2011年03月05日21時27分掲載  無料記事
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アジア

ポルポト政権崩壊直後の光景 〜カメラマン石垣巳佐夫氏のカンボジア体験〜

  日本電波ニュース社社長の石垣巳佐夫さん(69)は機材室で16ミリフィルムを整理していた。あたりにはインドシナの動乱を撮影したフィルムが山積みされている。石垣さんにとって生涯で忘れがたい光景は2つ。1970年の米軍に空爆されるラオスと、1979年のポル・ポト政権崩壊直後に見たカンボジアだ。 
 
  1979年5月、日本電波ニュース社ハノイ支局にNHKから取材協力を求める電話が入った。カンボジアに日本人女性一名が生存しているという。1975年4月のポル・ポト政権誕生後、プノンペンに残った日本人女性数人の行方がわからなくなっていた。日本電波ニュース社から石垣さん(当時38歳)がカメラマンとしてカンボジア入りすることになった。NHKが協力を依頼したのは日本電波ニュース社がベトナム戦争中の報道を通じて、ハノイに信用があったからである。 
 
  情報によると、女性の名は内藤泰子さん、46歳。カンボジア人外交官と東京で出会い、結婚。その後夫の帰国に同行してプノンペンで暮らしていた。夫との間に子供が2人、先妻と夫との子供が3人。タイに逃げ込んだカンボジア難民の女性が内藤さんの写真と手紙を持っていた。その情報が赤十字関係者からNHKバンコク支局の園田矢、森紀元特派員に届く。大きな反響を呼ぶことになる1時間のドキュメンタリー番組「戦火に生きた日本人妻」はこうして始まった。内藤さんを探す旅は同時にポル・ポト政権の本質を探る旅になるはずだった。だが、79年5月の時点で内藤さんが確実に生存しているかどうか定かでなかった。 
 
  1978年12月25日、ベトナム軍はカンボジア難民で結成されたヘン・サムリンの軍隊とカンボジアに侵攻し、1月7日にはプノンペンからポル・ポト勢力を駆逐した。3日後、ヘン・サムリンを首班とする政府を樹立。さらに追撃し、タイ国境地帯まで進んだ。戦乱でタイに逃げ込んだ難民は8万人を越えた。内藤さんはタイ国境近辺にいたらしい。だが、その後の消息は不明だった。 
 
■サイゴンからプノンペン入り 
 
  6月7日、石垣さんはNHKのスタッフともにサイゴンからチャーターしたマイクロバスで陸路プノンペンに向かった。 
 
  「カンボジアでは貨幣が廃止されて物々交換になっているらしいので、サイゴンで針と糸や鉛筆などを物々交換用に買い込みました。カップ麺なども用意しました」 
 
  ベトナム政府の対外文化連絡委員2名も同行した。サイゴンからプノンペンまでは車で3時間半の旅程だ。幹線道路である一号道路をひたすら西に進む。国境を越えてカンボジア領内に入るとおびただしい人々が歩いていた。みな疲れきって死んだような表情である。 
 
「解放されて助かったという、喜びめいたものはまったく感じられませんでした。」 
 
  4年に渡るポル・ポト時代に一体何が起きたのだろうかと石垣さんは思った。人々は交通の要所プノンペンを経由してそれぞれの故郷に向っていた。 
 
  一号道路を行くと規則的に掘られた穴を埋める工事が行われている。ベトナム政府担当者の話ではポル・ポトが敵の車両が通れないように道路を穴だらけにしたという。両脇の並木は薪にしたためだろうか、伐採されている。 
 
  プノンペンは無人になっていた。無人の家々はどこもかしこも盗難でめちゃくちゃだった。家具は大半が持っていかれていた。花瓶や枕は必ず壊されている。お金を隠す習慣があったからだ。どこからかピアノの音が聞こえてきた。音源に向うと、中央市場脇のアーケードに放置されたグランドピアノを一人の男が弾いている。それはシュールな光景だった。 
 
「ポル・ポトは中国の文化大革命に影響され、カンボジアでも同じ事をしようとしました。都市住民を農村に移住させ、過酷な畑仕事をさせました。知識人や芸術家は敵だったんです。そこがベトナムとの違いですよ。ハノイではあの激しい北爆の中ですら音楽会が行われ、学生はピアノの稽古に励んでいたものです」 
 
  NHKのスタッフが内藤さんの写真を貼ったプラカードを用意して、プノンペンを通り過ぎる人々に片っ端から内藤さんの安否情報を訪ねて回った。しかし、無数の人波の中で大海の一滴を求めるにも似た作業だった。 
 
■浮き上がる人間の脂 
 
  マイクロバスで郊外を走っていると、荒れ果てた田園の上に白鷺の群れが舞っている。足を踏み入れるといきなり田の側溝に1つ頭蓋骨が転がっていた。「あれです」とベトナム政府対外文化連絡委員が先を指差す。白鷺が舞っている。一面ただならぬ匂いが漂う。白鷺の下の行ってみると地面にどす黒い脂が浮かんでいた。 
 
