2010年06月18日00時42分掲載
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北アイルランドは今
「血の日曜日事件」の報告書は発表されたが −「忘れられたアパルトヘイト」を生きる住民たち
英領北アイルランドで1972年に起きた「血の日曜日事件」の真相を調査していたサビル独立調査委員会が、15日、「英軍がデモに参加していたカトリック系市民を不当に殺害した」とする報告書を発表した。犠牲者が「武装していた」とする前回の報告書とは反対の結論で、遺族にとって見れば、長年の疑惑が晴れたことになる。しかし、これで「一件落着」と見る人は多くはないようだ。英統治の存続を望むプロテスタント系とアイルランドへの併合を求めるカトリック系の住民同士の心のありように焦点をあてた記事を転載したい。(季刊誌「Ripresa」(リプレーザ)誌2号、2007年掲載記事。)(ロンドン=小林恭子)
―ベルファーストの悲劇
「アパルトヘイト」──。英領北アイルランドの中心都市ベルファーストに住むプロテスタントの牧師ノーマン・ハミルトン氏は、北アイルランドの現況をこう呼ぶ。
かつて、南アフリカ共和国で白人と非白人を差別的に規定した人種隔離政策アパルトヘイトが強制的に北アイルランドで実行されているという意味ではない。カトリック系住民とプロテスタント系住民とがそれぞれ宗派ごとに固まって住み、お互いの行き来がほとんどない傾向が近年ますます強まっている思いがする、と言うのだ。
ハミルトン牧師の自宅は、ベルファーストの中でもカトッリク系住民とプロテスタント系住民の争いが特に頻発したアルドイン地区近辺にある。北アイルランドのガイドブックが観光客に足を踏み入れることを勧めない場所の1つだ。
私がアルドイン地区を初めて訪れたのは2002年だった。英外務省が主催した在英外国人ジャーナリストのための取材旅行に参加した。ベルファースト市内のあちこちで、英国旗やアイルランド共和国の国旗が掲げられていることに気づいた。英国旗はプロテスタント系住民の、アイルランドの国旗はカトリック系住民の居住地を指すことを、観光バスのガイドが教えてくれた。
プロテスタント地区とカトリック地区の間にある広場の一角にバスが停まると、両宗派の住民が信奉する自警団の団員が覆面をし銃を構えた様子を壁画に描いた建物が並び、プロテスタント、カトリックの陣地を示す旗が互いに向き合うように掲げられていた。子供たち数人が広場を横切っていく。頭上にはそれぞれの旗が翻っているのが見えた。
現在でも続く対立の象徴を子供たちは毎日目にし、学校に行き、遊びに出かける。何と残酷なことか、と胸をつかれる思いがした。この光景が、その後何度か北アイルランドを訪れるきっかけとなった。
2001年、アルドイン地区でカトリック、プロテスタント両派の大きな衝突が起きた。カトリックのホーリー・クロス・ガールズ小学校に通う少女たちは、毎朝、プロテスタント系住民の家が片側に並ぶ一本道を通る。9月初旬、この一本道にプロテスタント系住民が立ち並び、少女たちにつばをはく、悪態をつくなどの行動に出た。プロテスタント系住民によればカトリックの住民が家の窓に石や火炎瓶を投げつけて威嚇行動に出たので、自衛として反撃に出ただけだと言うのだが。
泣きながら通学路を親と共に進む少女たち、親や子供を脅かそうと罵詈雑言を吐くプロテスタントのデモ参加者、プロテスタントやカトリックの自警団の脅し、ものものしい機動隊の防御活動は、連日メディアで報道され、異なる宗派同士の醜いいさかいの様子が北アイルランド中に伝わった。
ホーリークロスの出来事を、ハミルトン牧師は「本当にひどい事件だった」と振り返る。現在、アルドイン地区で大きな衝突は見られないという。「何もない、普通だということでは、何の記事にもならないでしょうね。申し訳ない」、と筆者に微笑む。
それでも、北アイルランドの約170万人の人口をほぼ2分するプロテスタント系(53%)とカトリック系(43%)の住民がそれぞれ一定の地域に住み、交流をしない傾向は強まっていると指摘する。「一言で言うと、アパルトヘイトだ」。
2001年の国勢調査を見ると、ベルファーストのアルドイン地区には圧倒的にカトリック系住民が多く、プロテスタント系は1%だけ、逆にプロテスタント系が多いシャンキル地区ではカトリック系は3%のみとなっている。ベルファーストだけに限らず、北アイルランドの大部分の地域ではいずれかの住民が宗派ごとに固まって住む傾向がある。多くの人が自分が所属する宗派同士で住んだほうが安全だと考えるからだ。ある地域で少数派となれば、いじめや暴力行為の対象になりやすく、それぞれの宗派の自警民兵組織(実際は「暴力団」と言ったほうが近いのだが)に、出て行けと様々な脅しを受けることも珍しくない。
