2011年08月06日15時00分掲載  無料記事
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検証・メディア

メディアが試されている 無視できぬ3・11後の市民の不信感 藤田博司

  3・11以降、ニュース報道に対する市民の不信がこれまでになく高まっているような気がする。筆者地元の生涯教育の教室に集まった人々との議論でも、近所のテニス仲間とひと汗かいたあと交わす会話でも、だれからともなく新聞やテレビの報道のありように対する不満、疑問が次々とぶちまけられる。新聞の投書欄にも同じような不信のうねりがうかがえる。 
 
 不信の度合いを数値にして表すことはできないが、その強さは並大抵ではない。報道する側の言い訳や反論などとうてい許さないほどの厳しさがある。市民の間のそうした不信感の高まりを、報道に携わる人たちがどれほど身にしみて感じているか、はなはだ心もとない。 
 
 ▽事故報道と政局報道 
 不信の背景には、大きく括ると二つの要因があるように思われる。一つは福島第一原発事故をめぐる報道のありよう、もう一つは菅・民主党政権の事故への対応をめぐる政局に関わる報道のありようだ。地震と大津波の震災報道では、テレビも新聞もそれなりに期待される役割を果たしたと評価されていただけに、一方のマイナス評価がかえって際立って見える。 
 
 原発事故報道に対する最も厳しい批判の一つは、事故の状況や経過をめぐる情報がもっぱら政府と東京電力の発表だけに依存した「大本営発表報道」ではないか、という指摘だ。事故現場に取材に入ることができず、独自に入手できるデータも乏しいメディア側は、政府と東電の提供する情報に頼らざるをえなかった。その結果、少なくとも初期の報道が新聞もテレビも横並びで、当局発表の垂れ流しという印象を与えたことは否めない。 
 
政府・東電側の情報開示には当初から疑いがもたれていた。必要な情報やデータが隠されているのではないかとの不信がつきまとった。現にその後、情報の公表の遅れや不適切な開示が次々と明らかになった。事故発生当初から疑われていた炉心溶融の事実を東電が認めたのは、事故から2カ月も経ってからのことだった。 
 
▽メディアが避けた現場取材 
「大本営発表報道」と表裏の関係で指摘されるのが「現場報道の不在」だ。福島第一原発では3月12日から15日までに三つの原子炉建屋で爆発が起き、原発周辺地域10キロ圏内、次いで20キロ圏内の住民に避難勧告が出された。その後も検出された放射線の数値に基づいて、20キロ圏外にも立ち入り制限の措置がとられ、4月22日以降は20キロ圏内に立ち入りが禁止された。 
 
 新聞、テレビ各社は当局の避難勧告とともに、これらの地域から完全に取材記者を引き揚げた。その後、原発の周辺30キロないし50キロ圏内には立ち入らないという指針を各社ごとに設け、原発周辺での取材を自主規制しているという。 
 
 この間、フリーランスの記者による現場取材や、一部のメディア(共同通信、NHKなど)の記者が例外的に現地入りして取材を試みたケースはあった。しかしさまざまな理由から、大津波と原発事故で大きな被害を受けたはずの原発周辺部の状況を持続的に伝えた報道はいまだにない。 
 
 また、事故への対応のため、連日連夜、大勢の人たちが作業をしている原発敷地内の状況も、東電の発表以外にメディアが伝える情報はない。劣悪と言われる作業環境などについても、交代などのため制限区域外に出てきた作業員から得た断片的な情報以外にない。 
 
 原発事故の実相を正確に、速やかに伝えるには、メディアとしては可能な限り現場に近づき、取材しなければなるまい。それをせずに、現場を遠巻きにして政府や東電の提供する一方的な情報に基づいて報道するだけでは、メディアとしての役割を果たしているとはとうてい言えない。 
 
