2010年09月27日13時43分掲載
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社会
「杉並にも被爆者がいる!」〜東京・杉並区の若者が被爆者証言集会を開催〜
知人から案内を受けて、東京都杉並区に住む原爆被爆者の証言集会に赴いた。企画したのは、反核団体の一つ「原水爆禁止日本協議会」が主催した「原水爆禁止010年世界大会」広島大会に参加したという杉並区在住の若者数人であった。(坂本正義)
司会を務めた若い女性は、「世界大会の式典の後に、佐々木貞子さんの像(原爆の子の像)の近くで一人のお婆ちゃんに話しかけられました。しばらく話していると、お婆ちゃんから『実は被爆者なの』と打ち明けられ、ご自身の体験を話して下さいました。お婆ちゃんにとって、他人に被爆体験を打ち明けることは初めてのことだったそうです。
その後、私は地元に帰ってきてから一度だけお婆ちゃんと手紙をやり取りしました。手紙には『あの日は何故か世界大会に参加しようという気持ちが強くなり、出かけたのです。おかげであなたたちとお会いしたのですが、あの時、見ず知らずの人に迷いもなく被爆体験をお話ししたのは、自分にとって考えられない出来事でした』などと書かれていました。お婆ちゃんとの出会いから、私たちは被爆された方の中には体験談を打ち明けるきっかけを求めている人もいるのではないかと考え、その『きっかけ』というものを大事にしたいという思いから今回の企画を考えました」と説明していた。
今回証言したのは、被爆者団体「杉並光友会」会長の籾倉積さん。間もなく70歳を迎えるという籾倉さんは、4歳の時に被爆したとのことで、「当時4歳だったのに何故か鮮明な記憶として残っています。でも幼児の記憶は証言として有効性が憚られると考え、今まで話してきませんでした。しかし、若い人たちから熱心に説得され、『今ここで話しておかなければ、被爆体験の記憶が私の寿命とともに失われてしまう。そうなってはいけない』と思い直しました」と証言を決意した理由を語った。
籾倉さんは当時、爆心地から北に約4kmほど離れた、現在の広島市安佐南区長束地域に住んでいたこともあり、幸いにも火傷を負うことは免れたそうだ。籾倉さんは原爆投下時の状況について、
「友達と自宅前の道路に座り込んで遊んでいたところ、見たことのない青白い閃光が突然ピカッと周囲を包み込み、数秒後にドーンというものすごい振動音が鳴りました。家屋が揺れ、屋根瓦が落下するなどの異常な状況に、私は身の危険を感じて泣きながら自宅に逃げ帰りました。しばらくして自宅を出て南の方を見ると、上空に黒々としたキノコ雲が空全体を覆うように広がっていきました。空に
は青い部分が見えず、全体が真っ黒でした。正午ころから大粒の雨が降り始めました。ドロドロ感のある黒い色をした雨でした。正午ころから日没まで、近所の人たちと一緒に、広島市街から北の方へ避難してくる、火傷を負って着物がボロボロの人の行列が延々と続くのを見続けていました。人々は口々に『水くれんさい。水くれんさい』と言っていまして、男女の区別もつなかい状態でした」と語
り、最後に「核兵器の愚かさを学んで、平和につなげましょう」と訴えた。
証言を聞き終えた若者たちからは、「今も杉並区内に370人もの被爆者がいることを知って驚いた」、「自分に出来ることが何かを考えていたが、籾倉さんの『折り鶴を折るなど、何か思い付いたことから始めるのが大事ではないか』という言葉に励まされた」などと様々な感想が聞かれた。
近現代史を知らない若者が増えていると言われているが、それだけに、集会を企画した若者の一人が、力のこもった目で「今後もこうした企画をできるだけ長く続けていきたい」と語っていたのが強く印象に残った。
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