2011年12月02日23時08分掲載  無料記事
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文化

石堂淑朗氏(脚本家)が逝く

  脚本家の石堂淑朗氏が亡くなった。享年79。新聞で知ったばかりだが、亡くなったのは11月1日で本人と遺族の希望で公表を一か月控えていたという。今年は学生時代に恩恵を受けた人が次々と逝く。 
 
  石堂氏には日本映画学校で脚本作りを教わった。といっても脚本は教室で教わったから書けるというほど甘くない。そういうわけで僕は脚本家になることはできなかった。 
 
  石堂氏はその頃、1990年代初頭だが、今村昌平の「黒い雨」の脚本を書いたばかり。身長180センチくらいの大男である。石堂氏によると、石堂氏の先祖は鹿児島県種子島の住人で、種子島の男はみな石堂氏と同様の大男だという。だから、泣き男という仕事で飯を食う男が多かったそうだ。「泣き男」の仕事は葬儀に招かれて、泣くことだそうである。葬儀を行う家族とまったく無縁でも呼ばれると出かけるのだ。 
 
  「体の大きな男が泣けばその場に影響を与えるからね。」 
 
  泣き男が率先して泣き始めると、やがて葬儀に列席している親族も一人また一人と泣けてくる。その結果、みな心にたまった思いが涙とともにあふれ、いい葬儀になるという。 
 
  石堂氏の脚本講座で一番驚いたのは若い頃石堂氏が書いた脚本作法と、教えている内容がまったく違っていたことだ。石堂氏は松竹で大島渚の「日本の夜と霧」を書いている。これは学生運動の敗北をめぐる回想を劇のモチーフにしているが、ドラマには夥しい回想シーンが挿入されていた。しかし、石堂氏は常々学生に「回想シーンは書かないこと」と言っていた。回想シーンは映画の進行を妨げ、弛緩させるからだという。さらに「登場人物は減らした方がよい。できれば3人にすべきだ。男、女ともう一人いれば劇はできる」、と常々言っていた。しかし、「日本の夜と霧」にせよ、「太陽の墓場」にせよ、様々な人物が多数登場する初期の石堂氏の脚本と脚本講座で言っていることがまったく逆なので驚いた。若い頃の反省や不満もあったのかもしれない。 
 
  その頃石堂氏はよく小津安二郎の話をしていた。「東京物語」でも「秋刀魚の味」でもどんな小さな台詞でもすらすらと出てくるようで、ほとんど暗記しているようだった。松竹の小津監督は今村昌平や石堂淑郎氏にとっても先輩にあたる人物だが、若い頃大島渚と組んで松竹ヌーベルバーグをやっていた石堂氏から小津監督をしのぶ話をしばしば聞かされたことも意外なことだった。岩波ホール支配人の高野悦子氏から「あなたと大島渚が日本の映画界を駄目にした」といった意味のことを言われたそうである。その言葉を重く受け止めたようだ。しかし、と石堂氏はつぶやいた。「僕や大島が駄目にできるような映画界はもともと駄目なんだ。」その頃、松竹大船撮影所も閉鎖間近だった。 
 
  石堂氏は若者にいつもこう言っていた。 
 
  「今売れようと思うな。10年先のことを考えて修行せよ。若乃花、貴乃花を見習いたまえ」 
 
  小手先の技術ではいけない。登場人物3人、回想などの場面転換なしでまっすぐ劇が進行する。そんな枷を設けて修行すれば太い劇が書けるようになる。一流の映画はみなそうだ。だから君たちもそんな風に修業したまえ、というのだった。 
 
  当時、石堂氏は「週刊朝日」に「百面相」なるコラムを奇妙な自分の扮装写真入りで連載していた。政治的には保守派であり、リベラル派の弱点を突くことの多い論客だったが、間近に見ると、オープンで非常に正直な人に見えた。人生の一時期にせよ、教えを受けられたのは幸運だった。 


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