2010年12月01日11時45分掲載
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TPP/脱グローバリゼーション
APEC横浜宣言を批判する(その3) 資本のためのAPEC共同体 小倉利丸
横浜宣言では、ASEAN共同体がことさら強調されている。そもそも「共同体」という概念が、国家間の国際関係として、どのように定義されているのか、宣言には何一つ明らかにされていない。宣言のなかでは、「我々が構想する共同体」として三つの柱が提起されているが、これは自由貿易・投資を可能にする市場統合と市場経済の成長と資本のための安全保障の枠組みであり、これをあえて「共同体」として括ることが可能なのかどうか、この点については、はっきりしない。以下では、この定義問題をとりあえず棚上げにして三つの柱に沿って問題点を指摘する。
◆「緊密な共同体」
一番目の柱は、「緊密な共同体:より強固で深化した地域経済統合を促進する共同体」とされ、この項目の冒頭では次のように述べられている。
「我々は,APECの中核的任務である貿易及び投資の自由化及び円滑化の作業を更に進めることを通じて,より強固でより深化した地域経済統合を促進することにより,地域における繁栄及び福祉のための強固な基盤を確立することを目的とする。」
そして具体的な道筋については、次のように述べられている。
「我々は,APECの地域経済統合の課題を更に進めるための主要な手段であるアジア太平洋自由貿易圏(FTAAP)の実現に向けて具体的な手段をとる。FTAAPは,中でもASEAN+3,ASEAN+6及び環太平洋パートナーシップ(TPP)協定といった,現在進行している地域的な取組を基礎として更に発展させることにより,包括的な自由貿易協定として追求されるべきである。」
投資と貿易の自由化が地域や人々の繁栄と福祉に貢献するものではなく、多国籍資本の繁栄と福祉につながるだけだという点については、これまでにも述べてきたので、上で提起されているようなFTAAPやTPPなど自由貿易協定の問題については、ここでは繰り返さない。
◆「強い共同体」
ASEAN共同体の第二の柱とされているのが「強い共同体」である。域内の均衡成長、貧困層への機会提供、グリーン成長、情報通信などのイノベーションなどによる「成長の質」の「向上」が謳われている。この「成長の質」は、APEC首脳の「成長戦略」に基づく概念であり、この成長戦略では「APECメンバーが『これまでどおりの成長』を続けることは出来ず,『成長の質』が改善される必要があることは明らか」とし、「より均衡ある,あまねく広がる,持続可能な,革新的なかつ安全な」成長を目指すという「新たな成長パラダイムのためのビジョン」が必要だとした。
しかし同時に「経済回復を持続させるための総需要の拡大を支援する成長志向型政策を維持することの重要性」も強調されており、量的成長をこれまで以上に指向しようとする意欲は相当大きい。総需要拡大とは、言い換えれば、新興国市場の拡大を主として意味する。マスメディアなどでも繰り返し論じられているように、新興国市場を獲得することが先進国資本にとって、つまり、先進国の「国益」にとって必須の条件だ、ということだ。
16世紀以来の植民地主義、そして20世紀後半の植民地なき冷戦から冷戦なき新自由主義に至るまで、植民地があろうとなかろうと、資本にとっては世界市場の獲得が最大の関心事であるのだが、冷戦の崩壊で旧社会主義圏を資本主義に統合したにもかかわらず、それでもなお資本の市場への欲望は満たせず、さらにアジアの新興国市場に対して強引な介入が必要になっているとすれば、グローバル資本主義における資本過剰はかなり深刻だと言わざるを得ない。
この「強い共同体」への道筋のひとつとして上に指摘したように、「グリーン成長」への重視がみられる。二酸化炭素排出を抑制するあらたな経済への指向といえば聞こえはいいが、「我々は,我々のエネルギー供給をよりクリーンにするため,再生可能エネルギー,原子力エネルギー及び二酸化炭素回収貯留を伴う化石燃料といった低排出エネルギー源の配置を促進する。」とあるように、原発をクリーンなエネルギーと位置づけて促進するスタンスを明確にした。原発を推進しようというこの間の民主党政権の流れは、放射性廃棄物や原発の下請け労働者の被曝問題まで、世界各地で長年とりくまれてきた反原発、脱原発の運動が提起してきた批判を一切無視したもので、先進国内で不振に喘ぐ原発産業が、新興国における巨大インフラ投資の新たなビジネスチャンスとしての原発建設という利権構造が露骨だ。
また、情報通信分野(「知識基盤経済」とも呼ばれる)では、「我々は,知的財産権の保護及び執行を強化するという我々のコミットメントを再確認し,創造性及び技術革新を奨励し,知的財産の良好な管理及び利用の手段を与えるインセンティブの提供及び保護のための,包括的で均衡ある知的財産制度の重要性を再表明する」と述べて、アジアの民衆経済にみられる知識の「コモンズ」としての共有の文化の解体と市場化・商品化という、知識分野における「本源的蓄積」に深く加担した。
この知的財産権擁護の主張は、横浜宣言が目指すと述べた「より均衡ある,あまねく広がる,持続可能な,革新的なかつ安全な」成長という観点でみた場合、知識共有経済に圧倒的に劣る。知識に高額なライセンス料金を課すことで貧困層を排除し、自由な使用を禁じるような知的財産の主張にくらべて、共有は、所有権にも所得にも制約されずに、自由な流通を保障し(自由貿易主義者が大好きな、障壁なき自由!)、革新的な知識も特定の資本の特許などによる障壁なしに自由に共有可能となる。このように、彼らの宣言は、民衆の自由よりも資本の所有を優先させる大きな矛盾を抱えているが、しかし、資本と政府の利害によりそい、民衆の自由を顧慮せず、むしろその犯罪化すら厭わないものだということを確認しておくことが大切だ。
