以前、天安門広場では学生たちが自由にものを言い、世界のマスコミが自由に取材した。あの奇跡のような光景は、1985年、胡耀邦総書記がリベラル派の朱厚沢を党の中央宣伝部部長に抜擢したから生まれたものにほかならない。この間に、のちに民主派、人権派として中国国内で、また海外で活躍する知識人リーダーが誕生したのである。その彼らの育ての親がこのほど死去、故人の人徳を偲ぶ人びとが続々と最後の別れに駆けつけた。(納村公子) 
 
▽彼の人徳はいつまでも人々の心に残るだろう。 
 
 元・中央宣伝部部長、朱厚沢は‘寛大・寛容・寛恕’の三つの精神を提唱し「三寛部長」と呼ばれた。当時の中国共産党総書記、胡耀邦の失脚に伴い自らも解任され、その主張も「資産階級自由化の隠れ蓑」だと批判を受けた。朱厚沢は中国共産党史上、任期が最も短い中央宣伝部長ではあったが、在任中に提唱した「寛容」の文化的精神は今なお人々の喝采をあびている。 
 
 5月9日、朱厚沢は北京市内の病院で治療虚しく息を引き取った。自宅にしつらえられた祭壇には、習近平、王兆国、尉健行、田紀雲といった名だたる有力政治家や中央組織部、中央宣伝部からの、そして出身地・貴州省の関係者や友人などから送られた数え切れないほどの花輪がずらりと並んだ。 
 
 中国では先日、ある携帯メールがいたるところで飛び交っていた。それは朱厚沢夫人、熊振群が友人に頼んで夫妻の古くからの知り合いや友人に送ってもらったもので、内容はこうだ。「故人・朱厚沢の遺志により葬儀は簡単に済ませ、追悼式は行いません」。 
 
 5月11日、本来はごく親しい者だけを招き病院で告別式を慎ましく行う予定であった。 
 しかし驚くことに、当日は千人近くの人々が続々と病院を訪れたため、式の開始時刻を1時間早めなければならない事態となった。生前親しかった胡殷立、李鋭、胡徳平など在職中および退官した政府高官が続々と訪れ、朱厚沢と最後の別れを行った。 
 
 9日午後、記者はこの悲報を北京の孫長江からの電話で知った。77歳の孫長江は、これまで中国共産党中央党校理論研究室副主任、『科技日報』副編集長、首都師範大学教授などを歴任した人物で、朱厚沢宅から戻ってきたばかりという。それによると、3ヶ月前、温暖な海南省で孫長江が休暇を過ごしていた時、ちょうど朱厚沢も病気療養のため寒い北京から逃れてきており、2人はそこでいろいろなことを語り合ったそうだ。春節の前夜、朱厚沢は再検査のため北京に戻るが、そのまま入院。その後彼が再び病院から出てくることはなかった。 
 
 朱厚沢の口腔病は癌で、手術も行われたがその後肺に転移。8日午前、病院が再度朱厚沢の危篤通知を出し、孫長江は夫妻で北京の病院に駆けつけた。しかし朱厚沢は既に何ら反応がなく、夫妻は医者の要望に従い、黙ってベッドの上の数十年来の友人を見守ることしか出来なかったという。 
 
 また関係者によると、4月30日に全国政治協商会議常務委員の胡徳平(胡耀邦元総書記の息子)が何方、高占祥らを伴って病院に見舞いに訪れた際には朱厚沢の意識ははっきりしており、ただ身体が衰弱しているだけで過去の出来事に関する記憶も明瞭だった様子だ。 
 記者が最後に朱厚沢と会ったのは、09年3月。取材のため毛沢東の元秘書、李鋭の自宅を訪問した際、朱厚沢が突然そこにやって来たのだ。取材の席上、李鋭は三峡開発プロジェクト、政治改革、そして20年を迎える天安門事件について話をしたが、朱厚沢は傍らに座り時折自分の意見を述べた。そしてその際朱厚沢は、今中国の政治に最も欠けているのは「寛容な文化的精神」だと語った。 
 
 近年繰り返しこの問題について考えているのです、と朱厚沢は言った。「異なる意見、異なるものの見方、これまでの伝統とは異なる観点、これらのものについては絶対に結論を急いではなりません。これらは前向きに探求し、新しいものを開拓し、支持することが必要なのです。もしこの問題をおろそかにしてしまったら、おそらく思想文化面の発展が遅れるばかりでなく、その他の方面の発展も望めないでしょう。」 
 
 記者は、かつて彼が提唱していた「三寛」について話を持ち出してみた。すると朱厚沢は当時を回想してこう語った。「我々の本来の考え方と合わない思想や視点を、寛容の心で受け入れられますか? 異なる意見を持つ人間に対し寛大な態度を取れますか? いろいろなものに縛られていたこれまでの思想の枠を超えて、柔軟な思考ができますか?」「私は今なお、寛容な文化的精神を築くことが必要だと考えています。寛容の心があって初めて学術的な探索が認められ、それらを推進することが出来るからです。科学の新発見も、技術革新も、経済発展も、新しい制度の創出も同じことです。それらは人権の尊重や人間性の発揚、そして人格の向上につながるものなのです。」 
 
 09年、胡耀邦の死去から20年になるのを機に、当時北京にいた張博樹という学者が友人らとともに『胡耀邦と中国の政治改革』という本を編纂しようという動きがあった。これを支持した朱厚沢は本の編纂計画に参与しただけではなく、胡耀邦の全面改革思想について述べた「全面改革の宣言書」という長い文章を書きあげた。その中で朱厚沢は、胡耀邦の全面改革思想と中国社会が変化発展してきたこの20年来の現実を関連付け、将来中国がどのような道をたどるべきであるかを分析していた。 
 
 現在台北にいる張博樹によると、彼が書いた原稿は朱厚沢が要求する思想の深さと厳しさのレベルに達し得なかったとして、最終的に『胡耀邦と中国の政治改革』という文章が日の目を見ることはなかったそうである。「今思うと、実に残念でした。でもこの文章は朱厚沢氏が亡くなられた折に発表するのが適切でしょうね。これは彼が中国に遺してくれた貴重な精神的財産ですし、読者が共産党内の改革者に対して、理解や敬意を深めるのに有意義な文章ですから。」 
 先ごろ、張博樹はインターネット上にこの文章を発表した。朱厚沢は文章の中でこう指摘している。「我々が、今、この時代を判断する際に必要としているのは、新しい基準、新しいスタンダードである。21世紀の現在、そのスタンダードは決して別のものであってはならぬ。即ち、民主、立憲法治、そして人権。これこそが人類共通の進むべき道だ。」 
 
原文=『亜洲週刊』2010/5/23 江迅記者 
翻訳=藤森一葉 


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