2011年06月26日09時49分掲載
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核・原子力
あえて「非現実的な夢想家」を志す 脱原発と日本変革の新時代へ向かって 安原和雄
カタルーニャ国際賞を受賞した作家、村上春樹さんの受賞スピーチのキーワードは「非現実的な夢想家」である。この表現は誤解を受けやすいが、その真意は「現実的な理想家」を意味していると受け止めたい。「国策」と「現実主義」の名のもとに強行してきた原子力発電のような理不尽なもの、納得できないことを拒むにはあえて「非現実的な夢想家」を志して、行動するのも上策といえる。生半可な理解のまま、国策と現実主義にからめ取られて後恥をかくよりもはるかに上質な生き方だろう。
今では世界的に著名となった「フクシマ」の原発惨事を境に時代は変わった。脱原発と日本変革の新時代へ向かう志の高い「非現実的な夢想家」が続出することを期待したい。
▽ 村上春樹さんの受賞スピーチから
作家の村上春樹さんは、6月9日、スペインのカタルーニャ国際賞(注)を受賞し、「非現実的な夢想家として」と題して受賞スピーチを行った。毎日新聞(6月14〜16日付夕刊)に3回にわたってスピーチ全文が掲載された。以下、その要旨を紹介する。
(注)カタルーニャ国際賞は、1989年にスペイン、カタルーニャ州政府によって設立され、世界的な平和と人権、文化、学問に貢献している者に与えられる。ノーベル平和賞受賞者、ミャンマーのアウン・サン・スー・チーさん、元アメリカ大統領のジミー・カーターさんらが受賞している。日本人では村上さんの受賞が初めて。
*「原発は効率と安全」という幻想
なぜ福島の原子力発電所のような悲惨な事態がもたらされたのか。その原因は、原発を建設した人々が、これほど大きな津波の到来を想定していなかったからだ。何百年かに一度あるかないかという大津波のために、大金を投資するのは、営利企業の歓迎するところではなかった。また原発の安全対策を管理すべき政府も、原子力政策を推進するために、その安全基準のレベルを下げていた。その過ちのために10万を超える人々が土地を捨て、生活を変えることを余儀なくされた。我々は腹を立てなくてはならない。当然のことだ。
ご存じのように我々日本人は歴史上唯一、核爆弾を投下された。広島と長崎に投下され、合わせて20万人を超す人命が失われた。死者のほとんどが非武装の一般市民だった。爆撃直後の20万の死者だけでなく、生き残った人の多くが、放射能被曝(ひばく)の症状に苦しみながら、時間をかけて亡くなっていった。
その原爆投下から66年経過した今、福島第一発電所は放射能を撒き散らし、周辺の土壌や海や空気を汚染し続けている。これは我々日本人が体験する2度目の大きな核の被害だが、今回は誰かに爆弾を落とされたわけではない。日本人自身がお膳立てをし、自らの手で過ちを犯し、自身の国土を損ない、自身の生活を破壊している。
なぜそんなことになったのか? 理由は簡単で、「効率」である。原子炉は効率が良い発電システムであると、電力会社は主張する。つまり利益が上がるシステムである。日本政府は、とくにオイルショック以降、原油供給の安定性に疑問を持ち、原子力発電を国策として推し進めるようになった。電力会社は膨大な金を宣伝費としてばらまき、メディアを買収し、原子力発電はどこまでも「安全だという幻想」を国民に植え付けてきた。
*核を使わないエネルギーの開発を
そして気がついたときには、日本の発電量の約30パーセントが原子力発電によってまかなわれるようになっていた。国民がよく知らないうちに、地震の多い狭い島国の日本が、世界で三番目に原発の多い国になっていた。
そうなるともうあと戻りはできない。既成事実がつくられてしまったわけで、原子力発電に危惧を抱く人々には「あなたは電気が足りなくてもいいんですね」という脅しのような質問が向けられる。原発に疑問を呈する人々には、「非現実的な夢想家」というレッテルが貼られていった。
