2010年11月26日10時52分掲載
無料記事
http://www.nikkanberita.com/print.cgi?id=201011261052005
やさしい仏教経済学
(24)お金では買えない価値の大切さ 安原和雄
仏教経済学は、お金(貨幣)をどう捉えるのか。八つのキーワード(いのちの尊重、非暴力=平和、知足、共生、簡素、利他、多様性、持続性)に続いて、前回は競争を取り上げたが、ここではお金をテーマにしたい。今日、貨幣経済の中で生きている以上、お金に執着するか、あるいは多少の距離感を保つかはともかく、お金から逃れることはむずかしい。個人に限らない。マネー感覚はそれぞれの国民性にも映し出されている。
重要な点は、経済を貨幣価値(=市場価値)に限定して狭く捉えるか、それともお金では買えない非貨幣価値(=非市場価値)も大切とみて、広く捉えるかである。主流派の現代経済学は前者の狭い立場であり、これに反し仏教経済学は後者の広い視点を重視する。
▽ マネー感覚の国際比較 ― 国民性が表れる
お金(かね)をどう受け止めるか、そのマネー感覚にも国柄、国民性が表れている。
たばこ小売り店主(信州木曾路の妻篭宿)の体験談を紹介しよう。
たばこを売りながら各国の国情や民族のマナーを勉強させられている。外国人がたばこを買うとき、「マイルドセブン ワン」といって、小銭のないときは、端数をプラスして渡してくれる。おつりに便利なように、売る側の立場を考えて、小銭を加えて出す。ヨーロッパもアジアの人々も同じである。ところが、日本の人は1000円を投げ出し、「小銭はありませんか」と聞くと、「ない」というだけだ。相手の気持ちを全然考えていない。このようなマナーの違いは、どうして生じるのか。金さえ出せば、文句はないだろうというのが日本人の考え方なのだろう。だから金持ち日本といわれながら、マナーの悪さでひんしゅくを買い、諸外国と経済的トラブルを起こしている。
次はスイスで暮らしている日本人の体験談である。
フランス人の夫とスイスで生活しているが、お金に対する感覚の違いで失敗することが多い。新しいアパートに移った友達に「周囲の環境は?」、「交通の便は?」と質問攻めにするのが彼らなら、私は「家賃はいくら?」と聞いてしまうのだ。「お金が好き」とあるフランス人にいったら、「なんだこいつ」という目で見られたことがある。夫に話すと、「お金に汚い日本人」と思われたかもしれないと教えてくれた。この国ではお金はタブー視されているとも。「人生はお金じゃない」といいきる彼らに対し、「ないよりあった方がいい」と思う私たち日本人である。(朝日新聞テーマ談話室編『お金』朝日新聞社)
日本人の金銭感覚はお金第一主義に走り、ヨーロッパ人の金銭感覚は、どちらかというとお金よりも大事なものがあるという考え方のようである。
▽ 古今東西のお金談義(1) ― 「時は金なり」から「諸悪の根源」まで
昔からカネにまつわる諺、名句は少なくない。古今東西の名著古典にも金(かね)に関する記述は多い。そこには人間社会の悲喜劇がそのまま映し出されているといっても過言ではない。それは日本にかぎらない。
「時は金なり」― アメリカの政治家ベンジャミン・フランクリン(1706〜90年、独立宣言起草委員など)のこのセリフはあまりに有名であるが、念のため辞書を引いてみると、「時間を無駄に費やしてはならない」とある。時は金のように貴重なものだという意味である。もう一つ、「金を銀行に預けておくと、時間が経つにつれて利子が増えていく」という解釈もあるらしい。拝金主義横行の現代にふさわしい解釈といえようか。
「金に目が眩(くら)む」と同時に「金に手を付ける」という不始末のために手が後ろに回る政治家、経済人も昨今では珍しくない。
「金が敵(かたき)」というのもある。これには三つの解釈が成立するというからややこしい。一つは人間は金銭のために悩み苦労する。だから金はまるで敵のようなものだという意味である。もう一つは敵を探し回ってもなかなか巡り会えない。金銭もそれと同じでなかなか巡り会えないことを嘆いた言葉である。三つ目は金を敵のように憎み嫌うべし、ということである。(増原良彦著『日本の名句・名言』、講談社現代新書)
井原西鶴(1642〜93年、江戸前期の浮世草子作家)が書いた町人たちの蓄財出世物語『日本永代蔵』(角川日本古典文庫)から拾ってみよう。
「世の中に借り銀(借金のこと)の利息ほどおそろしき物はなし」
借金すると、利息があっという間にたまるこわさを指摘したものだが、一方では次のように「銀の世の中」、「庭蔵のながめ」などとカネの値打ちを強調しているものも多い。
「銀(かね)さえあれば何事もなる事ぞかし」
「なうてならぬ物は銀の世の中」
「人の家に有りたきは梅桜松楓、それよりは金銀米銭ぞかし。庭の築山にまさってよいのは、庭蔵のながめ」
いずれにしても『日本永代蔵』が描いたのは、江戸時代前期に貨幣経済が浸透し始め、産業資本主義の前段階である商業資本主義が花開きつつあった時代、つまり高利貸し資本が大いに活躍しだしたときで、お金談義満載の作品となっている。
▽ 古今東西のお金談義(2)― 貨幣のない国こそ理想