「人間が死ぬとこんな黒い脂が染み出るのか。」 
 
  ひどい匂いだった。白鷺は人間の死体を食べる蛆や昆虫を狙っているのだ。一体、土の下に何十人の死体が埋まっているのだろうか。プノンペン郊外のあちこちで集団埋葬場所を掘り返していた。 
 
  取材班はプノンペンのホテルに滞在した。昼はずっと停電したままだった。 
 
「ホテルには丸丸と太ったネズミが駆け回っていました。このホテルで外国人が殺された話も聞きました。何か出そうな感じです」 
 
  電力不足でホテルでは電気が1日3時間ほどしか使えず一日中薄暗い。100万都市だった町が今やゴーストタウンである。 
 
  プノンペン中心部に中央銀行のビルがあった。銀行はポル・ポト時代に爆破され、紙幣は散乱していた。子供達は役に立たなくなった紙幣を土産モノとして売っている。ポル・ポトは貨幣を廃止した。貨幣は敵だった。そこで社会は物々交換に戻った。近くの住民たちは紙幣を燃やして飯を炊いていた。金でなくなった紙幣はただの紙屑だ。 
 
■内藤さんの救出 
 
  6月17日、ポチェントン空港で石垣さんは16ミリカメラを手にヘリを待ち構えていた。内藤さんが無事発見され、空港に向っているのだ。遠くの空にヘリが現れると16ミリカメラを回し始めた。ヘリが着陸してドアが開くと、内藤さんが現れた。内藤さんはものしずかで、上品な感じだった。40代半ばだが髪も多少白くなっている。眼鏡のつるは壊れたのだろう、紐で留めていた。 
 
  ホテルでインタビューが始まった。NHKの島村矩生プロデューサーが次々と繰り出す質問に内藤さんは落ち着いて1つ1つ答えた。何度も出来事を心の中で咀嚼してきたためだろう。 
 
「上品で優しい人でした。だから敵を作らず生き延びられたのだと思います」 
 
  しかし、内藤さんの体験は過酷だった。夫と二児は農村の労役で衰弱死していた。先妻の子供も衰弱して亡くなった。外交官だった夫のソー・ランタン氏は病床で「もしあの日、無理にでもお前と子供だけでも日本に避難させていれば・・・」と自分の判断の甘さを亡くなるまで悔いていたという。 
 
  1975年、4月17日。ポル・ポト率いるクメール・ルージュはロン・ノル政権の軍隊を駆逐し、プノンペンを制圧した。内藤さんは「米軍の爆撃があるから2〜3日避難せよ」と言われ、着の身着のまま疎開させられた。5年に渡る内戦がようやく終わったと住民はむしろ安堵していた。だが、これが悪夢の始まりだった。ポル・ポト政権に殺された人は推定200万人とも言われる。 
 
  内藤さんは帰国して体験記「カンボジア わが愛〜生と死の1500日〜」を出版した。しかし、帰国から3年後、50歳の若さで亡くなった。石垣さんに献呈された本には「石垣巳佐夫様 夢にまで見たなつかしい故郷に無事帰って 内藤泰子」とサインペンで書かれている。内藤さんは子供を失い、夫を失い、異国で一人暮らしながら、日本で過ごす夢を何度も見たようだ。それにしても、一体、なぜこのような事態が起きたのか。 
 
「この本にその辺の事情がよく書かれています。一家に1冊置いておきたい本です」 
 
■「ブラザー・エネミー」(社会主義陣営同士の戦い) 
 
  石垣さんが示したのは700ページを越える分厚い本だ。「ブラザー・エネミー〜サイゴン陥落後のインドシナ〜」。著者はインド人のジャーナリスト、ナヤン・チャンダである。 
 
  チャンダによると、1975年4月30日のベトナム統一でインドシナに平和と繁栄が訪れるはずだった。しかし、社会主義国家の建設に全力を尽くすべき時、ベトナムとカンボジア、ベトナムと中国など、社会主義国同士で殺しあう事態になる。中国はベトナムとソ連に挟み撃ちにされる恐怖を感じた。そこで逆にベトナムを挟み打ちにするためカンボジアのポル・ポト政権を支援した。カンボジアにはベトナムに対する積年の恨みがあった。南下してきたベトナム人によってメコンデルタの土地が奪われ、国土が縮小してきたからだ。ポル・ポトはベトナムへの敵意を煽り、ベトナム寄りと疑われる人間を粛清した。 
 
  社会主義の理想をそれぞれが持っていたはずだが、ナショナリズムを越えることができなかった。もし動乱の20世紀から我々が教訓を汲み取ることができなければ殺された人々は浮かばれないだろう。 
 
■「中国軍が攻めてきた!1979年2月 〜戦場カメラマン石垣巳佐夫氏に聞く〜社会主義国同士の亀裂」 
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201110112114372 
■日刊ベリタ関連記事「ベトナム戦争中のハノイから」 
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201011102243453 
 
村上良太 


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