2010年06月26日09時14分掲載
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社会科学者・高島善哉に今学ぶこと 激動の「昭和」を生き抜いた生涯 安原和雄
ヨーロッパ近代の経済思想に学びつつ、激動の「昭和」を生き抜いて、日本独自の社会科学の構築に生涯をかけた社会科学者・高島善哉に今、遺された後世の我々が学ぶべきことは少なくない。そこに一貫しているのは、国家権力にそれなりの批判的な姿勢を持続させたことである。二つの具体例を挙げたい。
一つは、あの戦時中、出陣学徒に向かって「生きて帰ってこい」と励まし、当時の潔(いさぎよ)く死を選ぶ「常識」に抵抗する姿勢を変えようとはしなかった。この反権力の姿勢は今のテーマに翻訳すれば、反「日米安保」に通じるのではないか。
もう一つ、戦後になって、高島は「経済学の父」として名高いアダム・スミスの自由競争論を正しく理解することに貢献した。特に21世紀に入って日米両政府の旗振りによって大きな災厄をもたらし、破綻したあの市場原理主義(=新自由主義)はスミスの自由競争論の誤解に基づくところが大きい。その市場原理主義はここへきて復活を策しているだけに今こそ、スミスの自由競争論の真意を学ぶ必要がある。その意味では高島は身近なところで今なお生き続けている。
<演題:「高島善哉 研究者への軌跡」>、<講師:上岡修>による如水会(一橋大学卒業生の同窓会)定例午餐会が2010年6月24日、東京・千代田区一ツ橋の如水会館で開かれた。去る3月出版された上岡修著『高島善哉 研究者への軌跡 孤独ではあるが孤立ではない』(新評論)の出版記念会で、発起人役の長田五郎横浜市立大学名誉教授ら一橋大学高島ゼミ出身者を中心に多数参加した。
席上、著者の上岡(注1)から「高島先生は生前、人生を知るためには100歳まで生きねばならない」と語っていたことが披露された。現実には86歳であの世へ旅立ったが、時代を見据える社会科学者であるためには、書斎に閉じこもる本の虫であってはならない、という信念に基づく発想である。音楽、歌舞伎、映画、演劇に限らず、落語にも関心を広げていた。最近は学界だけでなく、あらゆる分野で器量の小さな専門家が多いという印象があるだけに、このエピソードには参加者の多くがうなずいていた。
(注1)著者・上岡修(1946〜)は成城大学経済学部卒、関東学院大学院経済学研究科(高島ゼミ)修士課程修了。元都立高校教諭、「日本子どもを守る会」理事。1978年から高島教授逝去直前の89年末まで、加齢とともに視力を失った高島の「目と手」の助手を務めた。成城大時代の指導教授、上野格(現在成城大名誉教授)は高島ゼミ出身である。
▽ 高島もついに検挙され、留置場に拘束
以下では上岡の著作を手がかりにして、「社会科学者・高島に今学ぶこと」を考える。その一つはあの戦争下での高島の言動である。
高島(注2)は1945年8月14日(終戦日の前日)、学生たち(戦争のための学徒動員をかけられなかった居残りの学生たちは、当時「勤労学生報国隊」と呼ばれていた)を前に語りかけた。
「今日明日というごく短時間の将来に、私たちは日本の運命を決するきわめて重大な出来事に遭遇するかもしれない。しかし諸君は度を失ってはいけない。社会科学の学徒として諸君はそれをいかに受け止めるかということがわかっているはずだ。私たちの学問がその力を試される日が来たのである」と。
日本の敗戦をこのような間接的な言葉でしか語ることができなかった、その発言の含意を理解するためには、特に最近の若者たちには若干の補足説明が必要だろう。敗戦後の日本国憲法(1947年5月3日施行)は学問、思想の自由を建前としては保障しているが、敗戦までの明治憲法下ではその自由はなく、抑圧されていた。真実をそのまま語ることは許されなかった。当時は警察権力(思想犯は警視庁特別高等課が担当)によって多くの教授たちが治安維持法(注3)違反として検挙、起訴された。
高島(当時は講師)も例外ではなかった。1933(昭和8)年12月自宅を杉並署特高係に襲われ、検挙された。共産党中央機関紙の購読者、などが理由として挙げられた。数時間留置場に拘束された後、釈放されたが、当時の新聞は「高島講師召喚」、「赤化教授の温床 商大を清掃 ― 高島講師を最後に」などと、国家権力に抵抗する学者たちの拘束を肯定する立場から派手に書き立てた。
