2010年07月03日10時58分掲載  無料記事
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やさしい仏教経済学

(5)シューマッハーの「小さいことは素敵」 安原和雄

  仏教経済学(思想)に関する業績は多様である。ここではドイツ生まれの経済思想家、E・F・シューマッハーが唱えた仏教経済学を紹介したい。シューマッハー流の仏教経済学が目指すものは、簡素と非暴力、知足、中道と「正しい生活」、非貨幣的価値、量ではなく質、資源エネルギーの節約、真の豊かさと完全雇用、地域資源の活用 ― などである。 
 注目に値するのは「中間技術」という新しい技術観を唱えて、巨大技術を排していることである。これが著作のタイトル「Small is beautiful」(スモール イズ ビューティフル)となっている。この著作に触れたことが私にとって現代経済学から仏教経済学に宗旨替えするきっかけとなった。彼は講演旅行中の列車内で客死したが、その仏教経済学は今日、継承発展させるべき優れた遺産と考える。 
 
 シューマッハー(1911〜77年)の発想の妙をうかがわせることばを紹介したい。経済学者仲間から「経済学と仏教とどんな関係があるのか」と聞かれて、こう答えた。 
 「仏教抜きの経済学は愛のないセックスである」と。「精神性を欠いた経済学は一時的な物的満足を与えるだけで、内的な達成感は与えない」と言いたいのである。ここでの「精神性を欠いた経済学」とは、わが国でいえば大学経済学部で通常教えられている現代経済学(ケインズ経済学、新古典派経済学=通称・新古典派総合、自由市場原理主義など)を指している。 
 さらに仲間の経済学者たちが彼を変わり者と呼ぶと、シューマッハーはユーモア感覚で次のように応じた。「変わり者のどこが悪いのか。変わり者とは革命を起こす機械の部品で、それはとても小さい。私はその小さな革命家だ。それ(変わり者)は褒め言葉なのだ」と。同感である。 
 
▽ 仏教経済学は現代経済学と比べてどう異質なのか 
 
 シューマッハーの著書『スモール イズ ビューティフル ―― 人間中心の経済学』(原本・英文『Small is beautiful』は1973年に発刊され、世界的なベストセラーに)の中で「仏教経済学」(Buddhist Economics)と題する一章を設けて、現代経済学とどう異なり、どのようにして現代経済学を超えることができるかを論じている。以下にその<仏教経済学の特質>と<現代経済学の特質>を比較表示する。 
 
 <仏教経済学の特質>(かっこ内が<現代経済学の特質>) 
*基調:簡素と非暴力(富への執着と暴力、戦争)、非物質的価値=正義、調和、美、健康=の重視(物質的価値の重視)、労働者重視(労働の生産物重視) 
*基本道徳:知恵、正義=真、勇気=善、節制=美・知足(目先の利益、狭量で卑小、打算的) 
*目標:中道=八正道の一つである「正しい生活」(唯物的な生活様式) 
*方法論:非貨幣的価値と質の重視(貨幣価値と数量化の重視) 
*石油などの再生不能資源:節約型(浪費型) 
*豊かさ観:適正規模消費で満足の極大化(適正規模生産で消費の極大化) 
*労働と余暇:仕事と余暇は相補う関係(労働は必要悪) 
*雇用:真の意味の完全雇用(失業を容認) 
*生産技術:大衆による生産の技術=中間技術。小さいことは素晴らしい、人間の背丈に合わせること(大量生産の技術=巨大技術) 
*農業と工業:農業が主役(工業が主役)、化学肥料・農薬の大量使用の拒否(その大量使用) 
*貿易:地域資源の活用(遠隔地の資源に依存) 
 