といっても、北アイルランドの住民たちが信仰熱心なあまりにいがみあっているのではない。元をたどれば、カトリック教国だったアイルランド半島にイングランド(後の英国。プロテスタント)が勢力を伸ばした過去の歴史があった。半島の南は独立への歩みを進め、現在はアイルランド共和国となった。欧州連合(EU)の加盟国となり、EU助成金や外国企業への投資優遇策を提供しながら経済成長を遂げ、首都ダブリンはロンドンをしのぐほどの多彩な国籍の人々が働く、国際的な都市となった。
一方、プロテスタント系住民が多く居住していた6州は「英領北アイルランド」となることを選択。地理的には南同様アイルランド半島にいながら、政治的な所属は海の向こうの英国、というねじれ現象が続く。
それぞれの宗派を代表する政治家の間でも互いへの不信感は非常に強く、アイルランド共和国政府と英政府の支援で1998年成立した北アイルランド自治政府は、2002年以来機能停止状態だ。今後の成り行きは確実ではない。(注:2007年5月、紆余曲折の後、復活。今年、自治政府は、英政府からの治安・司法権限移譲実施で合意。)
―イングランドのアイルランド支配
北アイルランド問題の元をたぐると、イングランドのアイルランド侵攻にさかのぼる。
南北のアイルランド人たちがよく使い、イングランドに住む人が「またか」という顔をするのが、「イングランド(英国)がアイルランドを800年間植民地支配してきた」という表現だ。イングランド人側から見れば、「全くアイルランド人は昔のことを良く覚えている。そんな昔のことを今言っても始まらないだろう」という思いがあるのだろう。
しかし、どこの国の歴史を見ても、あるいはどのような社会でも、支配された、抑圧されたあるいは虐げられた側の方はその経験を長い間忘れないでいるものだ。
「800年」というのは、12世紀のイングランド王ヘンリー2世が、ノルマン人に支配されていたアイルランドに侵攻した時から数えた場合だが、イングランドがアイルランドでの実権を本格的に持ち出したのは ヘンリー8世が1541年にアイルランド王も兼務した時からだったと言われる。ヘンリー8世はアイルランド的なものを許容せず、イングランドのやり方への同化を強要した。
当時のイングランドは世界の植民地支配をめぐってカトリック教国スペインと争っていた。イングランドは英国教会を体制としており、スペインがカトリック教徒の多いアイルランドを足がかりにしてイングランドを侵略するのではないかと恐れた。
波多野裕造氏の『物語アイルランドの歴史』によると、アイルランド、スコットランド、マン島のケルト系住民(ゲール人)の族長らに対しては、イングランド王への忠誠を誓うものには領地保持を許可し、師弟をイングランドに留学させることでイングランド化を進めたという。氏によれば、この結果、「アイルランドが次第にそのケルト民族的特質を薄め、やがて言語(ゲール語)すら失ってしまう結果になったことは否定できない」。
イングランド王は反抗するものからは土地を没収し、イングランドやスコットランドからプロテスタント移民の植民を奨励した。波多野氏は、「アイルランドの国内の少数派であるプロテスタントと絶対多数のカトリック教徒の対立、相克」の深まりを指摘しているが、まさに現在の北アイルランドの状況が既にこの頃から出来上がっていった。
17世紀、オリバー・クロムウエルが指導者の立場に着くと、徹底したカトリック教徒弾圧策を実行。1697年から1727年の刑罰法ではカトリック教徒に対し土地所有の制限、公職就任の禁止、選挙権の没収などが実行された。
1801年、アイルランドは連合法の下、大英帝国の一部となったが、19世紀を通じてアイルランド自治への動きは止むことはなく、アイルランド島全体ではアイルランド民族主義者(ナショナリスト)と英国への帰属を望む人々(ユニオニスト)との対立が激化してゆく。
流れを変えたのはいわゆる「イースター蜂起」(1916年)で、武装男女約千人がダブリン中心地を占拠し、アイルランド共和国の設立を宣言した。この蜂起は英軍によって鎮圧され、間もなくして反乱指導者らが処刑された。これが反イングランド感情とナショナリスト運動への同情を一気に高めたと言われている。
