2011年08月26日01時59分掲載
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コラム
語学に再挑戦 5 村上良太
自分のような半端もんが語学について語っていいのだろうか。だが、語学の専門家でないからこそ書けることもあると思うのである。ところで、パリで知り合った著述家、パスカル・バレジカさんのコラム「フランスからの手紙」を断続的に翻訳しているが、この間で23回を数えた。
恥ずかしい話なのだが、バレジカさんのつづり、Varejkaが本当に「バレジカ」の表記でいいのかどうか、確信がなかった。バレジカさんはチェコ系フランス人である。名字はフランス人にあまり見かけないつづりである。特に j が曲者である。バレジカさんとパリで会って飯を食ったり、話をしたりしたが「バレジカさん」と名字で呼んだ記憶が一度もない。いつもvous = あなたと人称代名詞で呼んでいたのだ。ただ、バレジカさんを紹介してくださったフランス人はバレジカと発音していた記憶があった。
翻訳も20回近くなった頃、ふと本当にこの発音でよかったのだろうか?・・・・という思いが募ってきた。そこでバレジカさんにメールで読み方の発音記号を示していただくことにした。すると、驚いたことに送られてきた発音記号では「バレイカ」とあるではないか。もしバレイカなら、全部名前を書き変えないといけないな、と思った。念のため、遠距離電話で「今更なんですけど、念のためにあなたの名字を発音していただけませんか?」とお願いした。電話なのではっきり聞き取れない。合計3回発音していただいたが、バレイカに近い発音だった。あぁ、間違っていたのか!しかし、バレジカさんはこう付け加えた。
「バレイカはチェコでの読み方で、フランスではバレジカと読むから、バレジカでも全然かまわないのだ」
ということで、その言葉に甘えてパスカル・バレジカのままにしてあるが、パスカル・バレイカという表記もある。そういえば、後で気づいたことだがチェコの作家ヤロスラフ・ハシェクの小説「兵士シュベイクの冒険」は英語表記では’Good Soldier Svejk’となっていた。ここにもあの「j」があるが、表記では「イ」なのである。
バレジカさんは著述家だが、イタリア語と英語の翻訳家でもあり、翻訳で困りそうな箇所をよく理解してくださる。僕が困りそうな言葉などにはあらかじめウィキペディアなどの日本語の訳語をコピーして付してくださったりするのである。名前の表記一つとっても難しい。
このように素人の翻訳は毎回冷や汗ものだが、語学の専門家のレベルを考えるうえで貴重な体験をしたことがある。2001年、ブレヒト戯曲全集を翻訳した功績で、演出家の岩淵達治氏がドイツ政府からレッシング賞を受賞された。その頃、僕は岩淵さんを取材しており、東京のドイツ文化会館で開かれた授賞式に招待していただいた。
レッシング賞はその前年度のドイツ書の優れた翻訳に与えられる賞である。正式にはレッシング・ドイツ連邦共和国翻訳賞である。会場には錚々たるドイツ語の専門家が集まっていた。賞を授与する側として、一人のドイツ人女性が講評に立った。この人はイルメラ・日地谷−キルシュネライトという名前で、相当に著名な教授なのである。
キルシュネライトさんは翻訳書を次から次に取り出しては、誤訳を指摘していった。「これなどは辞書を引いたらすぐにわかることです」など手厳しい。叱られているのは学生ではない。その道のプロである。「恐ろしや」と思った。講評を受けている先生たちはどんな思いで聞いていたのだろうか。
レッシング賞はドイツ政府が出している賞である。こうしてドイツ語の翻訳者たちを常に鞭打ち、同時に賞を与え、ドイツ書の翻訳レベルの向上を図っているのである。語学は厳しく終わりがない。そう思うと同時に、一方で僕の中に大きな解放感があった。それは語学のプロも誤訳をしてしまう、と知ったことである。この認識は僕に翻訳にチャレンジする勇気を与えてくれた。
ところでかくも厳しいドイツ女性知識人であるが、岩淵達治氏が翻訳した「ブレヒト戯曲全集」だけは「見事な訳」、「完璧」と確かに言ったのをこの耳で聞いた。岩淵達治氏の名誉のために付け加えておきたい。
■岩淵達治訳「ブレヒト戯曲全集」(全8巻、未来社)
ブレヒト生誕100年を記念して刊行を開始した。岩淵達治氏の個人訳である。
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