2011年08月17日12時43分掲載
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文化
【核を詠う】(2) 鼻梁削がれし友もわが手に起きあがる街のほろびを見とどけむため(竹山広『悶絶の街』から) 山崎芳彦
竹山広さんの歌集『とこしへの川』(1981年8月刊,雁書館)は竹山さんの第一歌集だが、61歳にして初めてまとまった歌集が世に出たことになる。竹山さんは16歳の頃に石川啄木を知り短歌に関心を寄せ、21歳には短歌結社に所属したり同人誌を同好の友人と出すなど、早くから作歌していた。25歳の1945年に長崎市浦上台一病院に入院中に原爆に被爆し5日間死者、負傷者の群がる惨憺たる状態の中をさまよい、上半身火傷の兄を看取り、翌日田平町の生家に帰った。そして、すぐに歌を作ろうとしたが被爆死した人々、傷つき苦しむ人々一人ひとりの顔が浮かび、夜も眠ることが出来ず、詠うことができず、以後十年沈黙せざるを得なかったという。
35歳には多量の喀血により入院ストレプトマイシンなどの新薬により死を免れ、その年から作歌を再開し、かつて夢に脅かされ作り得なかった原爆詠を作ったという。それが『とこしへの川』冒頭の「悶絶の街」一連の作品だったと竹山さん自身が書いている。(角川書店発行月刊歌誌『短歌』平成18年8月号) その後、名刺印刷の店を開くなどしたが生活の困窮もあって再び作歌を中断する期間が長くあったが、その間に「長崎の証言の会」に参加して記憶に蘇る被爆時の惨状を歌に書き残すこともした。
こうした被爆後の苦難の時期を経て『とこしへの川』が発行された。この歌集には昭和30年から55年に至る25年間に詠んだ作品から495首が収められている。竹山さんはこの歌集の「あとがき」で「敗戦直後から昭和39年春までの19年間を、・・・原爆に生きのびた代償のやうにつきまとふ病魔と貧困に苦しみながら過した。集の前半「海に向く日日」と題する250種は、原爆体験そのものを歌った冒頭の「悶絶の街」のほかは、おほむねその間のはかない繰言である。」と述べ、さらに「後半の「薄明の坂」245首は・・・原爆を主題にした作品が多く含まれている。」としている。
歌集名の「とこしへの川」は・・・忘れられゆくあの日の死者たちへの鎮魂の祈りをこめてのことである。」としている。集中の一首「くろぐろと水満ち水にうち合へる死者満ちてわがとこしへの川」の結句からとられた。
「悶絶の街」の中の作品をいくつか抽いてみたいが、竹山さんが原爆体験をどのように詠っているか、作品を一つ作るたびに原体験をもういちど、さらにつよく重ねつつ作品化していると思うのである。記憶ではなく作品化そのものが原体験なのではないか。
なにものの重みつくばひし背にささへ塞がれし息必死に吸ひぬ
血だるまとなりて縋りつく看護婦を曳きずり走る暗き廊下を
鼻梁削がれし友もわが手に起きあがる街のほろびを見とどけむため
傷軽きを頼られてこころ慄ふのみ松山燃ゆ山里燃ゆ浦上天主堂燃ゆ
暗がりに水求め来て生けるともなき肉塊を踏みておどろく
水を乞ひてにじり寄りざまそのいのち尽きむとぞする闇の中の声
たづねたづねて夕暮れとなる山のなか皮膚なき兄の顔にまぢかく
ふさがりし瞼もろ手におしひらき弟われをしげしげと見き
呻き声やむいくたびかかたはらの闇にうつ伏せの兄をさぐりつ
まぶた閉ざしやりたる兄をかたはらに兄が残しし粥をすすりき
パンツ一枚着しのみの兄よ炎天に火立ちひびきて燃え給ふなり
迫る火をのがれて川をめざしけむ思ひ遂げたる死屍かさなれり
水のへに到り得し手をうち重ねいづれが先に死にし母と子
橋下に死してひしめくひとりひとり面おこし見てうち捨てゆき
つ
夜に入りてなほ亡骸を焼くほのほ遁れしものを呪ふごとくに
夢にさへわれは声あぐ水呼ばふかばねの群に追ひつめられて
燃ゆるものは燃えて残りしみづからのかたちに低く丘昏みゆく
(「悶絶の街」56首のうち17首)
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