2011年01月14日11時22分掲載  無料記事
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文化

『となりのツキノワグマ』を読む――帯には「クマがこんなに写っていいのか!?」とある  笠原眞弓 

  金沢市街のはずれ、犀川のほとりにある姉の家の玄関先を仔クマが通り過ぎた。昨秋の昼日中である。姉は地方新聞の書評にあった表題の本『となりのツキノワグマ』(宮崎学著・撮影/新樹社刊)を購入。暮れに訪ねた私に、「おもしろそうよ。まだ読んでいないけれど」と渡した。どのページもそばに人がいれば「クマって○○なんだって!」と言わずにはいられない、私にとっての新知識が詰まっていた。 
 
  本書は、「クマは絶滅危惧種だ」「山が荒廃しているから、クマが里に出る」などという言葉を鵜呑みにしていいのか、だれもきちんと調べていないなら自分が……と“オイラ(著者宮崎学)”の地元、中央アルプスで新たに2005年から5年間撮影したものを中心に、それ以前に写したものから構成されている。 
 
◆「クマはいる」を写真で証明 
 
  30年以上前に彼の『フクロウ』という写真絵本が気に入って毎日見ていたので、「オゥ」と手に取ると、案の定その写真はフクロウを撮ったやり方を踏襲したもののようで、カメラの前を物体が横切るとセンサーが反応してシャッターが下りるらしく、自然体のクマのポートレートで溢れている。しかも設置カメラにじゃれているものもあるなど、写真集としてはもちろん、観察記録としても興味深い。 
 
  “オイラ”は「長年自然観察をしてきて、一般に言われていることがじつは間違っていたり、ほんの一面にすぎなかったりするケースを、嫌というほど見てきたからだ」と、これまでの自然観をいったんリセットして、「いない」「少ない」ではなく、「いる」ことを前提に「見る努力」をしたという。その結果「山は荒廃していない」、「荒廃とは林業的視点から言えることである」と指摘している。 
 
◆銀座通り並のけもの道や遊歩道 
 
  確かに、彼がカメラを仕掛けたけもの道には、さまざまな動物が映し出されている。70年代に最も多く写っていたノウサギは、82年から85年にかけては見られなくなり、カモシカが増え食害問題まで引き起こすようになった一方、まだクマはほとんど見かけなかった。今回調査を始めると、なんと1カ月で10頭もの個体が確認され、夜間には複数のけものが見られるようになるが、ノウサギは見られなくなった。すっかり森の様子が変わっていたことに気づく。 
 
  けもの道にこんなにクマがいるなら人間とのニアミスもあるに違いないと、秋から冬春にかけて遊歩道路にカメラを仕掛けると、人はもちろん、ほぼ毎日入れ替わり立ち代わりクマが映し出されたという。いったん人間につかまって放された、鑑識つきのものまでいる。人間とクマ以外には、人、サル、猫、タヌキ、キツネ、ハクビシン、テン、犬などである。 
 
  次の章には、糞からわかるクマの食べ物があり、その内容から決して山が荒れてクマが里に下りてきているのではないと推測する。 
  クマは木の上で食事をするときに「クマだな」を作るが、冬の低山の写真には思わず「エッー!」と言ってしまうほどたくさんある。民家の庭先になんと複数のクマだなが写し込まれているが、家の住人は指摘されるまで気づいていなかった。 
 
◆なぜこんなに賢いの!!  
 
  クマは木の実を食べる時、豪快に枝を折る木と、ていねいに実だけ摘む木がある。折っていい木といけない木を区別しているというのにも驚きである。 
  植林地にはクマの餌が少ない。ところが彼らは、桧や杉の木の皮をぐるっと剥ぎ、木の幹に歯を立てて樹液を吸っている(クマ剥ぎ)。皮を剥がれた、樹木はいずれ立ち枯れる。新たな植林をせずにそのまま放置すれば、林床に陽が射して数十年後にはクマの餌になる木が茂り、子や孫のえさ場となる。 
 
  また、同じように樹皮を剥いでいても1カ所だけ深く傷つけてある木もある。それは樹洞を作るためという。冬眠できる洞になるまでには100年以上かかるというのだが……。クマが意識的にしているわけではないそうだが、なんだか「賢いね」と褒めてやりたくなるのは、なぜだろう。 
 
  他に、クマの雌雄判別(生息数を割り出すのに重要)用の撮影法の工夫やイノシシ用の捕獲檻につかまったクマ、調理法まで載っている。鼻は、1頭ずつ形が違うこと、ハチミツを好むのは、写真に写り込んだうちの1割に過ぎないなどということも書いてあって、「クマのすべて」的な好奇心にも応えてくれる。気がついたらクマが愛しくなっていた 
 
  今日もテレビは、昨年のイノシシの出没数が過去最高だったといい、出没数の増えたクマの例もあり、猛暑で山に餌がなくなったため……と言っている。その前で、「本当にそうかな? 別な見方もあるのでは?」とつぶやいている私がいる。 
  “オイラ”は、手段にとらわれず、とにかくさぐってみようという好奇心と行動力があれば、見えないものが見えてくる。たしかな視線で複眼的に発想していけば、自然は語り出すに違いないと結んでいる。 
 
  生きとし生けるものすべてに捧げられたような本に出あえて、感謝している。 
 
(新樹社、2200円+税) 


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