2012年01月04日10時59分掲載
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アフリカ
サハラの春 アフリカ最後の植民地.西サハラ民族大集合 文:平田伊都子 写真構成:川名生十
2011年12月12日から12月20日まで、第13回西サハラ民族大会を取材した。
20年間待っても国連が約束した<国連西サハラ住民投票>は占領支配するモロッコの反対で実現していない。 このままでは、フランスの後ろ盾でモロッコが西サハラ全土を完全併合しかねない。 36年前に故郷西サハラをモロッコ軍に追われた西サハラ住民の大部分はアルジェリアに逃げこみ、以来、難民キャンプ生活をしている。 逃げ遅れた西サハラ住民はモロッコ占領下で、劣悪で非人道的な生活に苛まれてきた。 2011年の末、西サハラ難民亡命政府の呼びかけに応じて、独立を目指す西サハラの人々は、アルジェリアの難民キャンプから、モロッコ占領地西サハラから、砂漠の真ん中にあるティファリティに集まってきた。 推測人口30万人の内、2,100人の代表者たちがテントを張り、砂混じりのパンを分け合いながら激論を交わした。 どうすれば世界の人々に独立への悲願を伝え、支持を獲得できるのか?、、
* 西サハラ難民キャンプ本部の大移動
2011年12月12日午後4時にアルジェリアの首都アルジェから飛び立った国内線は、オレンジ色の夕日が砂漠を染める午後6時30分に、アルジェリア最西端の軍事基地チンドウーフに降り立った。 「アハラン!(ようこそを意味するアラビア語)」、「オラ!(スペイン語のハーイ)」、「サバ?!(フランス語で元気)」、、大声を上げる迎えの運転手たちに囲まれた。 ハトリ、ムハンマド、シディ、、みんな友達だ。 一年間の無沙汰が吹っ飛ぶ。
いつものように飛行場から50キロ砂漠に入った難民キャンプの外人レセプションに向かう。 が、外人レセプションを通過して4つある難民キャンプ群のひとつの宿泊所に連れて行かれた。 「10月23日にヨーロッパ支援団体の3人が外人レセプションから誘拐されたのを知ってるだろ?以来、外人の宿泊先を変更したんだ」と、運転手のムハンマドが説明する。 「マリのAFP(フランス通信社)が西サハラ難民キャンプはマリのAQIM(北アフリカのアルカイダ)と繋がってると話を捏造している」と彼は顔をしかめる。
翌12月13日午前11時、国連和平交渉を信用していない運転手モハンマドは西サハラ難民軍ポリサリオ戦線の秘密基地に連れて行ってくれた。 約50台の戦車の整列を、AUアフリカ連合事務局長ジョン.ピンやEU代表やUN代表などが見せつけられていた。 「国連西サハラ住民投票をさっさとやらないと、我々西サハラ人は武力を行使するぞ!」というメッセージを伝えたのだ。 西サハラ亡命政府からは、国防相や外務相が参加していた。
午後は運転手ムハンマドに場所を教わって、通訳ムハンマドのテントを訪ねた。 が、
西サハラTV局に就職した通訳ムハンマドはTV局の主要スタッフと共に、既に第13回大会会場に旅立っていた。 ちなみにイスラム教徒の西サハラ人には、教祖ムハンマドにちなんでムハンマドという名が多いのだ。
西サハラTV局に寄ってみると、閑散としていて女性研修生たちがコンピューターをいじっていた。 2年前に立ち上げ1年前から放映を始めた衛星TVは独立をめざす西サハラにとって新たな情報闘争の戦場になっている。 「アラブの春、知ってる?」と、彼女達に聞くと、「アラブの春は私達が始めたのよ!」と異口同音に答えた。
* 300キロの砂漠を越えて西サハラ民族大集合
12月14日午前6時。 難民キャンプの宿泊所を出ようとしたら、宿泊所番人のムハンマドが紙をヒラヒラさせて飛んできた。 三人二日分の宿代と食事代、30ユーロの請求書だった。 20回近く難民キャンプに来て、請求書をつきつけられたのは初めてだった。 30ユーロが惜しいわけではない。 が、いささか淋しくなった、、
午前7時、集合した69台のトヨタ.ランドクルーザーがアルジエリアの西サハラ難民キャンプを出発した。 外国人招待客250人の他にモロッコ占領地.西サハラから命がけでやってきた占領地の人権活動家たちも混じっていた。
