2011年05月25日13時38分掲載
無料記事
http://www.nikkanberita.com/print.cgi?id=201105251338163
アフリカ
ベイサット全権大使来日 ポリサリオ戦線.西サハラ難民亡命政府幹部の登場 文:平田伊都子 写真:川名生十
2011年5月11日午前6時、勝己と江蘭と伊都子(筆者)の3人は羽田国際空港到着ロビーで、ポリサリオ戦線.西サハラ難民亡命政府全権大使モハンマド.ベイサットの登場を待っていた。 ベイサット大使はSJJA(サハラ.ジャパン.ジャーナリスト.アソシエーション)の招きで、初めて日本に送られる代表である。 勝己はスチール.カメラと運転、江蘭はムービー.カメラと護衛、伊都子は通訳と交渉と雑用を、それぞれ担当する。
ベイサット大使の訪日目的は、「アフリカで最後の植民地となったモロッコ占領下の故郷西サハラの現状と、西サハラ独立運動を潰そうとするモロッコの弾圧」を訴える事にある。
ところが、搭乗機JAL042の着陸ランプが点いて1時間経ち、同機の搭乗者も乗務員も殆どが出てきたのにベイサット大使は現れない。 JAL の地上職員にベイサット大使の搭乗を確認したが、規則で搭乗者名は調査できないという。 筆者は焦った。 ベイサット大使の現地出発3日前から、メールも電話も通じなくなっていたからだ。
筆者に、2年半前にポリサリオ戦線幹部から訪日をドタキャンされた苦い思い出がよみがえる。 「乗ってなかったかもしれない、、」と筆者。「エッ、マジっすか?」と二人。
◆プレスの日
JAL042が着陸して1時間半後、やっとベイサット大使が小型キャリアを転がし背広姿で出てきた。 「喫煙所はどこ?」それが彼の第一声だった。 勝己と江蘭に案内され、ベイサット大使は喫煙コーナーへダッシュした。
西サハラ難民キャンプはアルジェリア最西端の砂漠にあり、そこからアルジェリアの首都アルジェまで飛行機で2時間半、アルジェからパリまで4時間、パリから羽田まで12時間、乗り継ぎやフライト待ち時間などを入れると2日は覚悟しなければならない。
長旅を終えたベイサット大使を宿泊先のアルジェリア大使館に届けたら、午前9時を過ぎていた。
仮眠を取る間もなく、ベイサット大使には午後1時からのNHKインタヴューが待っていた。 そのNHK辻記者によるポリサリオ戦線レポートは、5月13日のBS1<きょうの世界>で放映された。
ベイサット大使の初インタヴューは背広だった。が、顔も体もバランスよくまとまっているが、背広姿の小柄なベイサット大使は日本人に溶け込んでしまう。 「西サハラ民族を主張するにはブーブーと呼ばれる白い男性用ワンピースでなければだめだ」と、筆者は民族衣装の着用を促した。 5月11日の東京は大雨だったが裾をお尻の位置でからげて、ブーブーのベイサット大使は局から局へと走り回ってくれた。
午後2時半には汐留メディアタワーにある共同通信で久下記者のインタヴューを受けた。
午後4時には朝日新聞東京本社で高橋記者のインタヴューがあった。 5月12日の朝刊では小さく写真入りで載った。 5月17日の朝刊では写真入りで大きく、2面の「ひと」コーナーでベイサット大使が紹介された。 「もう一度会いたかった」との高橋記者の伝言が、ベイサット大使の人柄と魅力を語っている。
午後8時から8時55分までは朝日ニュースター<ニュースの深層>に生出演した。
◆民主党西サハラ問題を考える議員連盟
5月12日も東京は大雨だった。 「悪いけど今日もブーブーでお願いします」と筆者が頼んだら、ベイサット大使は長い裾をヒョイッとからげて白い民族衣装で現れた。 「ブーブーは祭りや儀式以外ではあまり着ない。日本の着物と同じだ。煩わしいよね」と、ベイサット大使は本音を吐いた。
午後1時から1時間、二村伸NHK解説委員の案内で白いブーブー局内をうろついた。
午後2時30分、白いブーブーは参議院議員会館2階の議員第二会議室に登場した。
生方幸夫.西サハラ問題を考える議員連盟会長、今野東.同事務局長、首藤信彦民主党衆議院議員、姫井由美子民主党参議院議員などがベイサット大使を迎えた(敬称略)。