(注2)高島善哉(1904〜1990年)は岐阜県生まれ。東京商科大学(現・一橋大学の前身)卒後、講師、助教授、教授を経て、1966年一橋大学退職後、関東学院大学大学院などの教授(1981年まで)を歴任。著書は『経済社会学の根本問題』、『社会科学入門』、『社会思想史概論』(共著)、『アダム・スミス』、『民族と階級』、『マルクスとヴェーバー』、『現代国家論の原点』、『社会科学の再建』、『時代に挑む社会科学 ― なぜ市民制社会か』ほか多数。これらの著作は渡辺雅男(一橋大学教授)責任編集「高島善哉著作集」(全9巻・1997〜98年刊、こぶし書房)にほぼ収められている。独自の日本的社会科学論の構築に努め、メディアでの時論、評論も話題を集めた。
実は私(安原)も学生時代、高島ゼミの一員で、当時(1956〜58年)はマルクス著『資本論』を読んだ。「資本論は、音楽でいえば、ベートーベン作曲の交響曲第九のような壮大な物語」が高島教授の口癖だったように記憶している。
(注3)治安維持法は国体(明治憲法下での天皇制)の変革、私有財産制度の否認を目的にする結社活動や個人的行為を処罰する法律で、1925(大正14)年公布、28(昭和3)年、最高刑として死刑が追加された。敗戦とともに1945(昭和20)年10月廃止された。
▽戦時中、出陣学徒に「生きて帰ってこい」と激励
太平洋戦争(=大東亜戦争)が始まった1941年12月8日、高島は次のような「学生補導課長としての訓辞」を行った。
「諸君は、今日から始まった大東亜戦争の最後の戦士である。遠くない日に諸君は戦場に征(ゆ)くであろう。戦地において卑怯未練といわれてはならぬ。青白いインテリと笑われてはなりません。しかしその時まで諸君はこの大学で今まで同様にしっかりと勉強してほしい。諸君の任務は戦後の経営にある」と。
高島が一番言いたかったことは、末尾の「諸君の任務は戦後の経営にある」であった。ここでの「戦後の経営」とは、単に企業経営を指しているのではなく、「戦後日本再建の経営」を意味していたはずである。これを聴いた当時の学生の一人、平田清明(注4)は「忘れがたい言葉」であったという回顧談を遺している。
(注4)平田清明(1922〜95年)は、高島ゼミ出身、経済学者。京都大学教授、鹿児島経済大学長などを歴任。著書に『市民社会と社会主義』など。
1943(昭和18)年9月、戦局の悪化とともに政府は理工系を除いて学生の徴兵猶予の停止を決定し、学生たちは満20歳になると、徴兵検査を受けて軍隊入りしなければならなくなった。学業半ばで徴兵されるいわゆる「学徒出陣」である。同年10月21日、明治神宮の外苑競技場で出陣学徒壮行大会が行われた。
当時の「一橋新聞」(同年11月10日付)は出陣学徒の「壮行特輯号」を編み、高島の「社会学徒の自覚を持って戦い抜け」と題する一文(要旨)を載せた。
「職業的な戦士、技術的な戦士、発作的な戦士、盲目的な戦士は諸君には相応しからざるものである。あくまで社会学徒たる自覚をもって大事に臨め。これが私の諸君に熱望する主たる眼目である。(中略)私はこの際諸君にあらゆる形態の敗北主義を警告する。最後の瞬間まで社会を学び研めよ。そして戦いに勝ち帰れ。そのとき諸君は初めて真の闘士となることができる」と。
高島がここで強調したかったのは、一つは「あくまで社会学徒たる自覚をもって大事に臨め」であり、もう一つは「戦いに勝ち帰れ」である。この二つの文言を約(つづ)めれば、「社会学徒の自覚をもって、戦いに勝ち帰れ」となる。高島は1943(昭和18)年ころからすでに日本の敗戦必至を見通していたというから、「戦争に勝って帰ってこい」ではなく、「無駄死にしないで生きて帰ってこい。社会学徒としての仕事が待っている」と願ったのである。
著者の上岡修は次のように書いている。
高島はあくまで戦争をプロセスとして捉え、戦後にこそ真の闘士としての仕事があることを訴えた。高島は出陣学徒には繰り返し次のように言って励ましの言葉としていた。
「必ず生きて帰ってきてほしい。諸君のほんとうの仕事は戦後にあるのだからだ」と。
▽ 「生きて帰ってこい」は当時の「常識」に反していた
