2010年10月01日11時45分掲載  無料記事
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農と食

アフリカの米

  カプシチンスキの「黒檀」を読んでいて、一人の日本人をふと思い出した。JICAの坪井達史さんである。坪井さんは「黒檀」の一篇、「氷の山のなかで」に描かれているウガンダを拠点に東アフリカ9カ国を飛び回って稲作指導をしていた。 
 
  アフリカでは近年都市化が急速に進んでいる。都市化が進めば食事も手軽に調理できる米が重宝されるようになる。古来から湿地の多い西アフリカでは多少は稲作が行われていたが、東アフリカでは初めてのことだった。そこで坪井さんの技術が求められた。坪井さんは米など作ったことがない農民に稲作を一から教えていたのである。 
 
  東アフリカで稲作が始まったのは稲の新種ネリカが誕生したことによる。ネリカは乾燥や病害虫に強いが収量の少なかったアフリカ原産の稲と、収量の多いジャポニカを組み合わせて作った画期的な稲の新種だ。これは遺伝子操作ではなく、稲同士の交配による。開発したのはシェラレオネ出身のモンティ・ジョーンズ博士である。シェラレオネと言えば最悪の内戦が行われたアフリカでも極貧の国である。交配でネリカには3000もの系統が生まれたが、それぞれの特徴はその頃まだよくわかっていなかった。 
 
  ベナンにはネリカを開発した西アフリカ稲作協会がある。そこで日本人の池田良一さんと惣慶嘉さんが働いていた。二人は出来たばかりのネリカの種子の増殖と栽培法の確立に取り組んでいた。各国から派遣されていたアフリカ人農業技術者のレベルは様々だったが、彼らを一定水準以上にすることでスタンダードな稲作技術がアフリカ全土に伝わっていく。 
 
  坪井さんが拠点にしていたのはウガンダのナムロンゲ農業試験場だ。坪井さんはここでネリカ栽培法の確立を目指した。土地にあった系統がどれなのか。肥料の適量はいくらなのか。そうしたことをアフリカ人農業技師とともに一から研究に取り組んだのである。坪井さんは日本で大学時代に農業を学び、稲作経験は30年に及ぶ。その経験をすべてネリカに注ぎたいと言っていた。 
 
  ネリカはアフリカの食糧事情に貢献するだけではない。都市の労働者にネリカを販売することで農民は貴重な現金収入が得られるようになった。それはまだ決して多くはないが、それでも一部の農民は子供を中学に通わせることができるようになった。稲作によって地元の農民たちの教育水準が向上する可能性が見えたのである。教育が向上すれば政治も変わる可能性がある。 
 
  だが、課題は少なくなかった。まず精米機がまったくなかったことだ。稲作自体が初めてなのだから当たり前のことである。そこで坪井さんは精米機をトラックに積んで、村々を回ることにした。乾燥している東アフリカで稲はコーヒーと同じ畑に植えられていた。日本人の抱く稲作のイメージとはまったく違った風景である。 
 
  「まさか自分に米が作れるとは思わなかった」 
 
  アフリカ人農夫たちはそう言って喜んだ。秋の収穫期にはナムロンゲ農業試験場に各地から農民たちが研修を受けようとバスでやってきた。試験場と隣の農場で育てたネリカの稲穂を見せながら、一度に30人ずつ研修が行われた。中にはスーダンから来た難民たちもいた。研修が終わると、坪井さんたちは農民一人一人にネリカの種子を10キロ渡す。これを地元で普及してもらうのだ。 
 
  それからほどなく世界的な食糧価格の高騰が起き、国によってはパニックや暴動も起きた。ネリカはその後、どうなったのだろうか。投機家の思惑に惑わされず、伸びていって欲しいと思う。 
 
 村上良太 


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