2011年07月20日03時39分掲載
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中南米
アジェンデ大統領の遺体を掘り起こす
スペインの新聞エル・パイス(El Pais)紙によれば1973年9月11日にチリで起きたクーデターで、モネダ宮で処刑されたとも考えられていたサルバドール・アジェンデ大統領だが実は自殺していたことが新たに行われた遺体の調査でわかった。
http://www.elpais.com/articulo/internacional/Salvador/Allende/suicido/informe/forense/elpepuint/20110719elpepuint_8/Tes
今回、検死が行われることになったのはこれまで自殺したという説と処刑されたという説が併存していたことによる。処刑されたとする説の根拠は大統領の遺体には二発の弾が見られたとする説である。もしそうなら、クーデター軍によって殺された可能性か、あるいはアジェンデ大統領が自殺に失敗したときに誰かが二発目を発射して自殺を手助けした可能性があった。
このたび遺体の検死を行った専門家は12人である。その一人でスペイン人の検死医はアジェンデ大統領が顎の下から銃を発射し、その弾丸が頭を砕いて大統領の即死につながったことを確認した。弾痕は1か所だけだったのだ。これで自殺であったことが確認された。
かつて、アジェンデ大統領の侍医の一人だったオスカル・ソト・グスマン(OscalSoto Guzman)氏は1998年に「アジェンデ最期の日」を出版しており、その中で資料を記載した上でアジェンデ大統領が自殺を遂げたことを記している。グスマン医師は1973年9月11日にモネダ宮に居合わせたが、銃声の後に駆け付けた時すでに大統領はこと切れていた。今回の検死結果はグスマン医師が唱えていた自殺説を裏付けた形になった。
検死結果はアジェンデ大統領の娘で上院議員のイサベル・アジェンデさんによってサンチアゴで公表された。
ウィキペディアによれば、国民投票を前にした9月11日、ピノチェット将軍は陸海空軍とカラビネーロス(チリの警察軍)を率いて大統領官邸を攻撃した。アジェンデ大統領は砲弾の飛び交う中、最後のラジオ演説を行った。その後、命を絶つことになったが、殺害されたという説と、自殺したという説とに分かれていた。ラテンアメリカの人々にとって「9・11」とは同時多発テロではなく、チリ・クーデターを意味するとも言われている。
■アジェンデ大統領の娘
Maria Isabel Allende Bussi(1945−)
ウィキペディアによればチリ社会党の上院議員をつとめる。クーデターで父を失ったのち、母と二人の姉妹とともにキューバに渡り、のちにメキシコに移った。チリに戻ったのは軍事独裁制が終わりを告げる1989年である。
http://es.wikipedia.org/wiki/Isabel_Allende_Bussi
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