 各社が現場取材を避けている最大の理由は、社員の安全管理のためとされている。記者やカメラマンに放射能汚染のリスクを負わせることを避けるためらしい。しかし原発敷地内では多数の作業員が現に働いている。記者も十分な防護装備を付けて一定時間、現場を取材することにそれほど大きなリスクがあるとは思えない。現場取材に及び腰のいまのメディアは、当局の立ち入り制限を「安全第一主義」の隠れ蓑にしているのではないかとさえ勘ぐりたくなる。 
 
▽政治家の言動ばかり 
 もう一つの不信の原因である政局報道は、菅降ろし騒動に明け暮れる政治への不信のあおりでもある。菅降ろしを声高に叫ぶ与野党の政治家は、震災対応の遅れをはじめとして菅政権のあらゆる失敗、不作為をすべて菅首相個人の責任に押し付けようとしている。しかし、首相を交代させて誰が次の政権を担当するのか、その政権が菅政権に代わってどのような、よりよい政策を実現しようとしているのか、次のステップの具体的なビジョンを誰も明らかにしていない。 
 
 3・11以後の日本の政治にとって、今後のエネルギー政策をどうするか、既存の原発を長期的にどう処理するのかは最重要課題であるはずだ。が、菅降ろしを叫ぶ政治家たちは誰もその問題を議論しようとさえしていない。彼らにとっての関心事は、菅首相がいつ辞任するか、だけらしい。 
 
 問題は、報道する側の関心がこれらの政治家と同じレベルでとどまっていることだ。自分のことを棚に上げ、他人をうそつきだのペテン師だのと言い募るような政治家の言動の上っ面を、右から左に伝えてすませていることだ。菅降ろしの動きの裏に何があるのか、菅首相を引きずり降ろしたあとに何が控えているのか、次の政権は原発政策をはじめ今後のエネルギー政策をどの方向に持っていこうとしているのか―そういった点を掘り下げて伝える努力が、ニュースの中身にまったく感じ取れないことだ。 
 
 政治家の誰彼がああ言ったこう言ったという表面的な事実を並べただけの報道は、政治報道の名に値しない。ハラに一物も二物もある政治家の言葉の裏に立ち入って真意をあぶりださなければ、報道することの意味はない。市民が期待するのは、もっと政治の流れの本質に迫るニュースだ。 
 
 ▽厳しい自己検証を 
 メディア不信は何も最近に始まったことではない。不信を抱かれるようなメディアの振る舞いはこれまでにも幾度も繰り返されてきた。しかし原発事故という日本の土台を揺るがすような事態に直面して、メディアもこれまでにない試練に立たされているように思われる。 
 
 メディアが試されているのは、そのジャーナリズム活動のよりどころとしているものがどこまで本物か、という点だ。公共への奉仕を目的とするジャーナリズムは、誠実さ、公正さ、それに独立の気概を欠いては市民の信頼は得られない。3・11後の報道活動にそうしたジャーナリズムの価値が十分体現されているのかどうか、が問われているのではないか。 
 
 「大本営発表報道」も「現場報道の不在」も、過去のメディアの失敗や不祥事からとりわけ大きくはみ出しているわけではない。菅降ろしの政局報道にしても、これまでの政治報道の延長線上にあるに過ぎない。しかし未曾有の原発事故への対応に日本の将来がかかっているときに、メディアがこれまで通りのその場しのぎで批判をかわせると考えるなら、大きな過ちを犯すことになる 
 
 これまで事実上、国の原発政策を支持し、あるいは容認してきたメディアは、その報道のありようを検証しあらためてこの問題での立場を明らかにしなければなるまい。3・11以降の原発報道はもとより、それに絡む政局報道についても、これまでとは違った厳しさで自己検証することが求められる。 
 
 自分たちの報道活動が真に公共の利益にかなっているか、市民の期待に応える役割を果たしているか、真剣に見直し正直な答えを見出してほしい。 
 
*本稿は新聞通信調査会発行の『メディア展望』2011年8月号に掲載された「メディア談話室」の転載です。 


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