2011年10月08日00時32分掲載
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核・原子力
【たんぽぽ舎発】JCO事故から12年 国も東電も何も学んでなかった
茨城県東海村の核燃料加工会社ジェー・シー・オー(JCO)で一九九九年、作業員二人が死亡した国内初の臨界事故から十二年となる9月30日、各地で犠牲者への追悼や抗議の意を表す集会が催された。福島第一原発の放射能漏れが今もとまらないなか、参加者たちは政府や原発事業者らが事故の悲劇から何も学んでいない現実を改めて認識していた。(たんぽぽ舎「地震と原発事故情報」194号)
◆人に冷たく無能な国で原発をもつべきでない−東海村・村上村長
三十日、同村役場で毎年恒例の朝礼があり、百人以上の職員が黙とうをささげた。村上達也村長は訓話で、「もう十二年前のような経験はないと思っていたが、最悪の福島第一原発事故が起きた。人に冷たく無能な国で原発を持つべきではない」と発言。「原子力に向き合う姿勢を正し、金のために魂を売ってはならない」と力を込めた。
村上村長は事故当時も首長として収束に当たった。既に脱原発の姿勢を明言しており、「事故の、政府や東電の対応を見ると、JCO事故の後も原子力界の安全神話体質は全く変わっておらず、教訓は生かされていない」と批判した。
朝礼は事故から十年が過ぎた0九年以降、毎年この日に実施。十二年前、バスで住民を避難させた三十代の男性職員は「緊迫感はよく覚えている。村と原子力の将来を真剣に考えないといけない」と話した。(2011.9.30東京新聞より転載)
◆「フクシマに教訓生かされず」
JCO臨界事故から12年目となる9月30日、各地で犠牲者への追悼や抗議の意を表す集会が催された。福島第一原発の放射能漏れが今もとまらないなか、参加者たちは政府や原発事業者らが事故の悲劇から何も学んでいない現実を改めて認識していた。
1999年9月30日に茨城県東海村の核燃料処理施設で起きた臨界事故は、作業員2人が重篤な放射線障害で亡くなった。救急隊員や周辺住民ら計667人も被ばくさせられた。
30日には市民団体や労組が都内で「12周年行動」を実施し、約100人が参加した。午前中に原子力政策を進める経済産業省前で抗議の声を上げた後、夜には講演集会が開かれた。
◆1999年JCO臨界事故と2011年福島原発震災の教訓
たんぽぽ舎 山崎久隆
1 防災体制
1999年のJCO臨界事故は、日本の原子力史上初めて公衆の被曝を伴う事故になった。そのため、原子力災害対策特別措置法が1999年12月に制定されている。
初めての「10条通報」「15条に基づく原子力緊急事態宣言」3月13日発令 しかし本当にこの法律が発動されることは誰も想像さえしていなかった。
原子力防災訓練と言えば、「念のために」「気楽に」「反対派がうるさいから」やるものだと思っていた人も多かった。 予定調和的に数時間後には収束し、放射性物質の大量放出は「回避される」
事になっていた。実際に避難区域として想定されるのは、常に2キロ圏内。JCO臨界事故で起こった「10キロ圏内屋内退避」の訓練さえしたことは無かった。
核燃料輸送に関する防災訓練は、そもそも輸送日時やルートが秘密にされているため、想定されてさえいなかった。
2 福島原発震災と防災体制
原発の冷却不能が確認されたのは3月11日の18時33分
原子炉緊急事態宣言は11日19時03分
福島県が20時50分、3キロ圏内避難指示
政府の避難指示は21時23分
しかし翌朝7時になっても住民の避難は完了する見通し無し。
問題は方角の決定方法。文部科学省のSPEEDIが機能していれば、避難指示に当たり風上方向を選べたはずだが、何ら情報が無いため、避難の方角を決定的に誤ったケースが存在する。(南相馬市から飯館村等)
22:00の政府資料に依れば、「22:50には炉心が露出、24:50に燃料溶融、27:20分に格納容器の破損が始まる」と想定されていた。その後このことが報道されることはなかった。後日「メルトダウンがあったか無かったか」という不毛な論争になった。実際には既に国も東電も予測していた。
3 JCOの時も同じ誤りを
当時は350メートル圏内を避難区域とし、10キロ圏内を屋内退避としたが、近くの一般的な防災施設に移動したため、舟石川コミセンのように風下に当たり、雨と共に放射性物質が降下し、却って被曝を招いたケースもあった。
SPEEDIが機能していたら、という問題提起は当時からあった。 JCO臨界事故の際はそれでもモニタリングポストは機能していたので、放射能の流れはリアルタイムで把握が出来た。また、線量も比較的低かったので、屋内退避でかなり防護できた。
しかし福島原発震災は、モニタリングが全く機能せず、唯一風向きや放射性物質の流れをシミュレートすることが可能だった、130億円もかけて作ったSPEEDIのデータは国によって隠蔽されたため、避難誘導に全く生かされなかった。
4 情報を隠蔽した理由
情報を隠蔽した理由は「パニックを恐れたから」だという。むしろパニックに陥っていたのは政府だった。隠し通せるはずも無いのに、肝心なときに情報を隠蔽し、その結果無用な被曝を大勢の市民に強いた責任は、いずれ問われねばならない。
起きるはずの無い放射能大量放出の恐怖の前に、原子力を推進してきた省庁の官僚はほとんど思考停止状態になっていたとしか思えない。その典型的な例が斑目原子力安全委員長の言動だった。
5 JCOの教訓を生かせなかった国
臨界事故の際に、最も大きな問題となったのは「事故の収束を誰がするか」だった。結局は原子力安全委員会の委員長代理が陣頭指揮を執り、JCOの職員と近くにあった原研の職員が臨界を止めた。沈殿槽を取り巻く水を抜く作業をしただけで臨界は止まったのだが、それでも最大120ミリシーベルト被曝をした人が居た。
この教訓は、法定被曝限度を守っていたら、事故の収束は出来ない場合があることを示していた。そのため緊急時にある程度の被曝を覚悟で事故収束をするメンバを募らねばならないという大問題が発生する。しかし福島原発震災が起きるまで、この問題には誰も何もしなかった。暗に事業者の責任と言うことなのだろうが、手に負えないような場合をそもそも想定しないので、それで収束できると勝手に決めつけていたのが現実だ。
発電所の職員では到底手に負えなかったチェルノブイリ原発事故では、旧ソ連軍兵士の中から志願者を募ったが、60〜80万人の兵士のうち1万人以上が既に亡くなるという過酷な事態を生んだ。リクビダートル(清掃人)と呼ばれる彼らの運命は、日本の福島原発労働者の将来の姿でもある。
そして、今後もこのような体制が続くならば、第二第三の福島原発震災と同様の事態が発生するだろう。その時は誰が事故収束を行うのだろう。
JCO臨界事故で死亡した従業員と被曝した労働者と住民を、十分ケアしなかったツケが、今に現れている。そのことは強調しなければならない。
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