▽ 簡素こそが「暴力と戦争」を回避できる 
 
 両者を見比べれば、おのずからその相違点が浮き彫りになってくるが、おおまかな説明を加えたい。 
 まず基調(基本思想)として指摘できることは、現代経済学の立場では富に執着するあまり、必然的に暴力と戦争へとつながっていくことである。これに対し、仏教経済学の基調は簡素であり、従って相争うことが少なく、非暴力である。もともと物的資源・エネルギーには限りがある。従ってそれを貪(どん)欲に求めるか、それとも簡素・節約を旨とするかが暴力、戦争を引き起こすかどうかのきわめて重要な分岐点とならざるをえない。 
 シューマッハーは次のように指摘している。 
 「自分の必要をわずかな資源で満たす人は、これを沢山使う人たちよりも相争うことが少ないのは理の当然である。同じように、地域社会のなかで自足的な暮らしをしている人たちは、世界各国との貿易に頼って生活している人たちよりも戦争などに巻き込まれることがまれである」 
 
 また現代経済学の立場では、再生不能資源(石油・石炭・天然ガスなどの化石燃料、鉄鉱石などの鉱物資源)の浪費に走りやすいが、仏教経済学は再生不能資源節約の重要性を強調する。この違いは何を意味するのか。シューマッハーの次の指摘も見逃せない。 
 「再生不能の燃料資源は、その地域的分布がきわめて偏っており、総量にも限界があるから、それをどんどん掘り出していくのは、自然に対する暴力行為であり、それは間違いなく人間同士の暴力沙汰にまで発展する」 
 21世紀に入ってからのアメリカを主軸とする多国籍軍によるアフガン、イラクへの侵攻の背景に中東地域などにおける再生不能の石油、天然ガス資源の確保があったことは否めない。近現代の多くの戦争が資源・エネルギーの確保と争奪をめぐる国家間の暴力沙汰であったことは改めて指摘するまでもない。 
 
▽ 目標は中道(節制・知足)と「正しい生活」 
 
 基本道徳では現代経済学が狭量で卑小かつ打算的であるのに対し、仏教経済学は知恵、正義(真)、勇気(善)と並んで節制(美)を掲げていることに注目したい。節制すなわち知足は真善美の美に結びつく。知足の対極にある貪欲が美と正反対の醜を意味することはいうまでもない。 
 
 仏教の基本思想の一つは中道(注1)である。中道とは、決して物的な福祉を軽視するわけではない。富や楽しむことそれ自体、その全てを排するのでもない。排するのは執着心であり、焦がれ求める心である。中道はまた節制すなわち知足を意味し、仏教の八正道(注2)の一つ、「正命=正しい生活」につながっていく。だから仏教経済学では中道そして正しい生活が追求すべき目標となってくる。現代経済学が目標として唯物的な生活様式にこだわるのと異なる大きな特色である。 
 
 (注1)仏教でいう中道とは、通俗的な「ほどほどに」とか「足して二で割る」という意ではない。中道とは「道に中(あた)ること」という意であり、道理に合っていなければならない。道理に目覚めれば、おのずから執着心は解消し、極端にも走らないという考え方である。 
 (注2)中道はすなわち正道である。仏教の八正道(はっしょうどう)とは、正見(正しく道理を見る)、正思(正しく道理を思惟する)、正語(真実の言葉で語る)、正業(清浄な身のこなし、心のかまえ)、正命(正しい生活)、正精進(悟りにいたる道に励む)、正念(正しい道を念ずる)、正定(正しい精神の集中とその安定)の八つを指している。 
 
▽ 豊かさ観 ― 消費の極大化、それとも満足の極大化か 
 
 豊かさ観も大きく異なる。現代経済学では豊かさを「適正規模の生産で消費の極大化」、つまりできるだけコストの安い財・サービスの供給と、消費の極大化(限りない欲望の充足と大量の廃棄物の排出)と捉える。これに対し、仏教経済学では豊かさを「適正規模の消費で満足の極大化」、つまり消費を抑える生活様式をとる中での満足の極大化(中道、知足の正しい生活)を追求する。シューマッハーは次のように述べている。 
 「現代経済学者は、生活水準を測る場合、多く消費する人が消費の少ない人よりも豊かであるという前提に立って、年間消費量を尺度にする。仏教経済学者にいわせれば、この方法は大変不合理である。その理由は、消費は人間が幸福を得る一手段にすぎず、理想は最小限の消費で最大限の幸福を得ることであるはずだからである」 
 
