2011年04月05日12時37分掲載
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東日本大震災
「平成の再生」モデルを提唱する 大惨事の廃墟から立ち上がるとき 安原和雄
天災(地震と大津波)と人災(原発大事故と放射能汚染)による複合的大惨事とその廃墟から立ち上がり、閉塞状況を打破するにはどうしたらよいだろうか。目先の対応策ももちろん重要であるが、もう少し長期的視野から日本の行く末を考え直すときではないだろうか。それを「平成の再生」モデルとして提唱したい。日本の近現代史上に位置づければ、明治維新、昭和の戦後改革に次ぐ第三の平成の変革事業となる。
明治維新、戦後改革はともに既存秩序の継承ではなく、質的変革、つまり国のあり方そのものの変革を意味した。同様に今日本が直面しているのは、政治、経済、社会、文化の新しい姿を模索していくことにほかならない。廃墟の中から立ち上がるのだから、あえて「再生」と呼びたい。その鍵になるのはいうまでもなく「脱・原発」への模索である。
菅直人首相は2011年1月の施政方針演説で訴えた。「私が掲げる国づくりの理念は、<平成の開国」>だ。日本はこの150年間に<明治の開国>と<戦後の開国>を成し遂げたが、私はこれらに続く<第三の開国>に挑む」と。巨大震災が訴えているのは<開国>ではなく、<平成の再生>である。首相の演説はもともと的外れであったが、日本列島が未曾有の激震に見舞われたため、3か月程度で完全に陳腐化した。
▽ 「平成の再生」モデルの概要
「平成の再生」モデルの概要を述べる。その主要な柱は以下の6項目からなっている。
(1)「脱・原発」と「原発推進複合体」解体を
原発(注1)の安全神話が根底から崩壊した今、「脱・原発」への道を模索することが不可避であるだけではない。根拠なき安全神話を捏(ねつ)造しながら原発をごり押しして、いのち、自然を汚染・破壊してきた元凶は「原発推進複合体」とも名づけるべき存在である。その解体こそが急務であり、その成否が「平成の再生」の鍵を握っている。
(注1)世界の原子力発電の現状=国際原子力機関(IAEA)によると、世界で稼働中の原子炉は437基(2010年1月現在)で、国別にみると、最多が米国の104基、フランス59基、日本54基(ほかに計画12基、建設中2基)の順で、日本は世界3位の多さである。世界の総電力量のうち約14%(09年)が原発でまかなわれている。
(2)自然エネルギー普及の促進と循環型社会の構築
「脱・原発」といえば、エネルギー供給は大丈夫か、という不安もあるに違いない。当面は原発の新増設の中止であり、既存の原発は中期的視野で漸減させていくが、東海地震に備えて中部電力浜岡原発(静岡県)は運転停止する。その一方、再生可能な自然エネルギー(太陽光、風力など)の利用・普及の促進と自然環境重視の循環型社会の構築が急務である。
(3)脱・経済成長主義へ転換を
環境を破壊しつつ、経済の量的拡大しか意味しない経済成長主義に執着するのは時代感覚がずれすぎている。私はここ十数年来「脱・成長」を唱えてきた。「脱・原発」のためにも貪欲な経済成長ではなく、簡素にして持続可能な経済の質的発展こそが日本経済の目指すべき課題である。質的発展には仏教を含む宗教、精神文化の重視も含まれる。質的発展の重要性を改めて自覚するときである。
(4)ローカリゼーションのすすめ
グローバリズムよ、さようなら! ローカリズムよ、今日は! が時代の合い言葉である。地球規模で企業利益を荒稼ぎする多国籍型大企業が主役の時代は過去の物語となりつつある。地域住民が主役のローカリズムを重視しなければ、巨大震災と原発大事故による廃墟から立ち上がり、再生を図ることは困難である。