その席でベイサット大使は西サハラ問題を考える議員連盟に対して、(1)国連西サハラ住民投票の早期実現、(2)モロッコ占領地.西サハラでの西サハラ住民に対するモロッコ当局の人権侵害、(3)西サハラ難民亡命政府.駐日代表部の設置、(4)西サハラ難民の日本留学、(5)西サハラ独立後の天然資源開発と復興建設援助、など、たくさんの訴えをした。
「世界の80カ国以上がポリサリオ戦線西サハラ難民亡命政府を国として正式に認めている。正式承認していない米、英、仏でも西サハラ難民亡命政府の代表部を置かせてもらっている。 日本もまだ西サハラ難民亡命政府を認めていないが、是非西サハラ難民亡命政府の代表部を設置して欲しい」と、ベイサット大使は強調した。
生方幸夫会長は「8月に西サハラ難民キャンプを訪問する」と約束した。 「エッ、マジ!」と、筆者と勝己は目を合わせた。 50度以上という9月の酷暑を経験している二人にも、8月の熱暑は想像もつかない。 そのうえ、今年の8月は断食月に当たる。 断食月とは、日の出から日没まで飲食を一切断つというイスラム教修行の月を指す。
筆者に目配せをしたベイサット大使は、「どうぞお越しください。私が難民キャンプを案内します。8月は一番暑く、しかも断食の辛い時です。が、私たち西サハラ難民は35年間、そんな辛さを乗り切ってきました。国連西サハラ住民投票を経て独立を勝ち取るという目標があるからです」と、答えた。
参議院議員会館を後にして、ベイサット大使と3人の付き人は恵比寿駅前のケンタッキーに飛び込んだ。 イスラム教の掟で豚肉料理は一切駄目だから、ちょっとラーメンで腹つなぎとはいかない。 しかも喫煙のできる安いレストランと、選択肢は限られている。
午後6時半には明治学院大学國際平和研究所で、勝俣誠教授と桜井均教授が主催するミニ.セミナーに参加した。 この日も大使館に帰ったのは午後9時半だった。
◆4政党めぐり
5月13日午後1時、まず衆議院議員第二議員会館の<みんなの党>柿澤未途衆議院議員を訪問する。 白いブーブーに柿澤議員は目を見張った。 父上の故柿澤弘治元外務大臣は、1991年11月に<日本西サハラ友好議員連盟>を立ち上げた先駆者だ。
1991年4月29日、国連安保理はポリサリオ戦線難民亡命政府軍とモロッコ軍に国連西サハラ住民投票を約束し、両軍は1975年から続いていた砂漠の死闘に終止符を打った。
同年9月にはMINURSO(国連西サハラ住民投票派遣団)が組織され、日本でも<西サハラ独立かモロッコ帰属かを選ぶ>西サハラ住民投票への期待が高まっていた。 しかし、数年後にはモロッコの反対で国連投票の見通しが立たず、<友好議連>も自然消滅した。
国連投票を再稼動させることを討議していたら、突然、柿澤議員の秘書が飛び込んできて、「笠井亮先生のところから、うちも同じ1時の約束だと言ってきました!」と告げる。
「違います。あっちは2時です」と正す筆者に「笠井先生は大先輩だからすぐ行きなさい」
という柿澤議員に背を押され、白いブーブーは衆議院第二議員会館の廊下を走った。
<共産党>笠井亮衆議院議員の部屋には議員を中心に共産党國際局次長、通訳、カメラマンが揃っていて、むっとした雰囲気が漂っていた。 が、白いブーブーが登場すると空気は一変、明るく華やいだ。 「や〜よくいらっしゃいました、同志!」と、笠井議員はベイサット大使を抱きしめた。 1970年代の戦闘時代から、ポリサリオ戦線と共産党は交流があったとか、、絶えていた旧交を暖め合い、これからの連帯を約束して部屋を出た。
部屋を出ると喫煙連帯三人組は衆議院議員第二議員会館一階の喫煙ボックスに飛び込んだ。 それから4人揃って、安くて旨い議員ランチで腹ごしらえをした。
午後4時半の<自民党幹事長代理.国会対策委員長>逢沢一郎衆議院議員との面会は国会内ですることになった。 赤絨毯に白いブーブーはよく似合う。 長い裾を翻らせて、堂々の国会対策室入場、、逢沢議員が目を丸くさせたのは言うまでもない。
最後に会った<社民党党首>福島瑞穂参議院議員はすっかり白いブーブーに魅せられていたようだ。 <社会主義インター>だの<非同盟諸国会議>だの懐かしい言葉が飛び交い、会談は1時間近くに及んだ。
みよ、<白いブーブー>の威力を!