 労働と余暇、生産技術はどう異なるのか。人間の労働が富、経済の基本的な源泉であることはいうまでもない。ところが労働観、余暇観が大きく異なる。 
 現代経済学では労働は必要悪であり、労働は経営上は一つのコストにすぎず、大量の失業を当然視する。だから労働者にとっては余暇と楽しみを十分に享受することはできない。これでは働くことが働きがい、生きがいに通じることにはならない。 
 仏教経済学の立場ではどうか。仕事の役割は三つある。一つは、人間にその能力を発揮、向上させる場を与えること、次は他人との協力によって自己中心的な態度を棄てさせること、第三はまっとうな生活に必要な財とサービスを作り出すことである。こういう労働観に立って、真の意味の完全雇用を追求し、一方、仕事と余暇に関する次の指摘は十分玩味してみる必要がある。 
 「仕事と余暇とは、相補って生という一つの過程を作っている。二つを切り離してしまうと、仕事の喜びも余暇の楽しみも失われてしまう」 
 
 以上のような現代経済学と仏教経済学との相違点を特色づけているものは何か。前者が貨幣価値と数量化を重視するのに対し、後者は非貨幣的価値(貨幣に換算できない価値=真,善、美など)と質を重視することである。 
 
▽ 反「巨大技術」で、「中間技術」のすすめ ― Small is Beautiful 
 
 生産技術では現代経済学は大量生産方式、従って巨大技術を追求するのに対し、仏教経済学は大衆による生産を重視し、従って人間だれしも持っている資源である「良く働く頭脳と器用な手」の活用が中心となる。これは「中間技術」(intermediate technology)の採用、導入を意味する。 
シューマッハーは中間技術について次のように指摘している。 
「それは技術発展の新しい方向、すなわち人間の背丈に合わせる方向である。人間は小さいもので、だからこそ小さいことは素晴らしい(Man is small, and, therefore, small is beautiful)。巨大さを追い求めるのは自己破壊に通じる」と。 
ここでの「Small is beautiful」がそのまま著書のタイトルにもなっている。 
 
 巨大技術と中間技術は質的にどう異なるのか。シューマッハー説に耳を傾けよう。次のようにまとめている。 
<巨大技術>=暴力的で生態系を破壊し、再生不能資源を浪費し、人間性を蝕む。 
<中間技術>=自立の技術、民主的技術、民衆の技術と呼んでもよい。さらに労働集約型、小規模、分散化の促進(地域、管理面での集中の排除)、自己制御の原理の尊重、生態系・環境・資源の保全、人間への奉仕、市場の変化への柔軟性 ― など。 
 
 注目すべき点は、現代資本主義にみる巨大技術を「暴力的」と捉えており、一方、中間技術は「民衆の技術」であり、その特色として「労働集約型、小規模、分散化、自己制御」さらに「環境・資源の保全、人間への奉仕」などが挙げられている。例えば原子力発電のような巨大技術は暴力的であり、その対極に中間技術があり、これこそが「人間奉仕」の技術という位置づけである。 
 
<参考資料> 
*E・F・シューマッハー著/小島慶三ら訳『スモール イズ ビューティフル ― 人間中心の経済学』(講談社学術文庫、1989年) 
*同著/酒井 懋訳『スモール イズ ビューティフル再論』(同、2000年) 
*E・F・Schumacher『SMALL IS BEAUTIFUL― Economics as if People Mattered』(HarperPerennial 1989) 
 
*本稿は「安原和雄の仏教経済塾」からの転載です。 
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