(5)クルマ依存症から脱却しよう
全国の交通のあり方としてクルマ社会(マイカー中心)から徒歩、自転車、公共交通(バス、路面電車、鉄道)重視への転換を急がねばならない。巨大震災では自転車や公共交通に比べ輸送効率の劣るマイカーは十分に機能するとはいいにくい。人間の原点ともいうべき2本足で歩くことの価値をこの際、改めて認識し直したい。
(6)日米安保破棄と非武装ニッポン、地球救援隊構想の具体化
日米安保の特質は日米軍事同盟という名の「暴力装置」である。大手メディアに「安保は安心・安定装置」などという認識があるが、大いなる錯覚というべきである。日米安保を破棄し、自衛隊を非武装の「地球救援隊」へと全面改組する必要がある。これこそが平和憲法本来の理念、非武装ニッポンを実現させていく道である。
以上の6本柱のうち、(2)から(5)までの柱は、ここ数年来欧米では地方自治体、市民レベルを中心に動き出しており、世界の新潮流となりつつある。(6)の地球救援隊構想は平和憲法の理念を実行するアイデアで、私はここ数年来唱えてきた。実現すれば、世界の先駆けとなる。
以下では<(1)「脱・原発」と「原発推進複合体」解体を>を中心に考えたい。特に「原発推進複合体」解体は「再生ニッポン」のあり方を考える上で重要な新しい視点である。
なお(1)の「脱・原発」と(2)から(6)までの柱は、日本変革の望ましい姿としてブログ「安原和雄の仏教経済塾」でしばしば論じてきた。その骨格は「平成の再生」モデルに生かすことができると考えている。その記事のタイトルと掲載日を<参考資料>として末尾に紹介する。
<「脱・原発」と「原発推進複合体」解体を>は次の二点を取り上げる。
*大惨事を招いた原子力発電の「安全神話」
*原発推進複合体の解体が急務
▽ 大惨事を招いた原子力発電の「安全神話」
20年も昔のこと、まだ現役記者だった頃、ある電力会社社長との懇談の席で私(安原)は、その社長に向かってこう言った。「あなた方は原発は安全だと言い張っているが、大事故が起こってから謝罪の遺書を残してあの世へ旅立ったとしても、それで責任をとれるわけではないでしょう。どうですか」と。その社長は、ただ黙ってうつむいていたのを鮮明に覚えている。痛いところを指摘されたと思ったのか、それとも予想外の質問に唖然としたのか、そこは分からない。
世界を驚かせた米スリーマイル島原発事故(1979年)、さらに旧ソ連領のチェルノブイリ原発事故(1986年)が発生しており、私にとってはごく当然の質問である。しかし原発推進派は安全神話への疑問に誠意ある対応を拒否し続けてきた。その無責任振りの成れの果てが今回の東電福島原発の大惨事である。安全神話への異常な執着が今回の悲劇をもたらし、安全神話そのものを内部から自壊させたといえる。
安全神話が根拠のない虚構であることについてはこれまで多くの指摘があった。その一つに原発技術者、平井憲夫氏の「原発がどんなものか知ってほしい ― 優しい地球 残そう子どもたちに」という内容の遺書(注2)がある。
(注2)東電福島原発の事故以来、インターネット・メールで毎日大量の原発惨事関連の情報が送られてくるが、この遺書もその一つである。平井氏は1級プラント配管技能士として原子力発電所で働き、放射能を体内に浴びる内部被曝を100回以上も受けて、癌になり、1997年死去。原発事故調査団国民会議顧問、原発被曝労働者救済センター代表、東電福島第2原発3号機運転差し止め訴訟原告証人などとして反原発の立場から尽力した。
その遺書は、「原発がある限り、安心できないし、平和も来ない。原発が地震で壊れる心配もある」と力説している。要点を以下に紹介する。