このように、「強い共同体」とは、APEC域内の新たな本源的蓄積の構造的深化に、とりわけ先進国資本が深く関与できるような条件を政治的に準備することを意図したものといえる。途上国に対して、市場を開け、国内市場を開発しろ、そして、その国内市場を我々によこせ、という植民地主義と変わるところのない要求を突きつけているものだといってもいい。
◆「安全な共同体」
APEC共同体なるものの三番目の柱は「安全な共同体」である。これは、その言葉からすぐに察しがつくように、資本の自由な投資活動を妨げるような諸要因の除去に着目するものだが、「貿易,ファイナンス及び渡航のための地域の環境は,テロリズムから確実に守られるべき」と述べられていることに端的に象徴されているように、軍事安全保障とのリンクが意図されてもいる。飢餓、テロ、災害、貧困などさまざまな不安全がごった煮のように列挙されており、宣言の他の箇所に盛り込めなかった要素をすべてをここに押し込んだという印象が強い。
総じて、宣言における「安全」への眼差しは、政府や資本の活動にとっての「安全」でしかない。この項目の冒頭に、「人間の安全保障に係る基本精神を守護する」とあるが、しかし、この項全体の基調は、人間安全保障への配慮すらあるとはいえない。人間安全保障にはさまざまな定義や主張があり、ひとつではないが、国家安全保障とは区別され、国家安全保障ではカバーしきれない「安全」へのアプローチという意味での人間安全保障が、ここでは、貿易や投資の円滑化にとって障害となる貧困、飢餓、伝染病、テロなど、資本の安全保障にすりかえられている。
こうした資本の安全は、コミュニティで人々が多国籍資本の利害や政府の利害から自立して、自らの生存の条件を安定的に(持続可能に)構築するという民衆の安全とはむしろ真っ向から対立するものだ。こうして「安全な共同体」が指し示すのは、資本にとっての安全な共同体以上のものではなく、それは民衆の安全を犠牲にしたものでしかない。
◆おわりに
横浜宣言にみられるのは、グローバル資本主義における先進国資本の並々ならぬ危機意識、とりわけ新興国資本の追い上げのなかで、これまでのヘゲモニーの維持をどのように図るか、という資本のポリティクスの側面と、新興国市場を先進国資本の市場へと統合を迫られるほどに、資本過剰が深刻化している、という資本それ自身の限界という問題の側面が表出している。
製造業や農業、そしてサービス分野の貿易など実体経済に関わる市場規模に比較しての資本の過剰のさらにその背後には、膨大な投機的な資金をかかえる金融市場が存在する。為替相場の不安定性の根本にあるのは、貿易の構造が実体経済によって規定されずに、投機的な資金の流れによって左右されているということがあるからだが、他方で、こうした外為市場の構造を先進国は政治的に利用して、為替の政治的操作に利用しようとしているように読める。しかし、もはやプラザ合意の時代のように米国のヘゲモニーは鮮明とは言い難い。横浜宣言の空疎さは、この先進国のヘゲモニーの凋落、とりわけ議長国、日本の衰退を象徴している。
無内容なテキストへの批判は往々にして退屈なものになる。この長い文章もご多分に漏れず退屈だ。すでにわかりきったことを繰り返し、書かざるをえないのは、なかなか苦痛な作業だ。たしかに、自由貿易や市場経済は、人々の実感や現実の経験からいえば、貧困、失業、戦争、自由の抑圧、差別の構造化、環境やコミュニティの破壊など、直感的経験的に拒絶の態度をもたらす多くの否定的な影響が数世紀にわたって蓄積されてきた。そして、この数世紀の未曾有の資本主義文明の進歩なるものが、地球規模での格差、戦争、環境破壊を招くことになった最大の要因であるはずだ。このようなことは、単に直感だけでなく、理論的にも一定程度論証可能なことでもある。
しかし、同時に、市場原理主義や資本主義擁護の思想と理論の方が支配的な教義であって、その理論的なパラダイムはとても強固だ。たとえ話でいえば、資本主義の世界観は、天動説に基づく教義によって正当化されてきたにすぎない、と私は主張したいのだが、しかし、このことを証明し、地動説を打ち立てることは、経験やある種の事実だけではなしえないことであって、資本主義を擁護する教義そのものの誤謬を問う作業が不可欠となる。 19世紀にマルクスが挑戦したこの作業は、今に至るまでもっとも重要な貢献であるが、グローバル資本主義の現状を擁護する支配的な教義への批判(マルクスのいうところの政治経済学批判)をマルクスにすべて委ねるのは、あまりにも私たちの怠惰と言うべきだろう。思想や理論の水準で、より抽象的なレベルで、グローバル資本主義を批判する作業はまだ残されたままだ。もちろん、多くの知識人たちによる批判のための挑戦があるが、その挑戦にわたしは必ずしも納得できていない。もちろん、自分自身の挑戦は彼らのそれに比べればまったく及びもつかないほど遅々たるものだ。私たちが挑戦すべき課題は、個別対応の政策的な代替案では済まされない。資本にとってかわる経済の組織体とは何か、国家にとってかわる統治の制度は何か、という問いを回避して、資本(企業、市場)と国家(政府)を前提としたオルタナティブは意味をなさないだろう。(おわり)
付記:APECへの批判は、以前に書いたG8への批判とも共通する部分がある。ぜひ『G8徹底批判』(作品社)もお読みください。
(筆者は、ピープルズ・プラン研究所・富山大学教員)
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