1919年から21年までのアイルランド独立戦争の後、21年末、英国・アイルランド条約が交わされ、英連邦の中の自治領としてアイルランド自由国が建国された。一方プロテスタント系住民が多く住む北部アルスター地方の6州は北アイルランドとして英国の直接統治に入ることになった。38年、南のアイルランドは新憲法の下で共和国として主権国家となり、現在に至っている。
―不信感の歴史
在ベルファーストのジャーナリスト、デビッド・マッキトリック氏と歴史家デビッド・マックビー氏が書いた『メーキング・センス・オブ・ザ・トラブルズ』によれば、プロテスタント系住民が過半数の北部6州が北アイルランドになったことは、この地域に安定を必ずしももたらさなかったという。
プロテスタント系知識層は英政府がいつかは北部を南部と一緒にする政策を打ち出すのではと恐れ、北アイルランド内ではカトリック系住民が南部と協力して自分たちに攻撃をかけるのではないかと懸念。カトリック系が人口比率の中で増えて行き、中産階級になってゆくと、貧しいプロテスタント系住民からは嫉妬や疎外感も出るようになった。
一方のカトリック系にしてみれば、新たな枠組みの中でアイルランド人としてのアイデンティティーが否定され、圧倒的にカトリック教徒が多い南部から切り離されたことで、政治的に無力感を感じるようになる。さらに、1920年代以降の約50年間、プロテスタント系が政治、行政上の支配権をほぼ独占する中で、自分たちが雇用、住宅、政治上の権利などで差別されていると感じたが、実際この懸念は現実に裏打ちされたものだった。
1969年を機に、米国の市民運動に触発されたせいもあって、政治、雇用、住宅面で差別を受けていたカトリック住民による大規模なデモ、アイルランド共和国軍(IRA)などの民兵組織による「テロ」、これに対抗するプロテスタント系住民による攻撃や民兵組織による「報復テロ」が目立つようになった。
住民たちの暴力の目に余る過激さに、当時の北アイルランド政府(プロテスタント系政党が独占)は、英政府に軍隊の導入を要請。カトッリク系民兵組織や過激住民らは、昔から続いた独立戦争の一環として、英軍を占領軍と見なし、英政府支配を支持する王立アイルランド警察(現在の北アイルランド警察)やプロテスタント系住民への攻撃を続けた。これに対抗してプロテスタント系民兵組織、アルスター義勇軍やアルスター防衛協会も同様に攻撃を繰り返す。こうして、69年以降の「トラブル」と呼ばれた約30年間の暴力行為の結果、約3600人が命を落としたと言われている。
様々な政治的紆余曲折の後、98年の和平合意が成立し、北アイルランド史上初めてカトリック系とプロテスタント系政党による連立政権が成立した。
宗派の違いによる互いへの憎しみや不信感は消えたわけではない。
IRAやプロテスタント系自警団・民兵組織の暴力行為は望んだようには収まらず、何度か「停戦」宣言が出てはこれを取り消す、という流れがあった。また、先述のように連立政権はIRAのスパイ事件(真相は未だに不明)をきっかけに、「信頼感を失った」とするプロテスタント系政党が連立政権から離脱する動きを見せ、自治政府の機能が5年間、停止した。
地元の新聞を開けば、カトリック系住民がプロテスタント系住民の恨みをかった、あるいはその逆のケースなどで傷害あるいは殺人事件が起きるのは珍しくない。
駐留英軍に対する地元民の反英感情も未だに根強い。2004年、北アイルランドに派遣されたスティーブ・マックグリン歩兵は、他の兵士数人とパトロール中、全く何の威嚇行為もしていなかったが、どこからともなく集まったカトリック系住民の一群に追いかけられ、命からがら逃げ出したことを自著『スクワディー』(「新兵」の意味)に書いている。
―無法地帯
ベルファーストの郊外にある「ウエーブ」は、「テロ活動」などで家族を失った人々のための支援組織だ。週に何度か集まり、お茶を飲んで他愛のない話をしたり、マッサージなど心身をリラックスさせるサービスも受けることができる。ほとんどが女性たちで、夫や兄弟を「テロ」で失った人たちだ。付き合いが長くなると、お互いがカトリック系なのか、あるいはプロテスタント系なのか分かることが多いというが、自分たちからはどちらの住民なのか、どのグループの攻撃で家族を失ったのかを詳細には語らないという。
プロテスタント系武装集団が根城にしているシャンキル通りには、「シャンキルの殺し屋たち」と呼ばれるチンピラ・グループがかつていたという。「私の夫はシャンキルの殺し屋たちに殺されたのよ」と50代後半と見られる女性が語る。「でも、殺した人は捕まっていないの」。そばにいた女性も、「私の場合もそうなのよ」と相槌を打つ。
