2010年06月15日14時40分掲載
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沖縄/日米安保
沖縄の基地問題をアメリカに学ぶ 2 〜 トーマス・ペインという生き方 〜 村上良太
「地球上にアメリカほど幸福の可能性を秘めた国はない。アメリカの位置は、紛争の絶えない世界から完全に隔離されている。アメリカがそれらの国と関係を持つのは、ただ貿易だけだ。」(トーマス・ペイン著「アメリカの危機」)
今、これを読むと、一体、どこのアメリカのことだ?と思うでしょう。
アメリカの独立宣言ばかりか、フランス革命や中南米の独立運動など世界中に多大な影響を与えた「コモン・センス」の著者トーマス・ペイン(1737―1809)。彼はその出版後もジャーナリストとして、また義勇兵として独立戦争に従軍し、「アメリカの危機」(1776)を書いています。上記のくだりの後はこう続きます。
「人は自分で気質と主義との区別をつけることができる。わたしは神が世界を統治すると確信しているように、アメリカは外国の支配から抜け出すまでは決して幸福になれないとも確信している。その時が到来するまでは、戦争が絶えず生じるだろう」
ペインはそれまでまったくの無名、かつ人生の落伍者だった、と翻訳者の小松春雄氏は書いています。小松氏の解説によるとペインの生まれは意外にも英国でした。コルセット職人の子として生まれたものの、事業に失敗。収税吏に転じてもうまくいかず、二度の結婚生活も続きませんでした。
そんな失意の中、ベンジャミン・フランクリンに出会い、1774年1月に渡米します。37歳でした。これが彼の運命を変えます。家庭教師で食いつないだ後、地方誌「ペンシルヴェニア・マガジン」の編集に携わるようになります。遅咲きの駆け出しジャーナリストにとって幸運だったのはアメリカで独立の気運が高まっていたことでした。
ペインが渡米した1774年に英国の弾圧に対抗するための第一回大陸会議がフィラデルフィアで開催されます。英国は七年戦争(1756-1763)の戦費を植民地アメリカに肩代わりさせるため、印紙条例など様々な法律を制定していましたが、これに植民地の人々が怒りを感じついに立ち上がったのです。翌1775年4月、レキシントンの戦いで独立戦争の火蓋が切られました。ペインが「コモン・センス」を出版したのは1776年1月。その末尾にはこう書かれています。
「われわれの間では、ホイッグやトーリーという呼び名もなくしよう。そして立派な市民、寛大で意思強固な友人、人間の権利および自由・独立のアメリカ諸州の高潔な擁護者という名前だけで呼び合うことにしよう」
ペインは英国生まれでありながら、アメリカの独立を支持したばかりか、奴隷制度にも反対していました。ペインの文章がアメリカ人の心をつかんだ理由は彼が人生のどん底を味わい社会の底辺にまで身を落とした人間であったため、大衆の意欲や感情をよく知っていたからだろうと小松氏は書いています。当時、植民地アメリカの人口は約250万人でしたが、「コモン・センス」は何と50万部が売れたと推定されています。文字の読める者は皆読んだと考えてもおかしくありません。
アメリカの独立後、ペインは英国に帰ります。しかし、保守主義の論客、エドマンド・バークの「フランス革命の省察」(1790)に反対して「人間の権利」(1791)を書き、革命の原理を擁護したため、英国を追われフランスに渡ります。そこで今度はルイ16世の処刑に反対したため、ジャコバン派にとらえられ、あわよくば殺されるところでした。その後、ナポレオンの独裁を嫌って、再びアメリカに渡り、1809年、ニューヨークでその生を閉じました。
■小松春雄訳「コモン・センス」(岩波文庫)を参照した。記事で部分的に紹介したが、小松氏による「コモン・センス」の解説もまた興味深い。
村上良太
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