2011年07月05日23時26分掲載  無料記事
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ナイジェリアの警察当局が、人身売買するための子どもを少女に産ませようとしていたニュースを読んで

 asahi_apitalの記事で、 ナイジェリアの警察当局が、人身売買するための子どもを少女に産ませようとしていた病院経営の男を南部アバで逮捕し、32人の妊娠した少女を保護、この手の病院は「赤ちゃん工場」と呼ばれている、というニュースを読んだ。あまりのことに、言葉を失う。(川北かおり=ニューズマグ) 
 
 母体は機械じゃないし、赤ちゃんも商品じゃない、そういう怒りと悲しみがこみ上げるとともに、自分だったら、と思うと恐怖で震えた。 
 
 「もう、こんな世界に何の希望や美しい未来があるだろう?もう、この世界には絶望するしかないのか」ツイッターに「絶望した」とつぶやいたあと、ハッとした。 
 
 「それを、知ったから絶望したの?だけど、あなたは知らなくても、『これ』はずっと行われてきたことなんだよ」 
 
 そんな声が聞こえたような気がした。 
 
 わたしたちは毎日、自分の生活をなんとか「回転させ続けることに」かかりっきりになっている。 
 
 そうしている間にも、世界では、きっと数多くのさまざまな「絶望的な出来事」があちこちで繰り返されているだろう。 
 
 遠く離れたナイジェリアだけではない。 
 
 この日本でも。 
 
 岡山で障害のある子どもを虐待死させた母親が逮捕された事件があった。幼い子どもや障害のある子どもを虐待したり、遺棄したりする悲惨な事件があるたびに、マスコミや世間にはその親、特に母親に対して処罰的な意見があふれる。わたしも、あまりにひどい事件に接すると、子どもは死亡しているのに、加害者である親が懲役2年とかだと、どうして、と憤慨することもある。 
 
 けれど、わたし「たち」が他罰的になること、それが果たして何の意味を持つのか? 
 
 必要なことは、何よりも自ら助けてを求める術をもたない子どもの命を守ることではないのか。 
 
 ひどい親はもちろん許しがたい。けれど、それは、単にこんな悲惨な出来事を知ってしまい、「絶望感」を味あわされたことへの怒りをすりかえているに過ぎないように思う。 
 
 子どもの命を守る、社会を構成するオトナ全員が自分の子どもであるのと同様の愛情と責任をもって「守る」。 
 
 さまざまな事情を抱えて育児に苦しんだり、悩んだり、その果てに放棄しそうになる親を守り、支援することと、子どもの命を守ることとは、決して矛盾しない。 
 
 むしろ、二度とこのようなことを起こさないために親を厳罰に処すべき、と望む気持ちの中に、「知らなければよかった」と自分自身が悲しみ、「知らされたくなかった」という怒りに任せて、現場にいた人物を処罰することで自分の受けた心の痛みを解消させたい「知らなければよかった(知りたくなかった)」側の都合が隠されてはいないかこそ、問い直すべきだろう。 
 
 その上で、もう一度ナイジェリアの事件を「絶望」する気持ちを抑えて冷静に想像してみる。 
 
 「レイプ」(とあえて言う)された少女がいまここに生きていることに感謝する。そして「そのような経緯によって」生まれた命の尊さを想い、一人ひとりの命を祝福する。どんな人生も等しく価値があるし、等しく美しいと改めて思う。 
 
 彼女らのこれからの困難が少しでも軽減できるように、わたしにできることはないか、そっと遠くから考える。 
 
 そして、「知らなかった」ことが、実は世界のいたるところで存在するだろうことを想像し、知らなかったからこそ、「知ろう」としなければならないのだと改めて思う。 
 
 たとえば、臓器を売るという立て札を持って立つ海外の男性の写真。 
 
 あるいは、「卵子ドナー募集!社会貢献しませんか。指名されたら100万円。」というネットの書き込みや、臓器提供にサインをするなら尊厳死を認めたらどうか、あるいは、自殺者や死刑囚の臓器は移植を前提に、などのネット上のやりとり。 
 
 自分という存在の一部をまるで機械の部品のように「切り売りして」生き延びることが身近な選択肢になったのは、臓器までも「リサイクル可能なモノ」としてみなす社会が存在するからだ。 
 
 臓器までもお金に換算されるという行過ぎた資本主義経済が生んだ「格差」や「貧困」の問題に目を向けず、臓器移植を社会貢献という言い方で美しくみせかけているのが、わたしの生きる社会であり、自殺者を「自殺に追い込む」社会の側面や死刑の是非を考えず、ただ「利用可能な臓器」としてしか見ないのもわたしの生きる社会なのだ。 
 
 岡山の事件も、ナイジェリアの事件も、そして今の日本でおこっている津波や原発をめぐる問題も、わたし自身が属する社会の一部で起こっていることであり、世界で起こる「知らなければよかった」悲惨な出来事の当事者もまた私が生きる日常の延長上の存在。たとえそれがずっと遠い国の見知らぬ人だとしても。 
 
 「知りたくなかった」悲惨な出来事を知らされたショックを絶望と呼び、思考を停止させたり、怒りに転じ、社会の仕組みに追い詰められたのかも知れない当事者を単なる加害者として罰しただけでは、世界のあちこちにあるはずの見知らぬ「絶望」は解消されないし、今後も絶望を増産し続けるだろう。 
 
 知らなければよかった、のではなく、知らねばならないし、泣き叫ぶ子どもの声、怒鳴る親の声が聞こえなかったのではなく、聞こうとしなければならないのだ。 
 
 悲しんだり怒ったりするだけでは解決しない。だけど、世界がつながっているなら、わたしの生き方が変わればきっと少しは何かが変わるだろう。そう信じて自分が正しいと思うことをやったり、正しいと思うことをやっている人を応援したりしながら生き進めるしかない。 
 
 それはいつか本当に、社会全体が絶望するしかない日を迎えないための、ただひとつの「生き延びる方法」のような気がする。 (ニュースサイト「ニューズマグ」より転載。) 


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