◆京都から被災地へ
5月14日午前9時30分東京発のぞみ23号で、ベイサット大使の大移動が始まった。
貧しい予算の関係上、勝己と江蘭は東京に残ってもらう。
京都大学大講義室は四方功一教授ご一家の手で、西サハラ難民キャンプの子供達の絵や写真が飾られていた。 大林稔龍谷大学教授、高橋基樹神戸大学教授、松野明久大阪大学教授、小島賢一郎NHKカメラマン、黒柳誠司NHKデイレクター、大石高典氏など、思いがけず多くの方々が参加された。 そして主催者の杉山廣行氏が2年前の事件を語った。
「2008年10月、この京都でポリサリオ戦線の幹部一人を招く講演を企画しました。ところが主賓のポリサリオ戦線幹部はドタキャンで来日せず、私達だけで集会をしました。そこへ突然、屈強なモロッコ人が十数人で押し寄せてきたのです。彼らはドタキャンを知らなかったようで、私たちは<元韓国大統領.金大中拉致事件>を連想しゾッとしました」
杉山氏の言葉を受けベイサット大使は、「西サハラ人はモロッコの地雷防御壁に分断されモロッコ占領地に約30万人、難民キャンプに約20万人。他国に住む亡命者を含むと約70万人が困難な生活をしています。占領地でのモロッコによる弾圧が問題です」と訴えた。
京都見物などせず、翌5月15日午前6時10分には伊丹空港に向かった。 午前9時30分に仙台空港着、9人乗りのミニバスを借りきり仙台駅へ、、仙台駅で地元の今野東民主党西サハラ問題を考える議員連盟事務局長、二村伸NHK解説委員、アルジェリア大使、そして江蘭と合流する。 後者3人は東京発の東北新幹線で着いたばかりだった。
石巻港近辺の津波による惨状に、アルジェリア大使もベイサット大使も言葉を失い、ただ顔を見合わせて首をふるだけだった。
石巻相川子育て支援センター避難所では阿部護避難所長と被災者の方々が、白いブーブー大使を明るく迎えてくださった。 「なぜ私が東日本大震災の被災者の皆様方に会いたかったかというと、私達西サハラ人も避難民だからです。避難生活の苦しみと悲しみを共有できると信じたからです。そしてそれ以上に、逆境を乗り切ろうとしている皆様方に学ぼうと思ったからです。こうして今日、皆様方の笑顔に出会い、その思いを強くしました」と、白いブーブーのベイサット大使は語った。
アルジェリア大使はアルジェリアと日本の国旗にアルジェリアの風景をあしらった50枚のTシャツを配った。 そして石巻の漁師さんたちにアルジェリア.ワインを約束した。
◆また会いたいね
日本で最後の5月16日、この日もベイサット大使のスケヂュールはびっしり詰まっていた。 午前11時、宿泊先のアルジェリア大使館で、アルジェリア大使も含めてベイサット大使と付き人三人は最終日の打ち合わせし、将来の計画を語り合った。
「36本のアルジェリアワインを避難所に送ったよ」と、アルジェリア大使がこともなげに言った。 「エッ、マジ!!」ベイサット大使と付き人三人は思わずアルジェリア大使の手を握った。 アルジェリア大使は「たいしたことないよ」と照れ笑いした。 アルジェリア政府からの8億円東日本大震災義捐金の話をしてくれた時も、大使は照れていた、、
アルジェリア大使はベイサット大使に往復飛行機券を作ってくれ、宿を提供してくれた。 アルジェリア大使の心の篭った援助がなかったら、ベイサット大使の訪日が悲惨なものになっていたことは間違いない。
最後の日は12時半からアルジェリア大使公邸で、南アフリカ、ナイジェリア、ジンバブエ、ウガンダと4人の駐日アフリカ大使に、生方幸夫.民主党西サハラ問題を考える議員連盟会長とベイサット大使に付き人三人を交えた<ワーキング.ランチ>で始まった。
ワーキングの成果はともかく、ランチはフランス風のフルコースにアルジェリア名物料理クスクスが付いた豪華な正餐だった。
それからホテルニューオータニでのインタヴューを二つこなし、午後6時には最後の講演会場に入った。 池田明史.東洋英和女学院大学副学長と元国連高等難民弁務官日本支部代表の滝澤三郎教授の二人によるミニセミナーは英語で行われた。 岡田克也.民主党幹事長の秘書も参加されて「岡田幹事長も西サハラ問題に関心を寄せている」と、ベイサット大使に伝えた。
午後8時半に宿舎のアルジェリア大使館でアルジェリア大使に別れを告げ、午後9時半には羽田空港に着いていた。 出発便は00時半で、午後11時半頃にチェックインすればよかったのだが、何があるか分からない、、早すぎたけど、午後10時にはチェックインを済ませ出国口に入ってもらった。
「また会いたいね」、「よかった、よかった何も事件がなくて」と付き人三人は到着ロビーで遅い夕食を取っていた。 午後10時23分、突然、筆者の携帯が鳴った。 「ベイサットはどこだ?」とフランス語で聞く。 「ここにはいない。あんた誰?」と筆者が聞くと電話を切った。 それから午後11時半まで13回にわたって、「ベイサットに会わせろ」、「ベイサットの居場所を教えろ」といった電話がかかってきて、名前を聞くと切った。
いずれも受信記録には<非通知設定>と表示されていた。 間違いなくモロッコ関係者の電話だ。
「ほんとうによかった!治外法権があるアルジェリア大使館に泊めてもらって、、早めにベイサット大使を日本から出国させて、、」と、筆者はこの原稿を書きながら胸をなでおろした。
文:平田伊都子 ジャーナリスト
写真:川名生十 カメラマン
Copyright (C) Berita unless otherwise noted.
日刊ベリタに掲載された記事を転載される場合は、有料・無料を問わず、編集部にご連絡ください。ただし、見出しとリード文につきましてはその限りでありません。
印刷媒体向けの記事配信も行っておりますので、記事を利用したい場合は事務局までご連絡下さい。