我々は電力会社、政府を非難する。それは当然であり、必要なことだ。しかし同時に、我々は自らをも告発しなくてはならない。我々は被害者であると同時に、加害者でもあるのだ。そのことを厳しく見つめなおさなくてはならない。そうしないことには、またどこかで同じ失敗が繰り返されるだろう。
我々は技術力を結集し、持てる叡智を結集し、社会資本を注ぎ込み、原子力発電に代わる有効なエネルギー開発を、国家レベルで追求すべきだった。たとえ世界中が「原子力ほど効率の良いエネルギーはない。それを使わない日本人は馬鹿だ」とあざ笑ったとしても、我々は原爆体験によって植え付けられた、核に対するアレルギーを、妥協することなく持ち続けるべきだった。核を使わないエネルギーの開発を、日本の戦後の歩みの、中心命題に据えるべきだった。
しかし急速な経済発展の途上で、「効率」という安易な基準に流され、その大事な道筋を我々は見失ってしまった。
我々は夢を見ることを恐れてはならない。そして我々の足取りを、「効率」や「便宜」という名前を持つ災厄の犬たちに追いつかせてはならない。我々は力強い足取りで前に進んでいく「非現実的な夢想家」でなくてはならない。
▽ 受賞スピーチをめぐるインターネット上の意見
インターネット上では受賞スピーチについて肯定的な賛成意見と並んで、批判的な意見や疑問も少なくない。例えば以下のようである。
*村上さんは本気だ
村上さんが比喩などを用いず、ここまで力強く直接的に発言するのは珍しい。それだけ本気なのだと思う。スピーチ全文読んで、今回の大規模な放射能汚染に対する我々の責任をはっきり言葉にしてもらったように思えた。放射能汚染は私達の引き起こした事だ。
村上さんへの否定的な意見は、どれも取って付けた感がある。彼のスピーチをちゃんと読んでいないのではないか。
*効率を捨てられるか
「効率」だけを求めて生きてきたから、このような事故を引き起こしてしまったんだろうか。たとえそうであっても僕らは簡単に「効率」を捨てることができるのか。
*非現実的な夢想家?
「非現実的な夢想家」だなんて、ひどく無責任な立場だな。自分たちは何もできないと宣言しているようなものだ。
<安原の感想> 「非現実的な夢想家」は実は「現実的な理想家」
インターネット上に乱舞している多様な意見(いずれも匿名)を読んでみて、人それぞれで、勉強にはなった。ただわたし自身は村上さんのスピーチを高く評価する立場である。だから上記の意見のうち「大規模な放射能汚染に対する我々の責任」、「放射能汚染は私達の引き起こした事だ」などは重く受け止めたいと考えている。
「効率を捨てられるか」という疑問については、「効率」と「安全・いのち」の二者択一を迫られた場合、どうするかである。効率を優先して「安全・いのち」を壊しているのが現実の日本社会で、これはおかしい。原発はその典型といえる。やはり効率を犠牲にするほかない。ただし効率すべてを否定することはできない。効率だけに視野を限れば、「良い効率」、「悪い効率」があるわけで、「良い効率」が求められのは当然である。
問題は「非現実的な夢想家」をどう捉えるかである。その真意は反語的用法で「現実的な理想家」と読み取りたい。原発推進派は、原発を疑問視する人々を「非現実的な夢想家」というレッテルを貼って排除した。だから村上さんはそれに抵抗する心情として自らを「非現実的な夢想家」と称したわけで、私(安原)はそういう理解に立ってこの記事全体の見出しを<あえて「非現実的な夢想家」を志す>とした。末尾の<我々は力強い足取りで前に進んでいく「非現実的な夢想家」でなくてはならない>という村上さんの言葉は、まさに「現実的な理想家」への「力強い志」として受け止めたい。
▽ 我々は被害者であり、加害者でもある