これ以降高島は繰り返し学生たちに向かって「生きて帰ってこい」と言い続けた。
1943年12月1日の入隊の日を前にして高島に挨拶に行った韮澤忠雄(注5)は次のように想い出を語っている。
(注5)韮沢忠雄(1922〜2007年)は、高島ゼミ出身、ジャーナリスト。新聞「赤旗」編集長などを歴任。著書に『マスコミ信仰の破たん』ほか。
「先生は『生きて帰ってくれ』と言ったのでおどろいた。出陣学徒の壮行会(1943年10月)でも出陣学徒代表が『生等もとより生還を期さず』と答辞で述べたように、兵隊にいくからには生きて帰らない覚悟というのが当時の常識になっていた。その常識と正反対の、『生きて帰ってくれ』という高島先生の言葉は奇異に聞こえたからである」と。
たしかに当時の常識とは180度異なっていた。ただし常識といっても、それは奇怪な常識であった。当時の多くの日本人を「常識」の虚名で精神的な金縛り状態にしていた具体例として「戦陣訓」(せんじんくん)を挙げることができる。これは1941年1月当時の陸軍大臣・東條英機(注6)が出した訓令で、軍人としての行動規範を示した文書として知られ、その中に次のような文言がある。(フリー百科事典『ウィキペディア』・戦陣訓から)
(注6)東條英機は開戦時(1941年12月8日)の首相。敗戦後東京裁判で「A級戦犯」として絞首刑に処せられた。
「恥を知る者は強し。常に郷党(きょうとう)家門の面目を思ひ、いよいよ奮励(ふんれい)してその期待に答ふべし、生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿(なか)れ」と。
この大意は以下のようである。
「郷党家門の面目を思い、捕虜となって恥をさらしたり、捕虜として相手に協力して、後でその罪を問われるようなことがないように覚悟している者は強い。だから強くあるためには、そのような覚悟をしておけ」と。
特に「生きて虜囚の辱めを受けず」が軍人、民間人の大量の無駄死(特別攻撃機による自決や集団自決など)を招く精神的束縛となった。
<安原の感想> 「生きて帰ってこい」と21世紀の反「日米安保」と
「いのちを大切にしよう」というスローガンに今どき疑問をはさむ人はいないはずである。しかし悪法・治安維持法が死刑を掲げて睨みを利かせていた戦争下では「生きて帰ってこい」と出陣学徒を励ます正しい姿勢は、強い信念と勇気を要することだった。
終戦の1945(昭和20)年夏、私は小学5年生で、それなりの軍国少年だった。山本五十六連合艦隊司令長官が戦死した時、「これで日本は負ける」と思い、やがてルーズベルト米大統領が病死すると、「これで日本は勝つぞ」などと、状況追随型の単純思考を超えることはなかった。
ここで考えてみたいことは、戦争中に「生きて帰ってこい」と世の大勢に抵抗した姿勢はこの21世紀の今なら、どういう生き方につながるのかである。端的に言えば、反「日米安保」ではないか。日米安保体制は戦争のための暴力装置であることを忘れてはならない。しかし反「安保」を堅持したからといってかつてのような死刑が待っているわけでもない。むしろ反「安保」の世論は増えつつある。
にもかかわらず大手メディアは事実上、安保批判の精神を失っている。これは何を意味するのか。あえていえば、権力批判を忘れて、目を曇らせ、状況追随型の単純思考に囚われているのではないか。これでは軍国少年だった私の小学生時代の思考と大差ない。
▽ 「誤解の中のアダム・スミス」から「正しいスミス理解」へ
古典的著作『国富論』で知られるアダム・スミス(注7)が今生きていたら、「私は誤解されている」と抗議するに違いない。高島の学問、思想上の功績として今こそ高く評価すべきことは、このスミスへの誤解を正しい理解に導くためにエネルギーを注いだことである。これが「社会科学者・高島に今学ぶこと」の、もう一つである。
以下は<ブログ「安原和雄の仏教経済塾」>(08年11月7日付)の記事「自由競争と自由放任を混同するな スミスが今生きていたら異議を」が下敷きになっている。
(注7)アダム・スミス(Adam Smith 1723〜90年)は「経済学の父」とうたわれたイギリス(スコットランド生まれ)の経済学者であり、同時に道徳哲学者であった。主著として『道徳感情論』(初版・1759年)と『国富論』(または『諸国民の富』初版・1776年)が著名。