2011年「3.11」以降の日本の現実は、一人の原発技術者の「心配」が単なる杞憂ではなく、現実の悲劇として進行中である。遺書に盛り込まれている「安全神話に疑問を投げかける良心の叫び」を電力会社だけでなく、歴代自民党政権、現民主党政権も共に無視した、その罪は計り知れないほど大きい。
<原発技術者の遺書は訴える>
原発は確かに電気を作っている。しかし私がこの目で見たり、この身体で体験したことは、原発は働く人を絶対に被曝させなければ動かないものだということ。原発を造る時から地域の人たちは賛成だ、反対だと割れて、心をズタズタにされる。出来たらできたで、被曝させられ、何の罪もないのに差別されて苦しんでいる。
みなさんは原発が事故を起こしたら、怖いのは知っている。だったら事故さえ起こさなければいいのか、平和利用なのか。そうじゃない。働く人が被曝して死んだり、地域の人が苦しんでいる限り、原発は平和利用なんかではない。原発がある限り、安心できないのだから。
それに今は電気を作っているように見えても、何万年も管理しなければならない核のゴミに、膨大な電気や石油が要る。今作っている以上のエネルギーが必要になることは間違いない。しかもその核のゴミや閉鎖した原発を管理するのは、私たちの子孫なのだ。そんな原発がどうして平和利用といえるか。だから私は何度でも言うが、原発は絶対に核の平和利用ではない。
私はお願いしたい。このまま原子力発電所をどんどん造って大丈夫なのかどうか、事故だけでなく、地震で壊れる心配もあって、このままでは本当に取り返しのつかないことが起きてしまう、と。
だからこれ以上原発を増やしてはいけない。原発の増設は絶対に反対だという信念でやっている。稼働している原発も、着実に止めなければならない。原発がある限り、世界に本当の平和は来ないのだから。(以上、遺書から)
▽ 原発推進複合体の解体が急務(1)― 複合体の特色は
「原発推進複合体」という名の妖怪が地震大国日本の弱点を無視したまま、列島上を徘徊(はいかい)してきた。この複合体は政府(首相官邸、内閣府原子力安全委員会、経済産業省と原子力安全・保安院など)、商工族議員、電力会社を軸とする経済界、原発推進の御用学者・専門家、大手の新聞・テレビなどの面々を構成メンバーとしている。「複合体」という名称は、あの有名な「軍産複合体」(注3)にヒントを得て私(安原)が名づけたもので、軍産複合体に劣らぬパワー(政治・経済権力)を備えている。
(注3)軍産複合体といえば、「アイクの警告」を思い出すほかない。半世紀も昔のこと、1961年1月、アイクこと軍人出身のアイゼンハワー米大統領がその任期を全うして、ホワイトハウスを去るとき、全国向けテレビ放送を通じて有名な告別演説を行った。
その趣旨は「アメリカ民主主義は新しい巨大で陰険な勢力によって脅威を受けている。それは<軍産複合体>とでも称すべき脅威であり、その影響力は全米の都市、州議会、連邦政府の各機関にまで浸透している。これは祖国がいまだかつて直面したこともない重大な脅威である」と。
軍部と産業との結合体である軍産複合体の構成メンバーは、今日ではホワイトハウスのほか、ペンタゴン(国防総省)と軍部、国務省、兵器・エレクトロニクス・エネルギー・化学などの大企業、保守的な学者・研究者・メディアを一体化した「軍産官学情報複合体」とでも称すべき巨大複合体となっている。これが特にブッシュ政権下で覇権主義に基づく身勝手な単独行動主義を操り、「テロとの戦争」を口実に戦争ビジネスを拡大し、世界に大災厄をもたらしてきた元凶といえる。オバマ大統領の時代になってからも、この軍産複合体のパワーは変わっていない。
日本にも日本版軍産複合体が存在する。日米安保体制を軸にして米国軍産複合体と緊密に連携し、日米軍事同盟を存続させる担い手として機能している。存続の必要条件が「敵からの脅威」であり、必要に応じてあえて脅威論を演出することも厭(いと)わない。時折、メディアがはやす「中国や北朝鮮からの脅威」がその具体例である。