トマス・モア(1478〜1535年、イギリスの政治家・人文主義者)の古典的著書『ユートピア』(岩波文庫)の次の一節を紹介しておきたい。
ユートピアでは貨幣に対する欲望が貨幣の使用とともに徹底的に追放されているのだから、どれほど多くの悩みがそこから姿を消していることだろうか。また悪徳と害毒のいかに大きな原因が根こそぎ断ち切られていることであろうか。
詐欺、窃盗、強盗、口論、喧嘩、激論、抗争、殺人、謀逆、毒殺、―こういったものは日毎に処罰しても復讐を企てこそすれ、決して防ぐことのできないものであるが、それこそ貨幣が死滅すれば、それと同時に死滅するものである。同じように恐怖、悲哀、心痛、労役、苦闘といったものも貨幣が消滅したその瞬間に、消滅するのではないだろうか。
ユートピアはギリシア語からモアが作った言葉で「どこにもない国」つまり理想郷という意味である。モアは作品のなかで、お金こそ諸悪の根源であり、貨幣のない国こそ理想であるという視点から16世紀初頭のイギリスの政治・社会制度の欠陥と腐敗を厳しく批判した。お金の功罪のうちの罪の側面を鋭く衝いたこの指摘はこんにちでもそのまま通用するのではないか。
以上で見る限り、お金以外の価値の大切さは見逃されてきた。しかし仏教経済学はそこから出直し、非貨幣価値の大切さを重視する。
▽ 仏教経済学は非貨幣価値(=非市場価値)に着目する
「経済」という用語は、中国の言葉「経世済民」(世をととのえ、民を救う、という意)の中の「経」と「済」を組み合わせてつくられた。そういう意味の「経済」を英語Economyの日本語訳に充てたわけだから、その原点に立ち返って、国民一人ひとりが幸せになるにはどうしたらよいかを考えなければならない。そのためには、経済価値を貨幣価値で表されるモノ、サービスのみに限定していいのかという疑問が湧いてくる。むしろ貨幣価値のほかに非貨幣価値も視野に入れるべきではないかと言いたい。それを目指しているのが今日の新しい仏教経済学である。
そこで仏教経済学での経済価値には、貨幣価値(=市場価値、つまりお金と交換で市場で入手できるモノ、サービスなど)と非貨幣価値(=非市場価値、つまりカネでは入手できない価値。いのち、地球環境、豊かな自然、非暴力、共生、モラル、責任感、誇り、品格、慈悲、思いやり、利他心、生きがい、働きがいなど)という異質の二つの価値がある。
このように仏教経済学は貨幣価値と非貨幣価値の双方を総体的に捉えるところに大きな特徴がある。
現実には非貨幣価値のように、お金を出しても市場で買えないけれども、何ものにも換えがたい大切なものが沢山ある。仏教経済学はむしろこれら非貨幣価値を重視し、仏教経済学の八つのキーワードはいのち、共生、利他、非暴力など非貨幣価値につながるものが多い。
一方、現代経済学はその対象を貨幣価値のみに限定し、非貨幣価値には関心を抱かず、理論体系の外に投げ捨てている。これは現代経済学の方法論がカネと数量で測ることのできるもののみを対象にしているところからきている。
非貨幣価値を視野に置かない現代経済学は、発想の根本がおかしい。現代経済学の中でも特に新自由主義(=市場原理主義)思想は貨幣価値を重視し、拝金主義に走り勝ちである。
粉飾決算で獄につながれたライブドアの堀江貴文社長が華々しく登場した頃、「この世の中に金で買えないものがあるか。あれば、教えてほしい」と言った。私は答えたい。「あなたが両親からもらった生命はお金で買ったのか」と。彼は答えられないだろう。
「金もうけは悪いことですか」と言い放った村上ファンドの村上世彰元代表はインサイダー取引事件で刑務所送りとなった。こういう事例は後を絶たない。
これら「カネ、カネの世の中」と思いこんでいる輩にはカネそのものの増殖、さらにカネで入手できるモノやサービスなど貨幣価値しか念頭になく、おカネでは買えない非貨幣価値が大切であることに目が届いていない。そこに多くの悲劇の物語が生まれる。
もちろん仏教経済学は適正な範囲での利益を決して否定するわけではない。企業経営には利益は必要だが、それは企業の社会的貢献に対する返礼としていただくものであり、貪欲に、しかも詐欺的手段を弄(ろう)して貪り取るものではない。ましてマネーゲームによる利殖は餓鬼の所業である。社会的貢献の成果として利益を確保することと貪欲な拝金主義との間には天地の差がある。
<参考資料>
・安原和雄「知足の経済学・再論 ― 釈尊と老子と<足るを知る>思想(上)」(足利工業大学研究誌『東洋文化』第20号、平成十三年)
・同「同(下)」(同大学研究誌『東洋文化』第21号、平成十四年)
*本稿は「安原和雄の仏教経済塾」からの転載です。
http://kyasuhara.blog14.fc2.com/
Copyright (C) Berita unless otherwise noted.
日刊ベリタに掲載された記事を転載される場合は、有料・無料を問わず、編集部にご連絡ください。ただし、見出しとリード文につきましてはその限りでありません。
印刷媒体向けの記事配信も行っておりますので、記事を利用したい場合は事務局までご連絡下さい。