2011年09月04日15時48分掲載
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コラム
地デジ難民 テレビの思い出 村上良太
テレビを懐かしく思い出す。面白かった番組は無数にある。でも1本だけ選ぶとしたら、昭和52年12月に放送された「世界オープンタッグ選手権」だ。東京・蔵前国技館で行われたドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンク 対 ブッチャー&シークのプロレスのタッグマッチである。
ご存知の方が多いだろうが、ブッチャーとシークは悪役として名高いレスラーの2人組である。色が浅黒く、太ったアブドーラ・ザ・ブッチャーは場外乱闘と流血を常とするため、彼自身の額も傷だらけだ。この日の試合では、テリー・ファンクはブッチャーにフォークで腕を突き刺され、おまけに首を絞められた。テリーが首を絞められている、その間が永遠のように長かった。テリー・ファンクは本当に死ぬんじゃないか、と恐ろしくなった。今、そこで殺人を見ているかの興奮を覚え、動悸がした。後に様々な国の政変や戦争の映像を見たが、この試合以上に興奮したものはない。
この感覚は多分、原始的なものなのだろう。今もある国々では公開処刑が行われているが、地元住民にとっては興奮する行事なのではなかろうか。かつてフランスではギロチンによる公開死刑が最高の娯楽だったという。人間がそこで殺されるのを見ることは人間にとって最大の楽しみだったのである。僕はテリー・ファンクが殺されるのを見たかったわけではないが、たまたま見てしまったこのシーンは忘れがたいものとして残っている。
これで思い出すのは中国の作家、魯迅(1881-1936)のエピソードである。魯迅は仙台の医学校に留学していたが、そこで医学から文学に道を替えている。そのきっかけとなったのは学友から見せられた1枚の写真だった。日本軍の兵士が日本刀で今しも中国人の首を切ろうとしている写真だった。魯迅が衝撃を受けたのは日本兵の行為ではなく、同朋が殺されようとするのを見に集まった中国人たちだった。彼らはへらへらと笑みを浮かべていたという。魯迅はこの時、医学をやっている場合ではない、中国人に必要なのは精神の革命だと考えた、とエッセイで語っている。
こうした観衆の感覚の延長線上に、殺人や戦争を見るという行為の悦楽があるのではないかと思う。ことは中国人に限らない。古代ローマ帝国の剣闘士の時代から他人が殺されるシーンは最高の見ものだった。だから、そうした映像がテレビで放送されれば当然ながら視聴率が上がる。
それゆえ、戦争が起きると放送業界は活気づく。イラク戦争でも、戦争になるかならないかの時点ではあまり報道されなかったが、一旦戦闘が始まったら堰を切ったように悲惨な映像が次々と放送された。それらは「絵になる」、とこの業界で言われる。しかし、その時点ではすでに救いはない。
こうした惨事も、一朝一夕に起きるわけではない。新聞を見れば、最初は小さなベタ記事だったものが、2年、3年とたつうちに癌細胞のように大きくなる。小さなうちにそれが意味することをきちんと報じ、原因を分析し、正しく対処していれば数年後の惨事は食い止められるかもしれない。しかし、テレビ的に「絵になる」時と言うのは、柿の実が赤く熟したような時である。熟していない段階では「絵にならない」。だから、実が熟して食べごろになるまで待とう、というのである。良心的なプロデューサーでも、そうである。青い実の段階で市場(放送局)に出しても、買い手がいないのだ。
思えば20世紀はドキュメンタリーの時代だった。戦争と革命と科学技術が飛躍的に発展した時代だった。科学技術の発展は戦争や公害の被害者の数を桁違いに増やした。そのため、広島と長崎の被爆者や水俣病患者の記録など、20世紀はドキュメンタリーの名作が目白押しである。しかし、一歩引いてみると、それらの名作は悲惨な目にあった人々のビジュアル的商品力を媒介にした作品とも言える。もし、そうした惨禍を未然に防ぐことができたなら、泣かせる名作などはいらないのではないか。
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