さて原発推進複合体の特色は何か。軍産複合体との対比で考える。以下の三点を挙げることができる。
*安全神話と抑止力神話=危険な原子力発電だからこそ安全神話で支える必要があったが、その神話が崩壊した。軍産複合体は抑止力神話(敵の侵略攻撃を防ぐ抑止力)を掲げているが、実態は米国の覇権主義に基づく対外侵略攻撃力である。沖縄などの在日米軍基地はその出撃基地として機能している。
*原発ビジネスと兵器ビジネス=双方ともに巨額のビジネスとして潤っている。ビジネスとは別に電源立地地域対策交付金という名の「アメ」が用意されている。原発を受け入れる地域に対し、交付金として国から100億単位のカネが支給されることもあり、文化教育施設を含む公共施設の整備などに注ぎ込まれる。
*「想定外の無責任」と廃墟=放射能汚染の拡大、軍事力攻撃のいずれも廃墟を造り出すことでは同じだが、原発では「想定外の無責任」という特殊な思考様式がある。今回の原発大事故は「想定外」と当事者は言い訳に苦心したが、「想定外」は怠慢の故であり、免責されるわけではない。
余談だが、2月京都大学受験生がケータイでカンニングして逮捕される事件が発生した。受験生にとっては想定外の問題だからカンニングしたのだろう。受験生が逮捕され、一方電発大災害の責任者が「想定外」を理由に免責されるとしたら、これほどの不公平はないとはいえないか。公平な審判員ならどうみるか?
あえて付言すれば、この原発推進複合体の解体を促さない限り、今後も廃墟が日本列島上のあちこちに拡大するほかないだろう。
▽ 原発推進複合体の解体が急務(2)― 大手メディアの責任
軍産複合体同様に、原発推進複合体にもその一員として組み込まれている大手メディアの役割とその責任は軽視できない。
朝日新聞のコラムニスト、若宮啓文氏は「ザ・コラム」(4月3日付朝日新聞)で「3・11の衝撃」と題して、次のように指摘している。
原発の安全神話が崩壊したのだが、ことの深刻さはそれにとどまらない。地球温暖化の原因であるCO2の削減が人類の避けられない課題となる中、クリーンエネルギーとして再評価されつつあった原発に代わるものが、すぐにはないからだ。(中略)「日本の原発は世界で一番安全だ」と公言してきた国でもある。広島・長崎という悲惨な原爆体験があればこその自負だったが、その原発が大津波の対策を甘く見て墓穴を掘った。何とも大きな歴史の皮肉に違いないが、それは日本に対して真っ先にエネルギーの本格的な発想転換を促したとも言えよう、と。
一言感想を述べたい。文中の「クリーンエネルギーとして再評価されつつあった原発」という指摘は原発推進派の言い分で、大手メディアもその一役を担ってきたのであり、原発に疑問を抱いてきた人々の発想ではない。もう一つ、「エネルギーの本格的な発想転換を」という主張は、その通りで、緊急のテーマである。しかしどう転換するのか、その具体策には触れていない。全体として他人事のような解説という印象が残る。
大手メディアがいつになったら自己批判を込めて社説(社論)で「原発見直し」の主張を展開するのかと注視してきた。やっと朝日新聞社説(4月4日付)が大手紙の先陣を切って「岐路に立つ電力文明 持続可能な暮らしを求めて」と題して論じた。
その趣旨は、「原子力は優等生に見えた」と言い訳をしながらも、「原発の神話の克服はこれからである。(中略)二酸化炭素(CO2)を出す化石燃料依存へと、単純な先祖返りはできない。ならば太陽光、風力、地熱など再生可能な自然エネルギーを総動員する必要がある」と化石燃料依存から自然エネルギーへの転換を促している。
