2010年12月15日00時52分掲載
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遺伝子組み換え/ゲノム編集
新潟遺伝子組み換えイネ裁判報告(下) 裁判が問いかけるもの 研究者の倫理はどこにいったのか 天明伸浩
新潟イネ裁判は多くの課題、問題を私ったいにつきつけました。なかでも、科学を扱う研究者の社会に対する責任の在り方、司法の限界といった重い課題を私たちは背負いました。私たちはいま、市民、研究者が忌憚なく自由に意見を言え、それを反映した判断を下すことができるような新たな場づくりを、これからの運動として考えています。
<予防原則>
環境問題では地球温暖化、生物の絶滅などでもまだ被害が発生する前での「予防原則」による行動が当たり前になっています。この裁判で問題となった遺伝子組換え作物により出現したディフェンシン耐性菌は生物災害として、深刻な被害が制限無く広がる可能性があります。もともと予防原則というのは、「不確実な事態」に対し、科学的な知見が十分に得られていない場合でも将来取り返しのつかない事態が発生する恐れがあるものについては、前もって予防的な措置を取っていこうとする考え方です。
しかし、今回のセンターの屋外裁判ではディフェンシン耐性菌が出現したことは「不確実な事態」ではなく、「確実な事態」なのです。単に、実際の被害が発生するまでに時間がかかる(晩発生)という生物災害の特徴のため、出現した耐性菌がどこでどのような深刻な被害が発生するかどうかが「不確実」なだけです。
だから、これは真っ先に予防原則を適用して深刻な被害の発生防止に取り組むべきなのです。しかし今の法律は目の前で被害が出た事件或いは被害が出ることが明らかな事件しか取り上げず、これに当てはまらない本件のような深刻な生物災害の可能性を持つ事故は取り上げる気がなく、裁判をしながら常にもどかしさを感じました。予防原則にのとって被害の拡大を防げるような仕組みが必要では無いでしょうか。
<倫理性も論理性も欠如した研究者群>
裁判の過程で分かったのは、センターの遺伝子組換え作物を開発する研究者が、「食べる米」「病原菌」などに対する知識が欠落していることでした。異分野に対して無知なために耐性菌問題を軽く見ていたようです。そして裁判官が知識がないことをいいことに、科学的にあり得ない主張を平気でしてきました。しかし良心を持つ科学者が協力してくれたので、私たちがきっちりと科学的な主張をしたので、センターは主張の修正を余儀なくされました。
また私たちに協力してくれた研究者に対するセンターの罵詈雑言は常軌を逸していました。また中立的に鑑定しようとした京都大学の佐藤先生を私たちが推薦したときも、まるで私たちに洗脳されたかのように佐藤教授を非難しました。
センターのこの主張は、知的な人間が書いている文章とは思えません。倫理性ははじめから求めるべくも無いのかもしれませんが、論理性すら主張できない彼らの姿は、遺伝子組換え作物を操る研究者のレベルの恐るべき低さを証明して余りあるものでした。この程度の知的レベルの人間が、環境に大きな影響を与える研究の担い手であることに恐怖を感じないではおれません。
<研究者の説明責任>
科学裁判でもその危険性を立証することが原告に求められます。しかし遺伝子組換え作物のようにその実験に用いる材料・実験データなどすべてを被告が握っている中では原告が実験の危険性を実証することは不可能です。今回は危険性を感じ取った良心的な研究者が協力してくれたのできっちりとした論争ができましたが、それでも難しいことが多かった。国家プロジェクトと謳い、国民の税金を使ってパブリックな研究をするというのであれば実験を実施する側(被告)に実験の安全性を立証する責任を負わせる必要がある。
<司法の限界>
また裁判官も事の本質を理解して判決文を書いているのか疑わしい。中でも国が国家プロジェクトとして推進するバイオテクノロジーの分野に疑問を投げかけるような判決を出すことは、同じ国である司法の仕組みからしてかなり難しいようだ。このような分野でこそ、実験の安全性について市民、研究者が忌憚なく自由に意見を言え、それを反映した判断を下すことができるような新たな場が必要ではないでしょうか。
その試みの1つが、このあと、私たちが地元上越市で開催する市民法廷です。
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