北アイルランドで多発した暴力事件で、遺族が苦しめるのは、犯人が「捕まらない」、「正当な裁きを受けない」ことだという。
圧倒的にプロテスタント系が占める警察にカトリック系住民は心を許さず、警察に頼るよりは「自分たちの身を守ってくれるカトリック系民兵組織」に頼るからだ。また、いずれの場合でも、人々の口は堅い。誰が犯人かをたとえ分かっていても、それを警察に告げれば、必ず復讐される。
1972年、北アイルランド北部の都市ロンドン・デリーで「血の日曜日」と呼ばれた事件が起きた。英軍が武器を持たないデモ参加者に発砲し、13人が命を落とした(さらに一人が後に亡くなり、総数では14人が死亡)。英軍側は群集側が先に発砲したと主張するのに対し、犠牲者の肉親は英軍側が最初に手を出したと反論してきた。
この事件は例外でない。真犯人が誰かは分かっていても真実を明るみに出すことでさらに暴力事件が起き、自分や家族への報復行為があると思うと、人々の口は重くなるばかりだ。
2007年1月、カトリック強硬派でアイルランドへの帰属を望むシン・フェイン党は、宿敵と見なしてきた北アイルランド警察を承認することに合意した。「警察を承認」とは一見奇妙に聞こえるが、プロテスタント系住民が圧倒的な割合を占めてきた警察組織をシンフェイン党はこれまで認めていなかったのだった。
この合意の直前、北アイルランドの警察オンブズマン組織が、現在の警察の前身だった王立北アイルランド警察の特別部隊が、1991年から2003年の間、プロテスタント系ギャング集団を情報筋として使う代わりにギャング手段によるカトリック住民への暴力行為を見逃していた、とする調査書を発表した。警察の記録の一部が破棄されているため、証拠不十分ということで警察官の中で処分される人は誰もいない見込みが高い、と報告書は結論づけた。警察側とプロテスタント側との癒着を明らかにした衝撃的な結論だったが、意外というよりも「やっぱり」という思いを誰しもがした。
「実際に手を下した警察官たちを責めるのは簡単だ。しかし、警察最上部の支持がなければできなかったのだと思う」とオンブズマン組織のトップ(当時)、ヌアラ・オロアン氏は報道陣に語っている。
―アイルランド共和国は手を差し伸べるが
北アイルランドの現況は、元を正せばイングランド(現在の英国)のアイルランド侵攻が始まりと言えるが、英国が北アイルランドから手を引き、南北が統一されれば問題が解決する、といった状況ではもはやなくなっている。南と一緒になりたくないという住民が北アイルランドにいる限り、英政府が恣意的に退くことは不可能だ。
1998年の和平合意は、南北の統一は北アイルランドの住民が合意しない限り実現できないこと、アイルランド共和国が憲法を修正し、北アイルランドの領有権を訴えている部分を取り除くことを定めた。これを元にアイルランド共和国では憲法修正を行い、領有権の主張を手放した。
アイルランド政府は2007年1月、北アイルランドへの巨額投資計画を発表。教育分野や、ダブリンとベルファーストなどをつなぐ道路、ロンドンデリーにある空港への投資を含む。「投資は歓迎だが政治的目的が背後にないことを望む」とプロテスタント系政党民主ユニオニスト党のピーター・ロビンソン氏が述べると、アイルランド政府は「北アイルランドと英国の絆の土台を弱めるのは目的ではない」とした。南北統一に言及することで、北アイルランドで無用な反発を引き起こさないよう、気を使いながらの返答だった。
アイルランド共和国も、かつての支配者英国も和平の進展への支援者として北アイルランドを外側から見守る格好をとっている。
―未来
現在の英国では、「テロ」と言えばイスラム教過激主義者による「テロ」を思い浮かべる人がほとんどだ。先の警察と暴力集団との癒着を明らかにした報告書は注意を喚起したが、英国本土でIRAなどによる「テロ活動」が事実上停止している現在、人々の北アイルランドに対する関心は高いとは言えない。
北アイルランドは次第に「無関係(irrelevant)」になった、とする論調を英国で目にするが、いわば問題の当事者だった英国でもそうなのだから、英国以外の国際社会からすると、北アイルランドはますます遠い存在だ。
武力の衝突に関する報道の続くイスラエルーパレスチナ問題などに比べても、北アイルランドは「忘れられた場所」になってしまったとも言えるのかもしれない。