主張としては正しい。賛成したい。しかし苦言を呈したい。それは原発推進派であったはずだが、そのことへの自己批判が欠落していることである。それだけではない。相変わらず「権力追随型」から脱却し切れていない印象がある。というのは菅首相が3月末、記者会見で原発の新増設計画の見直しを検討する旨を発言しており、時間の経過からいえば、それを受ける形で社説が書かれているからである。
今となっては原発の新増設の見直し、中止は当然のことであり、焦点は「脱・原発」路線にどこまで踏み込むかである。そこに切り込むのがジャーナリズムの仕事とはいえないか。ジャーナリズムの原点は権力批判である。この原点をあやふやにするようでは、メディアは政府の宣伝機関へと堕すほかない。最近の大手メディアの社説は概して権力批判の姿勢から遠いことを惜しむ。
批判精神が光っているのは毎日新聞「仲畑流万能川柳」(4月3日付)である。川柳に託す市民、生活者の心意気のいくつかを紹介すると ― 。カッコ内は私(安原)のコメント。
*私等は電力会社選べぬし(競争のない電力会社だから無責任な思考がはびこる)
*問題ないけれど避けろと放射能(専門家も正直言ってよく分からないというお話)
*下請けが原発管理?そりゃないわ(肝心な管理を下請けに出す東京電力への怒り)
*想定外 ただ考えていないだけ(自分の怠慢を言いつくろうためのずるい発想)
*安全といってた人はいまどこに(調子のいい言動の輩ほど雲隠れが得意ということ)
*浮き草のように流れる高級車(クルマは便利と思いこんでいる人々への自然からの戒め)
<参考資料>
(1)「脱・原発」と「原発推進複合体」解体を
・原子力発電は「人類の生存に脅威」― 連載・やさしい仏教経済学(6)=2010年7月8日/・仏教小説『暴風地帯』を読んで ― 風力発電派と原発派の抗争の果てに=10年4月2日/・市民組織「みどりの未来」が目指す変革 ― 自然と共生、脱原発、持続可能な社会=10年1月8日/・今日はお寺で6時間過ごそう ― 原子力発電と仏教をテーマに=08年1月25日/・日本列島に住めなくなる日 ― 原発を並べて戦争はできない=07年8月28日
(2)自然エネルギー普及の促進と循環型社会の構築
・地産地消型自然エネルギーへ転換を ― 連載・やさしい仏教経済学(33)=2011年2月17日/・循環型社会づくりは平和と共に ― 環境先進国・コスタリカに学ぶ=09年5月15日
(3)脱・経済成長主義へ転換を
・シューマッハーの脱「経済成長」論 ― 連載・やさしい仏教経済学(8)=2010年7月23日/・経済成長至上主義よ、さようなら ― 連載・やさしい仏教経済学(27)=2011年1月8日ほか多数
(4)ローカリゼーションのすすめ
・簡素とローカリゼーションのすすめ ― 連載・やさしい仏教経済学(19)=2010年10月22日/・台頭するローカリゼーション ― 経済のグローバル化への果たし状=07年12月20日
(5)クルマ依存症から脱却しよう
・破壊型くるま社会から脱出する道 ― 連載・やさしい仏教経済学(35)=2011年3月8日/・「鞆の浦」の景観は「国民の財産」 ― 歴史的景勝地に車社会は似合わない=09年10月7日/・芭蕉の「歩く文化の旅」に学ぶ ― クルマ依存型文明をどう超えるか=09年4月28日
(6)日米安保破棄と非武装ニッポン、地球救援隊構想の具体化
・宮沢賢治の詩情と地球救援隊構想 ― 連載・やさしい仏教経済学(38)=2011年4月1日/・「日米安保」への執着を捨てるとき ― 沖縄知事選結果が示唆すること=2010年11月30日ほか日米安保関連の批判記事は多数
*本稿は「安原和雄の仏教経済塾」からの転載です。
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