2010年08月13日13時44分掲載
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検証・メディア
同盟記事も創作だった 皇居前広場の記事 同盟通信の報道を検証する(3)
朝日新聞は昨年、玉音放送を受けての皇居前広場の様子を描いた八月十五日付の同紙朝刊の記事が創作された予定稿であったことを初めて認めた。同盟通信もこれと同じことをやっていた。ところが、同盟のローマ字対外放送は、その予定稿を誤って事前に送信、途中で慌てて中断したが、これを米国が傍受、翻訳し、APが全世界に配信した。京都新聞などが、この同盟の創作記事を掲載している(鳥居英晴)。
同盟関係者は戦後、このことについて沈黙を守った。しかし、それはニューヨーク・タイムズはじめ世界の新聞に記録として残っている。この事実を指摘したのは、これまで北山節郎『ピース・トーク』(一九九六年)だけである。
FCC(連邦通信委員会)は八月十四日(日本時間)、「聖断」を受けての皇居前広場の様子を伝える同盟の東亜向けローマ字電を傍受、翻訳した。これをAPが配信した。その英訳文を示す。
“How shall the 100,000,000 people, filled with trepidation reply to the Emperor? His Majesty’s subjects are moved to tears by His Majesty’s boundless and infinite solicitude. On Aug. 14, 1945, the Imperial decision was granted. The palace grounds are quiet beneath the dark clouds. Honored with the Imperial edict in the sublime palace ground, the mob of loyal people are bowed to the very ground in front of the Niju-Bashi( the bridge which leads to the palace). Their tears flow unchecked. Alas! In their shame, how can the people raise their heads? With the words, ‘Forgive us O Emperor, our efforts were not enough,’ the heads bow lower and lower as the tears run unchecked. Ever since Dec. 8, 1941, when we received the Imperial rescript, causing His Majesty deep anxiety….”
同盟は約百三十語を送信したところで、編集者に対し、「この記事を保留せよ」と言って途中で送信を中断した。記事はImperial decision(聖断)の中身が何であるのかは説明しなかった。同盟はこの記事の送信を再開することはなかったが、編集者に対して、次のように知らせた。「明日、八月十五日正午ちょうど、重大放送がなされる。この放送は未曽有の重要なもので、一億国民は厳粛に聴取せねばならない」。
この同盟の記事を報じたのは、ニューヨーク・タイムズのほか、確認できる範囲では、ミネアポリス・スタージャーナル、デュルス・ヘラルド、ミルウォーキー・ジャーナル(いずれも八月十四日付)、キャンベラ・タイムズ(八月十五日付)。オーストラリアのアーグスとシドニー・モーニング・ヘラルド(ともに八月十五日付)は、記事が保留になったという記述がなく、事実として伝えられている。
同盟は日本時間十四日午後五時ごろ、午後九時に重要発表があると予告していたが、送信されたのがこの記事であった(メイプル・リーフ八月十五日付)。
北山は、この記事の日本語原文を探し出すことはしていない。そこで、この日本語記事を掲載している地方新聞がないか調べた。東奥日報、北国毎日新聞(現・北国新聞)、京都新聞のそれぞれ八月十五日付朝刊の二面に掲載されている記事がそれだった。京都新聞は「宮城前に伏す赤子 恐懼、涙もて奉答」という見出しをつけている。
「昭和二十年八月十四日、畏き御聖断が下された。暗雲の中に仄かに拝する大内山は静謐にして荘厳限りなき宮城。御詔勅を拝し二重橋前に額ずく赤子の群れは頭を深く垂れ滂沱として押える涙、ああ何の顔あってか頭を上げん。『陛下お許し下さいませ。我ら足りませんでした』。頭はほとばしる涙の裡に深く垂れるばかりである。陛下の御軫念、昭和十六年十二月八日、大詔を拝して以来晨襟を悩ましつくさせ給ふこと五年、夙夜軍装を解かせ給う御暇もあらせわれず一億国民を統率し給いて、国家の興隆と国民の幸福を祈らせ給い一日として、聖慮を安じさせ給う日とてあらせられなかったと思わる」
天皇による詔書の朗読の録音は宮内省内で行われ、十四日午後十一時五十分に終わった。同じころ、首相官邸では迫水書記官長が記者団に正午の玉音放送が終わるまでは朝刊を配送しないよう厳しく念を押しながら、詔書の写しを手渡していた(佐藤卓己『八月十五日の神話』二〇〇五年)。当時、夕刊はなく、詔書を伝える十五日の朝刊は午後に配達された。
「玉音放送」の予告は国内放送では、十四日午後九時のニュースの時間に一回、十五日午前七時二十一分のニュースの時間に二回行われた。午前七時二十一分のニュースは本来、七時であったが、降伏に反対する反乱軍によって放送会館が午前四時ごろから占拠されたためである(竹山昭子『戦争と放送』一九九四年)。
朝日が予定稿であったことを認めた記事は、八月十五日付朝刊第二面に掲載された。「玉砂利握りしめつつ 宮城を拝しただ涙」という見出しの記事は、署名はないが、「私」を主語にした、全文約二千三百字の長い記事である。玉音放送を聞いた直後に記者が皇居前広場で体験したことを描いている。「すすり泣く声あり、身を距たる数歩の前、ああそこにも玉砂利に額ずいて、大君に不忠をお詫び申し上げる民草に姿があった」。この日の新聞は、正午に刷り上がり、玉音放送の後、発送された。
この記事の筆者は、末常卓郎。評論家の加瀬英明は、この記事について、週刊新潮(一九七四年十月十日号)で、予定稿であると指摘、文藝春秋(二〇〇五年二月号)では、「捏造だった」と非難した。
『八月十五日の神話』によると、『朝日新聞社史』(一九九五年)は、この記事について、社報『朝日人』(一九八四年八月号)の記事を転載、「正午の玉音放送開始時間に合わせ末常記者は皇居に行って取材した。すぐ社の方に帰ってきたが、感動のあまり筆が執りにくい状態であったという。この原稿を整理部に渡したのが十二時半ごろ。それから印刷におろして三時ごろ発送した」とした。佐藤卓己はこの説明に納得していない。
二〇〇九年八月の朝日の検証記事は、末常が朝日新聞OB会報の座談会で、「『十四日に皇居前へ行ってあしたの朝刊に皇居前の模様を書け』というので、十四日に原稿を作って、十五日の朝もう一度行って、皇居前の模様を見て、手を入れたわけです」と語っていたのが判明した、としている。
昨年八月の朝日の検証記事は、「末常は、敗戦という未曽有の事態を前に、『民草』がとるべき『正しい』(臣民の道)を記事で示そうとした。徹底抗戦に走るのではなく、天皇や軍部の責任を問うのでもなく、ひたすら泣いて『不忠』をわびる」としている。同盟の予定稿もこれと同じ立場から書かれていると言える。
十四日夜から、陸軍の一部将校が戦争の継続を図って、玉音放送を中止させようとする動きがあった。同盟から海外局編成部長としてNHKに出向していた大屋久寿雄大屋は、十五日午前四時半から午前七時まで、放送局の一室に監禁された。そうしたなかで、この同盟のミスは極めて危険なものであったはずだ
同盟のこの誤送信については、同盟関係者が編集した通信社史刊行会(現・新聞通信調査会)発行『通信社史』(一九五八年)には記されていない。社団法人同盟通信社は一九四五年十月三十一日に解散、九年間の歴史に幕を降ろした。翌日、共同通信と時事通信が発足した。同盟の記事の検証はほとんど行われていない。
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