自治政府の活動が一時停止しても、北アイルランド議会の議員たちは給与をもらい続けたため、「税金の無駄遣いだった」と見る向きも多い。「自分のことを自分でまともに解決できないとは」と嘆く見方もある。
―統合学校
「北アイルランドで唯一明るいニュースがあるとすれば、『統合学校』を希望する親が増えていることかしら」と、英週刊誌「エコノミスト」に北アイルランドの分析記事を書く、ジャーナリストのフィオヌアラ・オコナー氏は言う。
北アイルランドの子供たちのほとんどは、カトリック系かプロテスタント系かいずれかの学校に通い、大学や会社に入るまで異なる宗派の住民同士との交流はほとんどないが、1981年、カトリック、プロテスタント、他の宗派・宗教、無宗教の子供たちが一つ屋根の下で勉強する学校ができた。別々の教育体制やコミュニティーに所属する中で生まれる、互いに対する無知、偏見、憎しみを自分の子供たちには決して経験して欲しくない、と考えた親たちが作った統合教育学校だ。
最初に設立されたラーガン・カレッジ(日本では中学から高校に相当)から現在までに統合学校の数は小中学校を合わせて58校となった。北アイルランドの全小中学校数からすると約5%で、ほんの一握りともいえる。それでも、既存の宗派の学校に入れたくないと考える親は増えており、2005年には統合学校への入学希望者500人を「断らわざるを得なかった」と、統合学校の運営を助ける団体「NICIE」のマーケティング・マネジャー、デボラ・ギルバンさんは言う。
統合学校の成り立ちは親の意思が出発点だった。「統合学校」として政府から認定を受け、親が教育費を払わないで済むように運営費を税金でカバーしてもらうためには、ある程度の生徒数と一定期間継続して運営できることを証明しなければならない。認定が降りるまでの間、統合学校は「統合学校基金」を通じて協力者から資金を募り、これを運営費にあてる。
ブレア元英首相も訪れたと言う、統合学校の一つ、へーゼルウッド中等統合学校を訪れてみた。校内の壁の一部にあったモザイク画の一つには銃がモチーフとして描かれていた。
集まってくれた数人の生徒たちは、「学校では宗派が違っても全然関係なく勉強したり、遊んだりする」と声をそろえる。
「放課後、家に連れてきて遊ぶこともあるよ」と一人の男生徒。「でも(同じ宗派の友人同士が行く)地元のクラブには一緒に踊りに行ったりはしないかな」。
「同じ教育機関に通ったからといって、全ての問題は解決しない。統合学校に行っただけで差別や偏見が全て消えるなんてことはないし、学校に期待を持たせすぎないほうがいい」と、自分の子供も統合学校に通わせた、「エコノミスト」ジャーナリストのオコナー氏が言った言葉を思い出した。
学校から外に出るために校門まで歩く途中の道で、近隣の建物と学校を隔てる高い柵が付けられていることに気づいた。柵の上には鉄製の突起物がついており、校門以外の場所からは絶対に入らせないぞ、という意思を感じた。何故これほど頑丈な柵を作る必要があるのか。柵も銃のモザイクも、ベルファーストに住む子供からすれば見慣れた光景で、ことさら気にならないのだろうか。
統合学校はカトリック、プロテスタント系住民の両方から反発を受けやすい、とNICIEのギルバンさん。カトリック教徒から見れば敵であるプロテスタントの子供がいる学校であり、プロテスタントか見ればその逆だからだ。子供の数が少なくなり、生徒の取りあいとなっている北アイルランドでは、生徒が統合学校に行けば自分たちの学校が閉鎖される状態を恐れる学校もある。しかし、理想として統合学校を支持する声は高まるばかりだ。
2001年から03年の間に北アイルランドで行われた「オムニバス・サーベイ」では、81%の人が統合学校は平和と和解に役立つと答えている。2005年の「ライフ・タイムズ・サーベイ」では、現実には北アイルランドの90%の地域がカトリックかプロテスタント居住区に分かれているものの、79%の人は異なる宗派同士が混在する地域に住むことを望んでいるという結果が出た。
現実は希望とはかけ離れており、未来図は不明だ。しかし、数世紀いさかいが続いてきた北アイルランドは、今、自力で新たな将来を作る産みの苦しみの時期にあるのかもしれない。(終)
「ベルファーストの悲劇と未来ー忘れられたアパルヘイト」より
(「Ripresa」(リプレーザ)誌、 社会評論社、2007年第2号掲載)
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