2010年08月19日01時20分掲載
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内田樹著 「街場のメディア論」(光文社新書) 村上良太
最近、テレビドキュメンタリーを制作している知人のプロデューサーが内田樹氏に出演を依頼したところ、断られたそうです。「内田さんはテレビ出演は一切断っているんだそうだ」と残念がっていました。今月発売になったばかりの内田樹著「街場のメディア論」(光文社新書)に内田氏がテレビ出演を断るようになった経緯が書かれていました。
「僕がテレビに出ないことにしている理由の1つは、前にテレビに出たときに(BSのニュース番組だったんですけれど)、スタッフたちが機材と時計だけを見ていて、しゃべっている僕にはほとんど視線を向けなかったからです。メディアにかかわる人間が、「とりあえず事故なく放送すること」を優先し、「何を放送するか」については副次的な関心しか持たないというのは、やはりシステムの作り込み方が間違っている」
(内田樹「街場のメディア論」より)
つつがなく放送することが自己目的化してしまったテレビというメディアはシステムとして脆弱ではないか、と内田氏は批判します。
確かにそんなことを感じたことがありました。2001年の同時多発テロ事件の後、日本が中東に自衛隊を派遣するかしなかという話になったとき、そもそも我々が自衛隊を派遣しようとしている世界とは何なのか?そんなイスラム圏に関する情報番組を連日終日やってもよかったのではないか。そんなことを知人たちと話したのを思い出します。そういうことができないのか、やろうとしないのか。テレビが本来、得意とできるはずの柔軟性を発揮できなくなっているように思えます。とはいえ、実際に制作現場に立ってみると、つつがなく放送できなかったら・・・というプレッシャーはとても強いものです。失敗したらアウトですから。
さらに、内田氏の次の指摘は鋭いと思いました。
「・・・テレビが生き延びるためには、「テレビは生き延びなければならない」、ということについて、テレビの作り手、送り手たちが身銭を切って挙証しなければならない。ただ「昨日もあったメディアだから、明日もあるはずだ」というような惰性的な説明でテレビの存在根拠を基礎づけることはできません。」
「でも、僕たちが見ることのある「テレビ論」は、新聞の提灯記事的「番宣」と週刊誌の「辛口テレビ評」のたぐいと「昔のテレビはこんなにワイルドで、活気があった」という「懐メロ」的回顧エッセイくらいです。放送界の自己点検のための業界誌はたしかに存在しますし、僕もそこに寄稿を求められたことがありますけれど、そのようなものを真剣に読んでいる人はごく一部にとどまるでしょう。
でも、僕はこの批評性の欠如はテレビの没落の「結果」ではなく、むしろそれこそが「原因」ではないかと思うのです。テレビの没落はそのテレビ界の人々が、自分たちの情報発信がいったい「なんのためのものなのか」という根本のところについて考えるのを怠ったせいで起きたことではないかと僕には思われるのです」
最近は放送後は視聴率しか社内で表示されず、番組の中身については同僚の間でも、制作者の間でも話をすることがほとんどなくなっています。
村上良太
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