2011年03月26日21時30分掲載  無料記事
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やさしい仏教経済学

(37)平和思想の先覚者、安藤昌益に学ぶ 安原和雄

  安藤昌益は若い頃、禅寺で修行した経験があるとも伝えられるが、その昌益が罵倒に近い表現で、釈迦や仏教を批判している。にもかかわらず昌益の思想と仏教経済学との接点は少なくないと考える。それはエコロジー、男女対等論、反金銭観、非武装平和論 ― などで、いずれも21世紀に継承発展させるに値する昌益思想である。なかでも江戸時代に非武装平和論を唱えて、平和思想の先覚者としての地位を築いた昌益に着目したい。 
 昌益は武士支配下の封建体制を果敢に批判し、それを解体して理想の世界を創ろうとした。その比類のない大胆な構想力と変革・創造への高い志に現代のわれわれは学び、活かさなければならない。 
 
 昌益(1703・元禄16年〜1762年)は江戸中期の思想家。現在の秋田県大館市生まれ。医学や本草学を学び、のち青森の八戸で町医者となり、晩年には広く各地を歩き、自然の道理を明らかにするため『自然真営道』(全101巻。弟子が昌益の死後に遺稿をまとめた)を書いた。農耕を天地自然の本道として人間生活の基本だと力説した。一方、武士、町人、僧侶は社会の寄生虫と決めつけ、封建社会を激しく批判した。すべての人が生産に従事して平等に生きる反封建的な社会観を説いた。 
 
▽ 昌益の釈迦・仏教批判を今日どう理解するか 
 
 昌益は「聖釈(聖人と釈迦)よりも馬糞の方が益あり」と言った。「不耕貪食の徒」(土地を耕作しないでただ食を貪っているだけの輩)よりも肥料として役立つ馬糞の方がまだましだ、というのだから痛烈な物言いである。 
 このように昌益による釈迦批判は罵倒に近い。ここでは仏教の五戒(注1)に対する批判のうち不殺生戒に絞って紹介する。 
(注1)不殺生戒=殺さないこと、不偸盗戒=盗まないこと、不邪淫戒=人妻と不倫関係にならないこと、不妄語戒=ウソをつかないこと、不飲酒戒=酒などのアルコール類を飲んで酔っぱらわないこと。 
 
*不殺生戒について 
「(出家して)父母を捨て妻子を離るるは、直ちに手を立ててこれを殺すより重罪なり。孝養すべき自然の父母を捨ててこれを殺し、慈育すべき子を離れてこれを殺す。故に(不)殺生戒を破るは、他に非ず、釈迦自ら破るなり。(中略)末世に殺生を業とする者の絶えざるは、釈迦の亡魂なり」と。 
 
 五戒の一つ、不殺生戒を破っているのはほかならぬ釈迦自身であり、その故に現世が乱れに乱れているのだ、と痛罵されては、お釈迦様も立つ瀬がなくなる。以上のような釈迦批判を今日どう受け止めるか。 
 昌益は釈迦とともに仏教を厳しく批判しているが、実は釈迦が出家したことなどをとらえて、自らは農耕に従事せず、食べ物をつくらないで、食を貪(むさぼ)る「不耕貪食の徒」としての生き方・行動を批判しているのである。仏教思想それ自体を批判しているのではないようにみえる。いいかえれば昌益が釈迦自身の説法、さらに釈迦没後の利他主義などを採り入れた大乗仏教をどこまで理解していたのかは不明である。 
 江戸時代の現実社会での仏教のあり方、僧侶の生き方が徳川幕府の権力構造に組み込まれて腐敗堕落していた事実に昌益は厳しい批判の目を向けたのである。いずれにしても批判の立脚点は「不耕貪食の徒」の一点にあった。 
 
▽ 昌益思想を今世紀に生かす(1) ― エコロジー、男女対等論 
 
ここでは比類のない昌益思想の大筋を紹介し、それを今世紀にどう生かすかを考えたい。 
 
<エコロジー>について 
 まず昌益の「自然・いのち・米(こめ)」一体論を紹介する。 
 昌益は「米から人間が生ずる」、「米は人の親」などの認識に立ち、いのちの源は米であるという思想を打ち出している。しかもその米は「自然=天地」に依存しているのだから「自然=天地」、「米」、「いのち」が三位一体関係の下に認識されている。その意味では昌益は自然を重視するエコロジストの先駆者でもあった。このエコロジー思想を今日どう生かすか。 
 