我々の運転手シディは趣味も仕事も車というラリー狂で、他の車が前に出るのを許さない。 時速80キロ、120キロと飛ばし穴も山も厭わず突っ走るから、同乗者は跳ね上げられ天井に頭をぶつける。 「どうして300キロも離れた所で大会をやるの?」という類の質問には一切答えず、ひたすらハンドルを切る。 お陰で午後7時には目的地に着いた。
大会会場のティファリティはポリサリオ西サハラ難民亡命政府が支配する西サハラ解放区だ。 難民キャンプがある不毛のアルジェリア砂漠とは違い地下水があり、タルハという名の木やボール状の草が砂地にへばりついている。 スペイン植民地時代の廃墟があるが住民はいない。 将来のためにと小学校と病院と9棟の宿泊施設が建てられている。
3人の日本取材班とスペイン.バスク.ジャーナリスト3人は、3棟5号室に入れられた。 20畳のコンクリート床には貧しい敷物が張られ、一人一枚ずつ、援助物資の毛布が配られる。 が、夜は零度近くなるので寝袋が欠かせない。
夜10時、「コミーダ!コミーダ!!(スペイン語で飯だ、飯だ)」の声が響き、「
筆者は食堂に急いだ。 やっぱり声の主はアルジェリアの難民キャンプ外人レセプション料理長のアブドッラーだった。 しかも厨房では懐かしい料理人たちがスープの大なべをかき回している。 アルジェリアの西サハラ難民キャンプ外人レセプションの厨房が、そっくりそのままティファリティに引っ越してきていたのだ。 友人が作ってくれる料理が食べれるなんて、こんな有難いことはない。 限りなく幸せな気分になった。
* 西サハラ難民亡命政府主催の第13回西サハラ民族大会
12月15日、凄い鼾の三部合唱に起こされた。 寝る時は8個だった寝袋が15個に増えている。 午前8時、お茶おばさんのボイファが熾した炭火を持ってきた。 室担当のラルーシと警備兵ムハンマドが、砂混じりのパンと援助物資のマーガリンとジャム缶を抱えて入ってきた。 5泊6日、このお三方にお世話になる。 改めて丁寧に挨拶をし、壁の釘に100円ショップで買ってきた日の丸の旗をさし、日の丸コーナーを作る。 接待係りの3人は、夫々の組織から清き一票を預かってきている代議員でもある。
「なぜこんな不便なド砂漠で民族大会をやるの?」と筆者がラルーシに聞くと、「亡命政府が決めたことだ。多分モロッコ軍の妨害を避けるためかも?」との答えが返ってきた。
午前10時に開催予定の会場に行く。 TV局のスタッフや軍楽隊がアタフタ動いていたが、
一向に始まりそうにない。ようやく正午、ポリサリオ戦線書記長で西サハラ難民亡命政府大統領アブデル.アジスや政権幹部が入場し、2,100人の代議員が揃い、国歌斉唱となった。 メロディーはお馴染み「蛍の光窓の雪」で、それにアラビア語の歌詞が付いて16小節繰り返される。 大会運営委員が選ばれ、大統領の1時間半に及ぶ長演説で開会式は午後3時に終わった。 夕方、5月に訪日したベイサット全権大使やサディクアジア担当相やマライニン.ジャーナリスト協会会長など西サハラ要人が、続々と日の丸コーナーにやってきた。
夜7時開始予定の外国人招待セレモニーは、どうせ遅れるからと夜8時半頃に出かけたが、案の定、まだだった。 夜9時からアルジェリア、メキシコ、スペイン、アフリカ諸国の政治家たちや支援団体が祝辞を述べる。 夜11時、記録係りのSPS(サハラ.プレス.サービス)ジャーナリスト.モハンマドに「後、何人残ってる?」と聞いたら、「軽く30人以上はいる」との事だったので、会場を後にした。 セレモニーは翌朝4時まで続いたとか、、目が覚めたら我等が部屋には21個の寝袋がひしめいていた。
12月16日、外人招待客のため紀元前2千年の壁画見物が予定されていた。 直前に<砂の壁>見物の別案が出され、我々日の丸取材班は当然<砂の壁>と呼ばれる地雷原見物を選んだ。 2時間遅れで合同出発し、壁画組9台が先行し地雷組5台がそれに続く。 しかし、分かれ道にきても地雷組は壁画組から分かれない。 「ちょっと違うよ!」と運転手ムハンマドを突っつくと、「軍の命令で全員壁画見物だ」と有無を言わせず壁画が残る禿山に連れて行かれた。
12月17日、会場から1キロ離れたところにあるMINURSO(国連西サハラ住民投票派遣団)の国連平和維持軍PKOティファリティ基地を取材した。 20年前に国連は住民投票を約束して以来、モロッコ占領側に4箇所、西サハラ亡命政府解放区側にティファリティを入れて5箇所、同規模のPKOを配属している。 が、肝心の住民投票業務はせず、15人の多国籍兵は砂漠サバイバルを楽しんでいた。 今回の西サハラ民族大会に関して、PKOはなにかと情報収集をしていた。 <砂の壁>見物中止の原因はMINURSOの兵が外人招待ツアーに混じっていたからだ。 <砂の壁>から5キロ巾を国連が立ち入り禁止にしていることもあって、西サハラ側は面倒を避けたかったようだ。
