2011年04月17日10時14分掲載
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やさしい仏教経済学
(40)世界に誇れる「愛国心」を育むとき 安原和雄
仏教経済学(思想)は愛国心をどう考えるのか、と聞かれれば、「愛国心は大切」と答えたい。ただし新しい愛国心は、かつて無謀な戦争に協力して国を亡ぼし、今また保守勢力が折に触れ、復活を策している古い愛国心とは異質である。亡国へ誘う愛国心の復活を許容するわけにはいかない。
むしろ地球規模で反戦=平和を念願する世界の民族、市民から日本国や日本人が高く評価されるに値する愛国心でなければ、21世紀の愛国心としてふさわしいとはいえない。だから新しい愛国心は、地球を愛する「愛球心」でもなければならない。同時に反グローバリズムの立場から地域重視のローカリズムと脱・原発の旗を押し立てる。新時代の21世紀は新しい愛国心を求めている。
▽ 〈愛国心=愛球心〉を育むとき(1) ― 平和憲法9条を誇りに
かつての亡国の愛国心へのイメージが残っているため、愛国心といえば、背を向ける姿勢が少なくないが、愛国心に否定的な姿勢から抜け出せないようでは愛国心に燃えている海外の人々から問われるだろう。「日本人であるあなたは、日本という国を誇りに思っていないのか」と。
21世紀の地球環境保全優先と非軍事力の時代にふさわしく誇りとするに足る日本人の〈愛国心=愛球心〉をどう育むかが大きな課題となってきた。その骨格としてつぎの3本柱を挙げたい。
*平和憲法9条(戦争の放棄、軍備・交戦権の否認)の理念を世界に向けて誇りとすること
*地球市民(Planetary Citizenship)として「愛球心」すなわち地球大の視野で地球を愛し、慈しむ責任ある行動に努めること
*多国籍企業の利益を主眼とするグローバリズムを拒否し、地域主導のローカリズムを推進すること
もう少しイメージを描くと、つぎのような市民、民衆の生き方、信条と心情を指している。
・国家権力には批判的に参画していくこと
・自由・民主・人権の尊重、法の支配、市場経済(注1)を軸に据えた住みよいしなやかな政治、経済、社会をつくること
(注1)ここでの市場経済は、計画経済の対極にある市場経済という含意である。多国籍型企業のような大企業が猛威を振るい、弱小企業や労働者を食い物にする自由放任型の新自由主主義的な市場経済のイメージとは異質である。
・郷土と地域を地域共同体として大切に思うこと
・日本の文化とその歴史を理解し、尊重すること
・美しい山河と自然環境を守り育てること
・地球環境保全などに努め、地球上のいのちを慈しむこと
・日本国平和憲法前文の平和生存権、9条(非武装)、25条(生存権)など憲法が理念としてうたっている非武装、生存権の実現をめざすこと
・脱「日米安保体制=軍事同盟と経済同盟」への転換をめざすこと
・軍事分野の資金・資源の平和的有効活用策として、自衛隊の全面改組による非武装・地球救援隊の創設をめざすこと
特に地球救援隊の創設は、日本が率先して実行すれば、世界史に輝ける功績として記録されるに違いない。地球救援隊に衣替えした自衛隊(非武装化された状態)がノーベル平和賞の対象になることも夢ではないだろう。
▽〈愛国心=愛球心〉を育むとき(2) ― 地球市民として
新しい〈愛国心=愛球心〉は、いうまでもなく国家権力によって強要される性質のものではない。以下にみるように、むしろすでに市民や宗教家たちの自発的な努力によって育ちつつある。注目すべきは「地球市民」という言葉で、すでに1974年に登場している。地球市民とは何を含意しているのか。二つの地球規模の国際会議「宣言」を紹介する。
・世界宗教者平和会議(WCRP=World Conference of Religions for Peace、注2)第二回大会宣言(1974年)から