スミスはどのように誤解されているのか。典型例は、スミスといえば自由放任、自由放任といえばスミス、というイメージがかなり定着していることで、これは日本に限らない。例えばスミスの母国イギリスで編纂された『岩波・ケンブリッジ 世界人名辞典』(岩波書店、1997年)は、スミスについて「『国富論』の中で、分業、市場機能、自由放任主義経済の国際的な意味など、経済活動の自由を生み出すものを考察した」と書いている。
自由放任主義という表現を使っていることからも分かるように、スミスすなわち自由放任という理解が世界に広がっているといっても過言ではない。しかしこれは大いなる誤解である。
「自由放任は誤解」という意見を紹介しよう。
イギリスの著名な経済学者、ジョン・M・ケインズ(1883〜1946年、主著は『雇用、利子及び貨幣の一般理論』)は論文「自由放任の終焉」で「自由放任という言葉はスミスの著作の中には見当たらない」と述べている。
スミス研究家として知られる高島も著作『アダム・スミス』(岩波新書)で次のように繰り返し指摘している。
「スミスは人間の利己心の意義を説き、自由放任主義の元祖だったのではないのかと思いこんでいる人には、それは一知半解のスミス観で、現代のスミス像としては、もはや古くさいかびのはえてしまったものだということをいっておきたい」
「著作の『道徳感情論』、『国富論』のどのページを開いてもただの一度も自由放任という文句にお目にかかることはない。スミスの自由思想を自由放任という合い言葉で語るようになったのは、スミス自身ではなく、後の亜流や解説者たちだった」
「スミスの書物のどこを探しても、自然的自由、自由競争という言葉はいたるところでお目にかかるが、自由放任という言葉はついに出てこない。スミスの社会哲学原理からいって当然のこと」など。
▽「正義の法」の下での利己心と自由競争
「スミスすなわち自由放任」という捉え方が誤解だとすれば、なぜそういう誤解が生じたのか。自由競争と自由放任とはどう違うのか。ここが問題である。
日本での誤解の一因になっていると思われる岩波文庫『諸国民の富』(大内兵衛・松川七郎訳、第一刷1965年)のつぎの一節(〈三〉502ページ)を紹介したい。
「あらゆる人は、正義の法を犯さぬかぎり、各人各様の方法で自分の利益を追求し、(中略)完全に自由に放任される」
『諸国民の富』の中で「完全に自由に放任される」つまり「自由放任」と受け取ることができる訳語はここ一カ所である。私的利益と自由競争を強調するスミスのイメージと重なって、スミスすなわち「laissez faire レッセ・フェール(自由放任)の主張者」というイメージが日本で定着したのは、この日本語訳にも一因があるのではないか。
参考までにこの一節の原文・英文を紹介すると、つぎのようである。
Every man , as long as he does not violate the laws of justice , is left perfectly free to pursue his own interest his own way , ・・・・・
旧訳から36年振りに新訳として出版された岩波文庫『国富論』(水田洋・注8=監訳 杉山忠平訳、第一刷2001年)によると、上記の部分はつぎの日本語訳(『国富論』3・339ページ)となっている。
(注8)水田洋(1919〜)は東京商科大学・高島ゼミ出身、社会思想史家。名古屋大学教授、名城大学教授などを歴任。現在学士院会員。著書に『アダム・スミス研究』ほか多数。
「だれでも、正義の法を犯さないかぎり、自分自身のやり方で自分の利益を追求し、(中略)完全に自由にゆだねられる」
旧訳の「完全に自由に放任される」から新訳では「完全に自由にゆだねられる」に修正されている。これなら「自由放任」という誤解は生じないのではないか。
これで「自由放任」に関する誤解は解消するが、もう一つ重要なことは、上記の同じ一節から分かるようにスミスは無制限なしかも勝手気ままな利己心=私的利益の追求のすすめを説いたわけではないという点である。「正義の法を犯さぬかぎり」という厳しい条件を付けている。これは単に法律を犯さなければよいという意味ではなく、倫理、道徳上の制約とも理解できる。いいかえれば利己心の発揮には「正義の法」の遵守が前提であり、不可欠であることを強調している。この一点を見逃してはならない。
