2010年09月16日19時53分掲載
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やさしい仏教経済学
(14)井上信一著『地球を救う経済学』(上) 安原和雄
仏教経済思想(学)は、混迷を深める今日の日本経済社会の変革にどこまで貢献できるのか。さらにアジアや世界の平和(=非暴力)、安心安全、幸せにどう寄与できるのか。これが仏教経済思想(学)が目指すべき課題である。
ただ仏教経済学なるものは、日本社会の中でまだ市民権を獲得しているとは言い難い。しかし今後の展望にあえて触れれば、この仏教経済学が市民権を得て、経済思想の中で大きな比重を占める時が来るのもそう遠い将来のことではないと信じている。またそうならなければ日本が救われないだけではない。日本としてアジアや世界の平和、安心安全、幸せの実現に貢献していくことも見果てぬ夢となるのではないかと観じている。
前回、宿題として残していた「(四)既存の現代経済学に代わる新しい仏教経済思想(学)」について今回から紹介してゆきたい。その手始めに井上信一(注)著『地球を救う経済学ー仏教からの提言』(すずき出版、1994年)を取り上げる。
(注)井上信一氏(1917〜2000年)は、東京大学経済学部卒後、日本銀行に入行。宮崎銀行頭取、仏教振興財団理事長、「地球主義学会」初代会長、「仏教経営フォーラム」(現「仏教経済フォーラム」の前身)初代会長などを歴任。著書に『地球を救う経済学』(英訳版『Putting Buddhism To Work』)のほか、『歎異抄に生かされて』、『仏教的経営』、『仏教経済学入門』、『間に合ってよかった 二つの気づきと念仏』など多数。1998年「仏教伝道協会賞」受賞。
なお日本における仏教経済思想(学)を模索・構想する試みは、今回紹介する井上信一氏、前回取り上げた難波田春夫、笠森傳繁両氏の著作に限らない。例えば小沼徹雄著『仏教経済学 ― バーナードから道元へ』、武井 昭著『仏眼で読む日本経済入門』、長部日出雄著『仏教と資本主義』などを挙げることができるが、その紹介は割愛したい。
▽ 高度成長時代の入社試験問題をめぐって
仏教経済学はどういう思想から成り立っているのか。その今日的意義は何か。『地球を救う経済学』で紹介されている一つのエピソードから話を始めたい。
高度成長華(はな)やかなりしとき、ある会社の入社試験に次のような問題が出た。
受験者の前に、紐のかかった小包が置かれている。「これを開きなさい」というのが問題であった。一人の学生は丁寧に紐をほどき、中身を出した後、紐と包装紙とをキチンと整えて、ハイ、できあがり。もう一人の学生は、鋏(はさみ)を求めて、アッという間に紐と包装紙とを切り、素早く中身を取り出して、紐と紙をゴミ箱にほうり込んで終わり!
試験委員の判定は後者の学生が合格となった。高度成長華やかなりしとき、というから今から40年ほども昔のエピソードなのだろう。著者はこのエピソードに何を託しているのか。次のように述べている。
「ここに現代経済学の考える効率・経済原則が端的に示されている。そこでは<時はカネなり>と人件費の節約が強調されているのである。捨てるという行為のコストは、当然ゼロと考えられる。勿体(もったい)ないのは、時間と人件費だけである」と。この試験委員は既存の主流派現代経済学の立場から後者の学生を合格としたが、仏教経済学の立場からいえば、前者の学生が当然合格するはずだと著者はいいたいのである。
あなたが今、試験委員ならどちらの学生を採用するだろうか。やはり後者の学生を採用するのであれば、あなたは現代経済学の信奉者であり、一方、前者の学生に合格のサインを出すのであれば、仏教経済学の発想に無意識のうちに立ち、その実践者ということになる。仏教経済学と現代経済学とはそれほど質を異にしているのである。
以上は一つの例にすぎないが、以下、仏教経済学の多面的な特質を現代経済学と比較しながら考えたい。
▽ 仏教経済学の三つのスローガン
『地球を救う経済学』は仏教経済学の特徴を示すスローガンとして次の三つを掲げている。
(1)自利利他円満の経済学
(2)平和の経済学
(3)地球を救う経済学
まず自利利他円満の経済学とはどういう含蓄があるのか。
自利利他円満とは、経済行為において「自分の利益だけ」ではなく、「他人様の利益の中で自分の利益を考える」という発想にほかならない。つまり他人の利益をまず第一に考えれば、自ずから自分の利益にもつながってくるということである。著者によれば、親鸞(しんらん・1173〜1262年、浄土真宗の開祖)の『浄土和讃』に出てくる「自利利他円満」の思想は、仏教社会においては、時には宗教の面に、時には経済の面に滲み出る地下水のごときものなのである。つまり仏教社会の底流となっており、決して思いつきの道徳的なスローガンではない。
次に仏教経済学はなぜ平和の経済学になり得るのか。
それは仏教の根本戒律に「不殺生(殺してはならない)」が挙げられているからである。しかも強調すべき点は「殺すなかれ」という戒律が、人間を含めたすべての生命を対等に見る徹底した平等観に基づいていることである。たしかに「殺すなかれ」ということだけなら、他の宗教も説いているが、仏教の不殺生という戒律はすべてのいのちの徹底した平等観に根ざしているからこそ、仏教は他の宗教と違って宗教戦争をしたことがないと著者は指摘している。
