2012年01月01日23時49分掲載  無料記事
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欧州

劇作家バツラフ・ハベル(Vaclav Havel)の死    村上良太

  12月下旬、トランジットのパリから東京に向かう飛行機で手にした新聞には北朝鮮の金正日総書記とチェコの元大統領バツラフ・ハベル(12月18日死亡。75歳)の二人の政治家の死が大々的に報じられていた。アクチュアルな意味では金正日総書記の方がインパクトは大きく、ルモンドの記事でも一面から写真入りで取り上げられていた。一方、ハベルについてはすでに政界を退いていたこともあって、その扱いはより文化的かつ懐古的だった。 
 
  ハベルはもともと名の通った劇作家であり、ルモンドの追悼記事においてもソビエト・ロシアの全体主義的支配に対抗した理想的な欧州文化人として書かれている。 
 
  「・・・ハベルは何よりもまず言葉の人だった。言葉を学んだのは企みを暴くためだった。全体主義のイデオロギーは言葉の異常な使い方に基づくものだった。そこでハベルは言葉を駆使する不条理劇をもって対抗した。それはカフカの遺産であり、ベケット、イヨネスコ、ストッパードの影響であった。言葉は意味を奪われ、機械化された官僚統制の中で強張っていた。ハベルはそうした非人間的な言葉の使用法を舞台に乗せて観客に示した。」(ルモンド 12月20日付) 
 
  ハベルの最初の戯曲が有名な「ガーデンパーティ(La Fete en plein air)」(1963)である。政治の病理は言葉に現れていたのであり、劇作家は言葉を逆手にとって武器にしたのである。ソ連の主導する共産主義は理想こそ高かったがそのプロパガンダとは裏腹に達成された現実はずっと低かった。当然のことながら政治や日常を語る言葉もまた理想と現実に引き裂かれ空洞化しただろう。日本でも「ガーデンパーティ」はチェコ戯曲集に収録されていたと記憶するが、ルモンドの記事を読みながら今再び読んでみたくなった次第である。 
 
  パリの雑誌「パリスコープ」(Pariscope)にはハベルの戯曲をフランスがどう上演したかについて簡単に書かれている。http://spectacles.premiere.fr/pariscope/Theatre/News-Spectacles/Deces-le-dramaturge-Vaclav-Havel-nous-a-quitte-3046150 
  「ハベルの戯曲は演出家,ステファン・メルデグ(Stephan Meldegg)のおかげでフランスで上演されるようになった。メルデグはハベルが獄中にいる間にその戯曲をフランス語に翻訳させていた。1975年の「観客(L'audience)」と「ベルニサージュ(Vernissage;オープニング)」、そして1978年の「請願書(Petition)」の三部作は1979年のアビニヨン演劇祭で上映された。以来、ハベルの戯曲はフランスで定期的に上演されるようになった。」 
 
  残念ながら、ハベルについてどんな劇作家だったのか語れる日本人は多くない。しかし、ハベルの政治的な理念もまたその劇作に現れていたに違いない。欧州人がハベルに注ぐ追悼の念にはハベルが政治家であるより前に一欧州人であり、全体主義の支配に対して言葉を武器にしてともに戦った思い出があると思われる。 
 
■バツラフ・ハベル(1936−2011)の公式サイト 
http://www.vaclavhavel.cz/index.php?sec=2&id=1 
 ルモンドによると、1989年12月29日から1992年7月20日までチェコスロバキア大統領。1993年2月2日から2003年2月2日までチェコ大統領。 
  ルモンドではチェコスロバキアはRepublique tcheque et slovaqueと表示されており、直訳すればチェコ&スロバキア共和国となる。この共和国は1918年から1992年まで存在し消滅した。それぞれチェコ語とスロバキア語が存在する。チェコスロバキアはチェコとスロバキアはひとつの国を形成すべきであるというチェコスロバキア主義に基づいた国家であった(ウィキペデイア)。 
  ウィキペディアによると、チェコとスロバキアの間にはハイフンを入れるべきか、1つにつなげるべきかを問う「ハイフン論争」なるものがあったとされ、ビロード革命(1989年)の後に1990年の議会で話し合われたようである。チェコとスロバキアの間に「&(et)」を入れるようになったのはこの90年の論争を経てからのようである。1992年には国会でチェコとスロバキアを分離する連邦解消法を成立させた。ハベルがチェコの大統領になる1993年に、チェコとスロバキアはそれぞれ独立国家となっている。これを「ビロード離婚」と呼んでいるようである。しばしば出てくる「ビロード」という言葉はチェコスロバキアの政変が流血の事態を生まず、静かに革命が進行したことを象徴して用いられているようである。 
 ハベルの死が報じられると、チェコから分離したスロバキアにおいても多くの市民はローソクに火を灯して追悼したと報じられている。 


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