受賞スピーチに次の一節がある。
「我々は電力会社、政府を非難する。それは当然であり、必要なことだ。しかし同時に、我々は自らをも告発しなくてはならない。我々は被害者であると同時に、加害者でもあるのだ。そのことを厳しく見つめなおさなくてはならない」と。
被害者であることは容易に理解できるが、「加害者でもある」とは、どういう含意なのか。受賞スピーチは別の箇所でこうも述べている。
「電力会社は膨大な金を宣伝費としてばらまき、メディアを買収し、原子力発電はどこまでも安全だという幻想を国民に植え付けてきた」と。つまり世にいう「安全神話」に依存して、原発を肯定し、ばらまかれた交付金(電源三法交付金)という名の金銭と引き換えに原発推進に加担してきた、その加害者責任である。地域内外の不特定多数者に被害を与えつつあるのだから、加害者責任は決して小さくない。
加害者責任について毎日新聞「記者の目」(6月21日付、和歌山支局・山下貴史記者)が「だまされた国民の責任も問う 原発を拒否した町が教えること」の見出しで論じている。和歌山県漁港の町で関西電力が1988年漁業補償金など約7億円を提示、関係者の兄弟、親戚で賛否が分かれ、人間関係も引き裂かれた。しかし反対運動によって原発誘致を拒否した。「記者の目」の<「危険な原発はいらない」。理由は素朴であり。明快だ>という指摘が印象に残る。「国民すべてがだまされたわけではない。しかしだまされた人々にはそれなりの責任がある」と言いたいのだろう。
もちろん加害者責任の大部分は、原発推進派の主役・「政官財」に加えて、多くの研究者、技術者、メディアからなる「原発推進複合体」が負うべきである。そうでなければ不公正であり、巨悪と小悪の見境がなくなる。特に「政」のうち原発を導入・推進してきた自民党の責任は重大である。にもかかわらず自己反省のないまま、現政権党への批判として感情的な言辞を投げつける自民党幹部の姿は醜悪というほかない。
*「安全信じていた」が66%も
地元の多くの人が安全神話を信じていたという調査結果がある。朝日新聞と福島大学・今井照研究室が実施した原発事故による避難住民への共同調査で、それによると、「震災前、原発の安全性についてどう考えていたか」との問いに、「安全」「ある程度安全」と答えた人は計66%もある。一方、原発が地域経済に「役立っていた」と答えた人は「ある程度」も含めて75%だった。ある飲食店主(62)は「原発があったから、過疎にならなかった」と語る。
「今後、日本の原発をどうすべきか」については「減らす」38%、「やめる」32%で、「増やす」「現状維持」の計30%を大きく上回った。(6月24日付朝日新聞)
<安原の感想> ドイツ風の英知と決断と
上記の調査結果について驚くのは、「今後の原発をどうするか」に「増やす」「現状維持」が今なお計30%もあるという事実である。明治維新後30年経過してもなおかつチョンマゲを捨てられなかった旧武士が少なくなかったという話を連想する。時代の変化に即応していく意識改革がいかに難しいかを考えさせられる。
しかし時代は明らかに変わった。脱原発が新しい時代の潮流である。脱原発とともに新時代にふさわしい日本の変革を前へ進めなければならない。メルケル・ドイツ首相は6月上旬、原発全廃(2022年までに全廃)を進めるための法案を連邦議会に提出し、こう演説した。「フクシマは原子力に対する私の見解を変えた」と。
フクシマの失敗と悲劇に学び、それまでの原発稼働の延長策から原発全廃策へとエネルギー政策を180度転換したのだ。肝心のわが国政権は自国の失敗と悲劇に学ぼうともしないで、原発継続に執着している。ドイツ風の英知と決断に比べいかにも対照的とはいえないか。
*本稿は「安原和雄の仏教経済塾」からの転載です。
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