2011年12月29日07時28分掲載  無料記事
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コラム

新聞の翻訳力       村上良太

  新聞記者は言葉を道具とする稼業であり、当然ながらリテラシーの高い人々が携わっているものと、信じられてきた。しかしながら、その実態はどうか。 
 
  12月27日火曜の朝日新聞夕刊には「武器輸出三原則を緩和〜国際開発や人道目的〜」という見出しの記事が掲載された。その記事はほとんど政府発表をそのまま転載したかのような印象がある。だが、「人道のために武器輸出を拡大します」と言われて、どこかおかしいと感じないだろうか。過去10年、人道や民主主義のために何十万人が殺されただろう。世界に蔓延しているのは民主化や人道といった表向きの美辞麗句だが、裏にはドロドロの欲望と利権とエゴイズムが渦巻いている。 
 
  さらに疑問なのは「三原則の理念を踏まえ、輸出した武器が事前同意なく目的外に使われたり、第三国に移転されたりしないように「厳格な管理」を前提とする」と説明されていることだ。そもそも武器は使う前に生産国に<使っていいですか>といちいち同意を取り付けるものか。そんなまだるっこしいことはしないだろう。兵器が多種多様に存在すればそんなことをしているだけで日が暮れてしまうだろう。 
 
  そして兵器は戦場で勝った側が相手の兵器を没収して自ら使ってしまうものである。製造国、使用国、それを分捕った国あるいは横流しを受けた国、闇市場で買った国など兵器の実情を見たらどうか。冷戦後世界中で兵器が密売されてきたのである。その兵器は地域紛争で殺人を媒介してきた。そうした現実がある傍らで「厳格な管理」という言葉にどれだけの責任感が付随するのだろうか。そもそも兵器を1つ1つ管理できると考えるところがいかにも甘い。「人道のために」リビアに持ち込まれた兵器の行方一つとってみても不明である。 
 
  言葉に対するこの不誠実さにジョージ・オーウェルの近未来小説「1984年」を思い出す向きも多いだろう。オーウェルが描いた全体主義社会は「戦争は平和なり。自由は隷従なり。無知は知なり。」という不気味なスローガンを掲げていた。戦争は平和なり。こうしたナンセンスな言葉を常用することで、人々の価値観を麻痺させてしまうのである。 
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  新聞記者に求められる資質に「翻訳力」があると思う。この場合の翻訳力とは政府や官僚が言葉をごまかして使った場合に、その本質をくみ取り、庶民に理解できる別の言葉に変換して書き直す能力のことで、したがって日本語→日本語の翻訳力である。新聞記者には権力が使う言葉を解体して再構築する言葉の翻訳力が求められている。 
  官僚たちは普通の日本語の文章を特殊な言い回しを駆使しながら庶民にさっぱり本質が理解できない日本語に翻訳するという日本語→日本語の翻訳力を有している。だから、新聞記者たちはその翻訳された文章を庶民が理解できる日本語にもう一度戻さなくてはならないのである。しかし、近年、記者たちのリテラシーは衰えているようなのだ。 
 
  フランスの新聞「カナール・アンシェネ」はおりしも、イラクから撤退する米兵たちに向けて地元のイラク人たちが「大量破壊軍よ、さようなら」と皮肉に挨拶している漫画を掲げていた。これが健全な翻訳力というものだ。人道目的の兵器がまわりまわって自分の家族に向けられる可能性だってないとはいえない。 
 
■新訳 ジョージ・オーウェル著「1984年」 〜近未来の人間の言葉とは?〜 
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