(注2)世界宗教者平和会議は仏教、儒教、キリスト教、ヒンズー教、イスラム教、神道など世界の諸宗教の連合体で、世界平和実現をめざす担い手となっている。5年おきの開催で、第一回大会(1970年、39カ国から約300人参加)、第八回大会(2006年、100カ国から約2000人参加。私もその一人として参加)は京都であった。
「食糧、エネルギー、その他、生存の物質的必需品を公正に分かち合うという人間の連帯感を鼓舞すること」、言い換えれば知足と簡素の日常的な実践者であること。その実践が平和につながる。こういう「地球市民」としての自覚なしには人類はもはや生き残ることは不可能だということ。逆に言えば、人類が地球上で生き残るためには「生き残るに足るほど謙虚であるか」という問いかけでもある、と。
・「9条世界宣言」(注3、08年5月)の中の〈9条と地球市民社会〉から
(注3)「日本国憲法9条を世界に広めよう」を合い言葉に08年日本で開かれた「9条世界会議」が採択した「9条世界宣言」は「地球規模の市民社会」、「地球市民社会」などの表現で地球市民に言及している。
「歴史的には、国家のみが国際関係の主体であると考えられてきた。しかし市民の運動が重要な役割を果たしてきたこともまた事実である。1990年代より地球規模の市民社会が、草の根レベルで国境をこえて団結し、人類の将来の決定に参加するようになってきた。平和、人権、民主主義、ジェンダーおよび人種の平等、環境保護、文化的な多様性などの課題について主要な役割を果たすようになってきた」
さらにつぎのようにも指摘している。
「2003年のイラク戦争に対する空前の世界的反戦運動は、地球市民社会が変革の主体としての力を明確に示したものだった。さらに今、クラスター爆弾の禁止や小型武器の管理を求める運動、核兵器の非合法化を求める運動、また地球規模の平和と経済的・社会的正義を求める運動が広がっている。いまこそ地球市民社会は、9条とその精神に着目し、その主要な原則を強化し、地球規模の平和のために生かしていこう」と。
▽ 『簡素なる国』は訴える ― ローカリズムと脱・原発の旗を立てて
上述の新しい愛国心の多様なイメージの中に次の諸点を挙げている。
・郷土と地域を地域共同体として大切に思うこと
・日本の文化とその歴史を理解し、尊重すること
・美しい山河と自然環境を守り育てること
21世紀版の新しい愛国心として地球規模の視点が欠かせないことはいうまでもないが、愛国心である以上、生まれ育ち、生涯を営む基盤である日本の国土、地域や自然環境を守り育てることも不可欠の課題である。地域や自然環境を誇りに思えないような日本では愛国心も萎(しぼ)むほかないだろう。国土、地域、自然環境をどのようにして守り育てるか。
示唆に富む手引き書として中村敦夫著『簡素なる国』の提案を紹介したい。以下の三点を訴えている。その実現の成否は、大震災と原発惨事から日本を再生できるかどうかを左右するだろう。
*ローカリズム=画一的なグローバリズムではなく、多様な文化を育むローカリズムへ
*食糧の自給自足=食糧の自給自足こそ、戦争を回避し、生活安定と健康を護る条件
*自然エネルギー=文化的生活の維持は、共同体の自然エネルギー開発で十分可能
*ローカリズムについて
都会、特に大都会は、経済至上主義という病気が産み落とした巨大な動脈瘤か、がん細胞のようなもので、そこには「幸せ」はない。幸せで心地よい環境とはどんなものか。答えは、「環境共同体」だ。
まず小都市であること。学校、病院など一応の公的機能のほかに、周囲に有機農業の田園があり、新鮮で安全な食糧が供給されること。さらに山や川があり、自然界に触れたり、景観を楽しめること。そこに住む人々が協力して自然と伝統を守ることによって、信頼と友情が生まれること。
こんな場所があるなら、人々はここで暮らし、ここで死にたいと思うはずだ。現代人の不幸は、そのようなマイタウン、ふるさと、地域共同体を失ったことにある。なぜか? それはグローバリズムという化け物が経済至上主義の旗を掲げ、一律のルールを世界中に押しつけ、地の果てからも利益を吸収し、富を独占しようとするからだ。
