2011年03月10日22時55分掲載  無料記事
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コラム

ダッハウ強制収用所の1枚の絵     村上良太

  今から15年近く前になるが、ドイツのミュンヘン近郊にあるダッハウ強制収用所跡の施設を訪ねたとき、展示室の中の1枚の絵に強い印象を受けた。その絵は谷底に潜む巨大な白い棺桶の中に、ハーケンクロイツ旗を掲げた蟻のようなナチの大軍が丘を上りつめたのち、怒涛のようになだれ落ちていく絵だった。絵は鳥瞰図で描かれていた。 
 
  この絵のどこにインパクトを感じたか、といえば、画家の千里眼にである。記憶ではこの絵が描かれた年は1932年だった。1932年といえば、まだナチが絶頂に上りつめる直前である。ヒトラーが政権を取り首相に任命されるのは翌年の1933年である。1932年の時点で画家にはナチが峠を越え、谷底に転げ落ちていく光景がはっきりと見えていたのである。この絵は画家の願望を表したものではなく、まさにそうした光景(ビジョン)が画家の脳裏に見えていたと僕には思えた。 
 
  帰国後この絵の作者が何者なのか、ずっと気になっていた。画家はダッハウに収容された画家だったのだろうか。画家は第二次大戦を生き延びることができたのだろうか。そして、なぜこのような目を持っていたのだろうか。15年来、疑問は尽きる事がなかった。 
 
  その答えは今朝得られた。ダッハウ強制収容所記念館から送られてきた1通のメールに画家の名前が記されていたのである。その名はジョン・ハートフィールド(Jonh Heartfield )と記されていた。 
 
  ‘You saw an illustration of John Heartfield (Herbert Herzfeld) who was a well known caricaturist. You can find a lot of information about him in the internet. ‘ 
 
  「貴兄が見た絵はジョン・ハートフィールドの絵です。ハートフィールドは有名な風刺画家です。インターネットで多くの情報を得ることができます」 
 
  ハートフィールドと言えば有名なアーチストである。レントゲン写真風に構成された、ヒトラーが硬貨を飲み込んでいるフォトモンタージュは最も有名な作品の1つだろう。正直、あまりにも大物だったために拍子抜けしてしまった。何年も想像の中にあったために、いつしか千里眼を持った未知の画家を思い描いていたのである。とはいえ、僕にはハートフィールドについて、それ以上の知識はなかった。 
 
  「ハートフィールドについてはインターネットで多くの情報を入手できます」とダッハウ強制収用所記念館の人が書いてくれたように、インターネットで情報を手繰って行くと、ハートフィールドの生涯がわかってきた。とくにアメリカのTowson大学のサイトで詳しく紹介されている。(注:かつて以下のリンクだったが、移動したのか撤去したのか、今は見れなくなっている) 
http://www.towson.edu/heartfield/artarchive.html 
  まず特徴的なことはハートフィールドがベルリンのDADA(ダダ)のグループで活動していたことだ。 
 
  ウィキペディアで検索すると、DADA(ダダ)は第一次大戦をきっかけに欧州で生まれた芸術運動の1つで、その骨子は「反―芸術」だと書かれていた。「ダダは美学を無視する」とも書かれていた。DADAには第一次大戦=戦争への嫌悪が根底にあることがわかった。戦争を誘発した産業界や、それと通底するブルジョア美学への反旗という性格が強い。ハートフィールドが参加したドイツのDADAグループは中でも政治的な性格がとくに強かったと記されている。 
 
  Towson大学のインターネットサイトによると、ハートフィールド自身も第一次大戦中にドイツで徴兵されている。所属する部隊は当初ベルリンにいたが、いざ前線に送られそうになると、彼は神経症を装い、兵役免除となっている。確信犯的に行動する人間のようだ。また、ハートフィールドの本名はドイツ名のHerbert Herzfeld だったが、第一次大戦中のドイツナショナリズムの高まり(さらには反英意識の高まり)に反抗して、あえて英国風に名前を改めている。 
 
  トリスタン・ツァラらがスイスでDADAを立ち上げたのは第一次大戦中の1916年だが、ハートフィールドものちにベルリンのDADAグループに参加し、さらにドイツ共産党員にもなった。ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトが惨殺された時には労働者にデモを呼びかけた。1920年にはベルリンで行われた最初の国際DADA芸術展を開くために中心的に動いた。 
 
  1924年にフォトモンタージュの作品を発表し始め、1930年には労働者向けの新聞AIZ(Arbeiter-Illustrated-Zeitung )に多数の作品を掲載している。この年、ドイツにやってきたソ連の詩人、マヤコフスキーや作家のエレンブルクにも出会っている。翌1931年から32年にかけてハートフィールドはモスクワを訪れ、300点もの作品展示をしている。ダッハウで展示されていたナチの大軍が棺桶に向う絵が描かれた1932年もこの頃になる。 
 
  1933年、ヒトラーが政権を取ると、チェコに逃げ、その後、ソ連に逃げるように促された。しかし、ハートフィールドはソ連に行かず、英国に亡命した。ソ連に行かなかったのはモスクワ旅行の時に、スターリ二ズムを察知していたからかも知れない。英国でハートフィールドは画家として「ヒトラーに対するたった1人の戦争」を続けた。 
 
 ここまで見ると、ハートフィールドがダッハウ強制収用所にいた形跡はない。ではダッハウ強制収用所記念館になぜハートフィールドの絵が展示されていたのだろうか。記念館の人に改めて尋ねてみると、次のような回答が返ってきた。 
 
‘in 2003 the exhibition changed and the illustrations of Heartfield are no longer to see in Dachau. Heartfield has nothing to do with Dachau. 
We had the drawings of him in the old exhibition because they illustrated very easily how Hitler and the important German industrials worked together just before 1933. ’ 
 
  「ハートフィールドの絵は2003年にダッハウ強制収用所記念館から撤去され、現在は存在しません。ハートフィールド自身はダッハウと無縁です。ではなぜ記念館で過去にハートフィールドのデッサンを展示していたのか。その理由はヒトラーが政権を取る1933年の直前に、ヒトラーとドイツの主要な産業界がいかに手を携えていたかをハートフィールドの一連の絵から容易に見て取る事ができたからです。」 
 
  ドイツのファシズムを裏で支えたのがドイツの産業界だったことを忘れないために、ハートフィールドの絵が長年、展示されていたというのである。そして、2003年に彼の絵はダッハウから外されてしまったのだった。 
 
  ところで、ハートフィールドがドイツに帰国するのは1948年である。東ベルリンのフンボルト大学から要請されたのだ。彼は1968年に亡くなるまで東独で暮らした。ハートフィールドはつまりあの過酷な激動の時代を孤独に闘いながらもしたたかに生き延びたのである。 
 
 
■ダッハウ強制収用所記念館のホームページ 
 
1933年3月22日、ヒトラーが首相になって間もないこの日にダッハウ強制収容所が作られた。この収容所は政治犯を収容するためのものだったが、後にはナチが設立したすべての強制収容所のモデルとなった。そこは親衛隊員(SS)が「暴力を学ぶ学校」であったと、このサイトは説明している。ドイツ敗戦の1945年までに20万人以上がダッハウ強制収容所とその関連施設に収容され、41500人が殺された。米軍によってダッハウ強制収容所が解放されたのは1945年4月29日である。 
 
https://www.kz-gedenkstaette-dachau.de/index-e.html 
 
村上良太 


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