 三位一体関係でとらえている「米」を今日では人・農・食・水・森・土地からなる田園のシンボルとしてとらえ直したい。それを今日の循環型経済社会の構築につなげていくことが課題である。その場合、最低次の三つの条件を考慮しなければならない。 
*いのちを生かす農業=食はいのち、健康の源ある。そのためには安心・安全な食の供給、確保が不可欠である。農業はいのちを育て、生かする産業であり、いのちを削る工業とは異質であることを認識すること。 
*食糧自給率の向上=日本の自給率(カロリーベース)は先進国中最低の40%で、残りの60%を海外に依存している。近い将来の世界的な食料不足時代に備える食糧安全保障の見地からも、価格が安いからといって過度に海外依存するのは危険である。自給率をもっと引き上げること。 
*自然・環境保全型=人間を含む生き物は、自然・環境から多様な恵みを受けながら、いのちをつなぎ、暮らしている。いのちの根源である自然・環境の保全を重視する農業であり、経済社会であること。 
 
<男女対等論>について 
 昌益は徹底した人間平等、男女対等論、恋愛賛美論を主張し、次のように述べている。 
*人間平等の思想=「人において上下・貴賤の二別なし」 
*男女対等論、恋愛賛美論 
 男女対等論=「男女(注2)にして一人」である男と女は「上なく、下なく、二別なき」ものである。 
 (注2)昌益は「男女」と書いて「ひと」とふりがなし、「人」と読ませるほど男女を対等に扱った。 
 恋愛賛美論=「此(ここ)の男女と彼(かしこ)の男女と、互いに相知ること、(中略)終(つい)に親和して、夫婦となる」 
 
 以上のように昌益は単に平等一般を説いただけでなく、男女対等論、恋愛賛美論にまで視野を広げている。寺尾五郎著『安藤昌益の闘い』は「これほど徹底した平等の観点、封建的身分秩序への反抗はない。200年後の明治においてすら匹敵するもののない人間平等の思想であり、近世日本の思想史上に比類なき破格のものである」と高く評価している。 
徹底した人間・男女対等論には今日学ぶべき点が少なくない。21世紀を迎えてなおみられる多様な人権軽視・差別温存の現状をどう打開していくか。古くて新しい課題である。しかし人間中心主義に立って自然の征服・支配・破壊に向かいかねない人間平等論の21世紀ではない。むしろ生命中心主義に立って「人間は自然の一員」、「自然との共生」という自覚をもち、自然と人間との間でいのちを分かち合う人間・男女対等論でありたい。 
 
▽ 昌益思想を今世紀に生かす(2) ― 反金銭観、非武装平和論 
 
<反金銭観>について 
 昌益はどのような金銭観を抱いていたのだろうか。 
*金銭欲が諸悪の根 
 「金銀銭をもって人倫上下の通用となし、世の望みことごとく足りて善いことと思うことが、慾の根となる。(略)貴賤上下貯金をなさんことを欲し、銭のために謀計をなし、互いに巧(たくら)み、巧まれ、常に慾心のやむことなし。慾は諸悪の根なれば、すなわち乱世も慾より起こり、人を殺し殺さるるも慾のなすところなり」 
*商(当時の「高利貸・前期商業資本」としての商人)への批判 
 「商道は、不耕にして、利を巧らむ諸悪の始なり」 
 「金(かね)は万欲・万悪の太本なり」 
 
 昌益の商と金銭への攻撃は徹底している。そこには「欲は諸悪の根」という考えがあり、欲の中でも金銭欲が最悪という認識である。今日の経済では商いは必要だが、当時は前期商業資本、つまり高利貸し横行の時代で、昌益自身がその被害にも遭ったらしく、「カネは万欲・万悪の太本」と断じている。 
 昨今の拝金主義の横行は現代資本主義の末路を暗示さえしている。「非貨幣価値の尊重」という文化を経済社会の中にどう組み込んでいくかが今日の課題である。昌益の金銭無用論は理想にすぎない。現実論としては貨幣価値(=市場価値。お金で買える商品、サービス)と非貨幣価値(=非市場価値。お金では買えない地球環境、自然、人類愛、変革への志、利他主義、簡素、連帯感、心づかい、思いやりなど)の「両価値共存」のもとで非貨幣価値を重視するという経済社会を構築していくことが課題である。 
 