第三になぜ地球を救う経済学なのか。
著者は「仏教的な思想が地球の危機を救うのではないか。いや、仏教的な思想によってしか地球は救われない」と断じている。なぜそういえるのか。仏教は「一切衆生悉有仏性、草木国土悉皆成仏(人間はもちろん、草や木などのあらゆるものに仏の命が宿っている)」と説いて、人間以外の存在(生物に限らない)にも人間と同じ値打ちを置いている。さらに人間は地球と地球に存在するさまざまな動植物によって生かされている、すべてのものは宇宙という大きな命の一部である、と考える。このことは仏教思想には本来、生きとし生けるものすべての命を含めて地球環境保全を優先させる思想が内在していることを意味している。
ところが欧米の宗教であるキリスト教はそうではない。アメリカの『タイム』誌(1989年新年号)が「現在の<地球いじめ>の原因にはキリスト教も少なからず関わりがある」と指摘した。なぜなのか。『旧約聖書』の「創世記」に次のような記述があるからである。「神は御自分にかたどって人を創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて治めよ』」と。
この記述の中で例えば「地を従わせよ」というのは、地球を人類の思い通りにしてよいと解することができる。だから人間は神の命令通りに行動し、つまり自然の乱開発を進め、その結果、地球環境の汚染、破壊という危機を招いたとも考えられるのである。著者が「仏教思想しか地球を救えない」と断じるのは以上のような文脈からである。
▽ 仏教経済学と現代経済学との比較
さて仏教経済学は、既存の現代経済学に比べて具体的にどのような特質を持っているのか。そのイメージを比較したい。以下に『地球を救う経済学』から概略列挙したい。
「経済原則」などそれぞれの項目についてまず仏教経済学の基本的な考え方を紹介する。一方、現代経済学の考え方はカッコ内で示す。
経済原則=「もったいない」の精神(最少のコストで最大の効用を)
経済主体=自利利他円満の追求(自利の追求)
財 =宇宙・仏からの預かり物(私有物)
土地=空気や水と同じく宇宙の恵み(労働、資本と並ぶ生産三要素)
労働=仏教の実践行(労働は苦痛)
競争=品質競争と消費者への奉仕(人的資源を浪費する過当競争)
家計=いのちを輝かす礎(現金収入の増加)
消費=少欲知足(欲望の解放)
産業・企業の順位=地球環境保全への貢献度(生産・利益額)
福祉=自利利他一如の慈善(資本主義の矛盾の緩和修正)
自由=無執着、無私の自由(金儲けの自由)
▽「もったいない」か「自利の追求」か
上述のように仏教経済学と現代経済学との違いは、一見しただけでそれなりのイメージが浮かび上がってくるが、若干の説明を加えたい。
仏教経済学は経済原則として、「もったいない」を掲げている。これはどういう意味なのか。むろん仏教経済学といえども経済効率を無視するわけではない。現代経済学の方は、「最少のコストで最大の効用を」という経済効率にこだわっており、一方でコストを抑え、他方で生産や利益が多いほど経済効率は良好ということになる。これに対し、仏教経済学は、土地、財、人間の労働を活かしきることこそが良好な経済効率なのである。
ここから両者が目指す経済効率の方向は正反対となっている。現代経済学の立場では生産と利益の増大、つまり企業の自利の追求が第一だからリストラという名の人員整理を進め、資源・エネルギーの浪費・廃棄の拡大再生産を招き、それが地球環境の汚染・破壊につながっていく。しかも財は私有物という認識だから、「どうしようと私の勝手」という身勝手な振る舞いが横行し、果てしない浪費にも走りやすい。勝ち残りを目指す自由競争という名の過当競争がそれに拍車をかける。
しかし仏教経済学の立場では人間、財、土地のすべてが宇宙(仏)からの恵み、預かり物という認識だから、それを「もったいない」の精神で大切に扱い、十分に活かしていく。具体的には資源、エネルギーの節約さらに廃棄物の活用も視野に置く。もちろん人員整理は容認しない。競争も必要と考えるが、それは品質、技術をめぐる競争に重点があり、お客様第一の姿勢で、資源・エネルギーの浪費は避ける。
産業・企業の優劣の判定基準もまるで異なっている。現代経済学では生産、利益が多いほど、株価も高く、優良ということになるが、仏教経済学では地球環境保全への貢献度、いいかえれば地球上の生きとし生けるものすべてを活かしているかどうかが重要な物差しである。
それでは仏教経済学は利益を無視するのだろうか。決してそうではない。道元(どうげん・1200〜53年、曹洞宗の開祖)は著書『正法眼蔵』の中で「愚人思わくは利他を先とせば自らの利省かれぬべしと。しかにはあらざるなり。利行は一法なり。あまねく自他を利するなり」といっている。
これは「利益の追求とは自利と利他が一つになった行為」という意味である。これが自利利他円満の実践であり、わかりやすくいえば、利益は目的ではなく結果なのである。自利だけを目的にして、それにこだわると、どういう結果を招くか。自利の暴走ともいうべきあのバブル経済の崩壊でどれほど多くの企業、経済人が地獄に堕ちたかをみれば、多言を要しないだろう。
*本稿は「安原和雄の仏教経済塾」からの転載です。
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