自然環境が破壊され、地元の中小企業や商店が潰され、農業が自立できなくなるのは、グローバリズムの看板の裏側に隠れている、あのハゲタカのような投機家たちのドス黒い強欲のためである。彼らの節操なき侵入を食い止めなければならない。グローバリズムに対抗して、ローカリズム、つまり地域主権の旗を掲げる必要がある。
*食糧の自給自足について
人類史の大きな流れからみても、工業文明の無原則な暴走の抑制、健全な農林水産業の復権が必要だ。労働者の雇用も、その分野で広げるべきだ。地域の人々が安定した生活を維持するには、食糧の自給自足、すなわち地産地消(その地域で取れたものをその地域で消費すること)が原則で、食糧さえ保証されれば、他国と戦争する必然性もなくなる。
日本のような食糧自給率40%(カロリーべース)という低水準はもってのほかで、地方自治体や地域共同体が食糧の安全確保に乗り出す必要がある。
1970年代以降、アメリカ人の健康が悪化し、肥満が5人に1人と増え、労働者の生産性にも悪影響が出てきている。これは塩、砂糖、脂肪のとりすぎによる。理想の食事として日本食が注目され、米国に和食ブームが広がるが、日本では逆に米国人並みの不健全な食事スタイルになっている。私たち日本人は米飯(和食中心)復帰に努めるべきで、そのためにはまず全国小中学校(2010年現在、約3万2000校、合計約1060万人)の給食をすべて米飯に変えていけば、日本人の食文化も回復するだろう。
*自然エネルギーについて
今注目されているのは、「再生可能」つまり無限の自然エネルギー。その御三家は風力発電、太陽光発電、バイオマス(生物資源)で、環境に負荷を与えない理想のエネルギーだ。「再生不能エネルギー」つまり資源として有限の石油、石炭、天然ガスとは異なる。
東京電力の福島原発事故が証明しているように原子力発電の管理は不可能といえる。「経済成長のためには仕方がない」は、本末転倒の論理だ。しかも膨大な予算をむさぼる「原発マフィア」と呼ばれる利権集団が、鉄の結束を固めている。費用がかかりすぎ、運用が危険なうえ、廃棄物も処理できぬ原発は放棄せざるを得ないし、その決断は早いほうがいい。
世界は「自然エネルギー」開発に向かわざるを得ない。自然エネルギーへの転換努力は、二酸化炭素(CO2)削減の必要性、「ピークオイル」(掘削石油量が減り始める分岐点)に伴う石油価格の上昇 ― などを背景に必然である。ただ自然エネルギーは地域ごとに特性が異なる資源で、それぞれの資源は巨大ではなく、国土の全域に分散し、小さいスケールで存在している。だから小さい発電所を地域の人々が設置、運営してゆくことになる。つまりこれらの事業の主役は地域住民、NPO(非営利組織)、自治体、中小企業であるべきだ。
<安原のコメント> ― 簡素、知足、共生と脱・原発と
仏教経済学のキーワードは、いのち尊重、非暴力(平和)、簡素、知足、共生、利他、多様性、持続性の八つである。大惨事をもたらした「3.11」後の日本にとって大切なキーワードは何か。あえて三つだけ選べば、簡素、知足、共生ではないか。そこから導き出される路線選択は、脱・原発である。言い直せば、簡素、知足、共生に反する貪欲と浪費と破壊の路線を突っ走る原発を拒否することである。この一点を視野の外におく日本の再生策は、画竜点睛を欠く、というほかないだろう。
<参考資料>
・中村敦夫著『簡素なる国』(講談社、2011年4月第一刷)
・安原和雄「憲法九条を<世界の宝>にしよう ― 脱<日米安保体制>をめざして」(足利工業大学研究誌『東洋文化』第二十八号、平成二十一年)
・同「世界宗教者平和会議にみる平和観 ― <平和すなわち非暴力>の視点」(駒澤大学仏教経済研究所『仏教経済研究』第三十六号、平成十九年)
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