<非武装平和論>について 
 昌益は徹底した平和主義者でもあった。彼の主張は今日に継承発展させるべきところが少なくない。単に平和論を説いただけではなく、平和の実現策つまり武力の削減案まで構想しているところに特色がある。 
以下、安藤昌益の思想を発掘し、優れた理解者であったE・H・ノーマン(注3)の昌益評を紹介する。 
 (注3)E・H・ノーマン(1909〜57年)は在日カナダ人宣教師の子として長野県の軽井沢で生まれる。米ハーバード大学で日本史を研究し、都留重人(経済学者、一橋大学学長を歴任)らと親交を結ぶ。駐日カナダ代表部首席を歴任。著書に『日本における近代国家の成立』、『忘れられた思想家 ― 安藤昌益のこと』(上、下)など。 
 
*武力を否定する文明人 
 「昌益は強い語調で平和の愛好と一切の暴力および社会闘争の嫌悪とを宣言した。いわく、〈争う者は必ず斃(たお)れる。斃れて何の益があろう。故に我が道に争いなし。我は兵を語らず。我戦わず〉」(『忘れられた思想家』上) 
 「昌益は、平和を愛し、平和を求める人であった。したがって武力を否定する正しい意味での文明人(civilized man)であった」(『同』下) 
*家臣団の大幅削減を提案 
 「封建領主は近隣の大名に不意打ちされること、否それよりも人民の蜂起を恐れて厖(ぼう)大な家臣団を養っているが、昌益はこの家臣団を大幅に縮小して領主一人あたりにつき家臣の数を限定し、職を離れた者は帰農さすべきであると説く。そうすれば社会はこういう寄生者を扶養する負担から解放され、彼らを有用な勤労に就かしめることができる。費用のかかる大勢の家臣を養うことをやめて、人民を押しつぶす負担を免除するならば、全国の支配者も封建諸侯も農民騒擾(そうじょう)の根因を一挙に除くことができると昌益は説く」(『同』下) 
 
*武士は単なる穀潰し 
 「昌益の重農論の最も独創的な特徴は、かれの時代のどの思想家とも異なって、武士を全く無用な怠け者、社会的に何ら有用な機能を行わない単なる穀潰(ごくつぶ)しであり、したがってかれの改革案では何らの役割をももたない者として排撃したところにある。これこそ実に昌益の思想の本質であり、独立農民からなり、武士階級の存在しない農本民主主義である」(『同』下) 
*提案の実現性 
 「職業軍人からなる大常備軍の必要なき社会を招来する綱領は今日では合理的であるだけでなく、実現しうる。それがはじめて提唱されてから200年の歳月を振り返るならば、それは大胆にして創意に富み、しかも本質において現実的な精神にしてはじめて構想し得たものであった」(『同』下) 
 
 常備軍全廃論ではドイツの哲学者・カント(1724〜1804年)の著作『永遠平和のために』(1795年に出版)が知られる。カントは「常備軍は時とともに全廃されなければならない」と提案した。 
 昌益の常備軍廃止論はカントのそれよりも半世紀近くも前に打ち出された構想(もっとも当時は未発表)であり、武士支配の封建体制下で武士の存在そのものを否定する、これほど創意にあふれる提案にたどり着くとは驚くべきことである。それも生産労働者としての農民を主役に据えたからこその先覚者らしい着想であろう。 
 昌益の独創的な常備軍廃止論は今日こそ継承発展させるべき構想である。自衛隊の全面改組による非武装「地球救援隊」(仮称)創設へとつなげたい。これが仏教経済学の目指すところである。 
 
<参考資料> 
・E・H・ノーマン著/大窪愿二訳『忘れられた思想家―安藤昌益のこと』上、下(岩波新書、1950年) 
・寺尾五郎著『安藤昌益の闘い』(農山漁村文化協会、1978年) 
・安原和雄「安藤昌益と仏教経済学 ― 二十一世紀版<自然世>を考える」(駒澤大学『仏教経済研究』第35号・平成18年) 
 
*本稿は「安原和雄の仏教経済塾」からの転載です。 
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