<安原の感想> (1)スミスに還ることの今日的意義
重要なことは、スミスは無制限の自由放任を説いたのではなく、「正義の法」の範囲内での自由競争を説いたという事実を適正に理解することである。これを今の時点でスミスに還って確認することはどういう意義を持つだろうか。
第一に米国発の世界金融危機(2008年発生)をもたらしたのは、「市場は万能」という旗を掲げて、一切の規制も倫理もモラルも排除し、自由放任路線を暴走した市場原理主義(=新自由主義)である。いいかえれば世界金融危機の責任は、スミスの経済・道徳思想にはない。
第二に、このことは市場原理主義破綻後の市場経済の望ましいあり方に深くかかわってくる。2つの路線選択が考えられる。一つは自由放任(レッセ・フェール)型市場経済の復活であり、もう一つは「正義の法」型市場経済の構築である。
前者の性懲りもない復活の可能性が消えたわけではない。市場原理主義者たちはむしろその再生の機会をうかがっている。しかしもはやこれは望ましい選択ではない。望ましいのは、21世紀にふさわしい「正義の法」型市場経済をどう構築していくか、である。
<安原の感想> (2)21世紀版「正義の法」のイメージは?
さて新しい21世紀版「正義の法」はどういうイメージだろうか。その柱は以下のように考えることができる。
第一の柱は同感(sympathy)である。
これはスミスの『道徳感情論』に出てくるキーワードである。自分あるいは他人の行為の是非を判断するときの原理となるもので、「中立的かつ公平無私な見物人あるいは観察者」の立場からなされる。
例えば高い地位をめざす競争で、競争相手を追い抜くために力走していいが、もし競争相手を踏みつけたり、引き倒したりすれば、同感の原理に反し、フェア・プレーの侵犯として「公平無私の見物人」は許さない、とスミスは述べている。
この同感は、野放図な市場原理主義路線のために乱れきった企業モラルを是正する原理として、そのまま21世紀の今にこそふさわしい。
第二は地球環境の汚染・破壊を食い止めるための社会的規制など市場をコントロールするための新しい枠組みである。
これは21世紀最大の課題である「持続可能な経済社会」づくりに不可欠である。市場原理主義者たちには自己利益、私利への関心は異常なほど強いが、地球環境への関心は皆無に等しい。その意味でも、市場原理主義者はもはや21世紀の経済を担う資格はない。
第三は脱「経済成長主義」をめざす「知足の精神」も必要なときではないか。
資本主義的市場経済下での経済成長主義がもたらす資源・エネルギーの過剰浪費と過剰廃棄をどう抑制するかが大きな課題となってきた。経済成長すなわち生産・消費・廃棄の「量的拡大」ではなく、国民生活の「質的充実」をめざすときである。質的充実は知足の精神と両立しうる。
第四は経済のグローバル化にともなう巨大な「負の影響」の是正策である。
例えば証券・為替市場における投機化と暴力化(=カジノ資本主義化)を封じ込めるための規制、さらに地球規模で広がる飢餓、貧困、疾病、水不足などへの対策も不可欠である。これは地球規模での生存権をどう保障するかという課題である。
以上の21世紀版「正義の法」のうち第二から第四までは18世紀のスミスの視野にはない。それはスミスの時代が求めていなかったからである。スミスの責任ではない。だから今日、スミスに学び、生かすためにはスミスに還り、そしてスミスを超えなければならない。
どう超えればよいのか。結論だけ言えば、市場原理主義破綻後の新しい「自由競争」、「市場経済」は、「市場の欠陥」(市場の投機化、地球環境の汚染・破壊、資源エネルギーの浪費、飢餓、貧困、格差、人間疎外など)を補正するための社会的規制(自然環境、土地、都市、医療・福祉、教育、労働などの分野での公的規制)と共存できるものでなければならない。
*本稿は「安原和雄の仏教経済塾」からの転載です。
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