2010年07月29日16時11分掲載
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文化
【多田富雄を偲ぶ】(2) 「あの世へ行くときは、『融(とおる)』の早舞を舞っているかも知れません」 笠原眞弓
すでに旧聞に属するが、どうしても書いておきたいと思う。6月18日、「多田富雄を偲ぶ会」は、梅雨冷の雨のなかで行われた。会場に着くと、故人縁の方々が大勢集まっている。紫の無地の紋付姿で式江(のりえ)夫人は、入り口でそのお一人おひとりとご挨拶をなさっていた。短い言葉をすばやく丁寧に交わしていくその奥では、うちとけた笑顔の多田富雄氏が白い花に囲まれてこちらを見ている。「いらっしゃい、待っていました」と、トーキングマシンを通さないやさしい声が聞こえたような……。
すでに会場のスクリーンには、京都の東寺で上演された多田氏による能「一石仙人」の映像が。この能は、アイン・シュタインの化身の一石仙人を呼び出し、宇宙の起源から核に頼るこの世の消滅までを語らせる趣向。広島、長崎の原爆を主題にした能につながっていく。
開会の挨拶のあと『融(とおる)』の早舞が、浅見真州によって舞われた。白洲正子に始めて会ったのが、正子が昏睡状態の時で、徐々に覚めてきて「『弱法師(よろぼし)』の出の舞を舞っていた」と言ったそうだ。それに応えて多田氏は、「自分が死ぬときは『融』の早舞を舞っているだろう」といったその舞である。力強く、テンポの速い舞は、いかにも多田氏の好みそうなものだった。600人を超える参会者は、それぞれの多田氏への思いを胸に、静かに見入っていた。
ところで『融』は、通夜の席でよく謡われる。平安初期、嵯峨天皇の皇子、源融から題材を得ているといわれ、源氏物語の光源氏のモデルときくとその風雅さが想像できる。源融は、京都六条河原に屋敷を建て、自分では見たこともない陸奥の絶景塩釜の風景をそっくり再現したという。難波の海から汐水を汲んで来て池を満たし、実際に小さな窯で塩まで作って遊んだとか。その六条河原の屋敷跡で休む旅の僧の前に汐汲みの翁が現われ、不審に思う僧に、六条河原の融の屋敷の来歴を話す。話に興じるうちに秋の夕陰が深くなり、翁は退場。
後段のシテ、若き融の化身が舞うのがこの早舞である。月明かりの一夜を僧とともに遊び、鳥が鳴き鐘が聞こえて月が傾くと、融の霊は「あら名残惜しの面影や名残惜しの面影。」と退場する。
この最後の「名残惜しの面影」の繰り返しが、切なく胸に迫る。
間にNHKで放映された映像や、梅若玄祥による白洲正子を悼む『花供養』(多田富雄作)をはさみ、多田氏を偲ぶ言葉が続く。免疫学者としての業績を讃え、生きた証は人々の心に生きつづけるだろうと結んだ岸本忠三氏は、やはり先駆的免疫学者石坂公成氏の下で学んだ仲間。科学者でありながらチェリストの村上陽一郎氏は、科学者が国際的学績を上げることに汲々として、分野が細かく刻まれて蛸壷化が日々進んでいる。その中で多田氏は世界に誇る科学的業績をあげながら、多くの後進を育ててきた。しかもなお飽き足らず、『生命の意味論』では思想の世界に踏み込んだ。能と科学を結び付けられるのは、あなたしかいないと結ばれた。3回破門されたという奥村康氏は、ノーブルな研究者に対して自分は土方だった。「奥村のようなだめなやつでもできるから、みんながんばれ」と引き合いに出されたと言葉を継いだ。
羽織袴で登壇したシテ方能楽師の清水寛二氏は、多田氏の新作能四曲にシテはじめ、何らかの形で関わったという。『沖縄残月記』では、八重山の子守唄を入れたりと新たな試みの中で、沖縄側の提案をメールで送ると「激怒、却下」と真っ赤になって返信がきた。それでも結果的には大方の提案は受け入れられ、昨年の今日の全体稽古でokサインが出た。多田氏の新作能が、単に多田富雄というビッグ・ネームの下にあるのではなく、独立して平和を訴えるものとして成長していくだろうと熱く語り、「あちらで新作を書いたら、メールで送ってください。打ち上げには『カンパイ』という声も添えてください」と結んだ。この「カンパイ」は、言葉を失ったあとの多田富雄研究室の集まりで、どうしても発声したいとリハビリに励み、努力に努力を重ねてついに得られたものである。
生前から葬儀委員長を託されていた富岡玖夫氏は、3歳年下で脳梗塞の1年先輩。肝胆相照らす仲だったことを彷彿とさせ、多田氏は非常に厳しかったけれども、とても優しい人だったといいう。車椅子の上から、式江夫人、3人のお子さんとそのご家族を紹介しながら、ご家族に対してありがとう、多田氏のご両親に生んでくれてありがとうと搾り出すように叫んだ。この「ありがとう」は、多田氏がなくなる直前のエッセイ『有難うと叫びたい』(読売新聞09年12月2日掲載・『落葉隻語ことばのかたみ』収録青土社刊)に、「声に出して妻に「有難う」とお礼が言いたい」を代弁しているように思えた。
式江夫人の挨拶の後、偲ぶ会は幕を閉じた。多田氏の優しさは、私にまで及んでいたと懐かしく思い出しながら外に出ると、雨も小止みになり、梅雨の湿気がまとわりついてきた。
いただいた遺作『残夢整理』(新潮社刊)のあとがきは、亡くなる2ヶ月前の執筆、本文は09年12月であろう。亡くなった方々へのレクイエム。読みながら何度涙を流したことか。帯には、「……彼らを思い出すことは、彼らを復活させることにもなります。それも限りなくやさしいやり方で。」とある。
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