* モロッコ占領地.西サハラからきた人々
我々の担当ラルーシが、モロッコ占領地.西サハラから初めて民族大会に参加した54人のうち、代表株のアハマド.サレハ(56)と連絡を取ってくれた。
12月18日朝8時半、西サハラ民族大会代議員たちが泊まるテント群に出かけた。 2,100人を収容する500のテントには彼らにくっついてやってきた家族なども寝泊りしている。
アハマド.サレハのテントにはモロッコ占領地.西サハラからやってきた数人の人権活動家たちが同宿し、ポリサリオ戦線兵士二人が警護していた。
「私はモロッコ占領地.西サハラの首都ラユーンで平和的な人権活動をしている。これまで通算20年間、モロッコ当局の獄に繋がれてきた。モロッコ本土も含め5箇所の監獄を転々とさせられてきたが、ラユーンの暗黒監獄は最悪だった。監獄から無実の仲間を救出したり、行方不明者の捜索を国際社会に訴えるためにCODESAという組織を2005年に立ち上げたが、モロッコ当局からすぐに非合法のレッテルを貼られ、私も含め活動家たちは逮捕された。占領下ではあらゆるデモや組織作りが禁止されている。この大会に参加したのも世界中にモロッコ占領当局の迫害を知ってもらうためだ。アルジェからモロッコのカサブランカ空港に着いたら多分逮捕されるだろうね。が、もう恐れない」とサレハは語る。
CODESA議長ブラヒム.サッバールは1981年から1991年まで行方不明になっていたという。「モロッコの暗黒監獄に繋がれていたんだ。421人収監されていたのを、国際アムネスティーが見つけてくれた。が、うち42人は拷問と餓えで死んでいた。2006年から2008年まで再収監された。我々は人間だ。モロッコ占領当局のやり方はむごすぎる。MINURSOにはモロッコ占領当局の非人権的行動をモニターする義務がある」とサッバールは訴える。
担当のラルーシはさらに占領地からやってきた女性活動家ジャミーラ(36)も紹介してくれた。 彼女の弟は2010年12月22日にモロッコ当局に殺され、遺体は未だに病院の冷凍室に放置されたままだという。
「俺が始めて西サハラ国旗を振ってモロッコ当局に捕まったのは、14才の時だった。目隠しをされ手錠をかけられ尋問される。そして突然、頭を叩く。三日間飲まず食わずの拷問で、死ぬかと思った」と、担当のラルーシ(33)は自分の体験を語り始めた。 何度も逮捕され、身の危険を感じたラルーシは2007年に仲間数人と歩いて地雷原の<砂の壁>を越え、アルジェリアの西サハラ難民キャンプに逃げ込んだ。 以来、人権運動と組合運動に携わっている。 「戦争以外に独立への道は開かれないと思っている若者は多い」と語る主戦論のラルーシに、「大会で戦争を提案したのか?」と筆者は聞いた。 「勿論だ。大会には、<武器を取れ、和平交渉に期限を設けろ>と、提案している。MINURSOは何もせずただ飯を食っているだけだ。フランスがモロッコを利用し操っている限り国連和平解決などありえない。西サハラからモロッコ兵を銃で追っ払うしかない」と、ラルーシの論は明快だ。
* 春よこい!早くこい、西サハラにも
12月19日が我々日本取材陣の出発予定日だった。 ところが前日18日の夜11時に
「お前達の出発は20日だ」と伝令がきた。 従って19日の朝はぐっすり寝込んでいた。 ところが19日の早朝5時、「起きろ!出発だ!!」と明かりを点けられた。 「え〜なにそれ?出発は明日の20日だと言ったじゃん!」と反論したが、担当のラルーシが冷酷に急かせる。 「聞いてな〜い!聞いてな〜い!」と連発しながらも寝袋を畳み荷物をリュックに詰め込んで車の溜まり場へ行った。 ところが、ところが、プレス担当の長から「お前達の出発は明日だと伝えておいたはずだ。空席などない」と、叱られた。
また荷物を担いで部屋に戻る。 「もう一日一緒にいれるね、よかった」とお茶おばさんや警備兵モハンマドそしてラルーシまでもが、ニコニコと出戻りを歓迎してくれた。
一日延びた御かげで思わぬ得をした。 再度、モロッコ占領地.西サハラからきた人権活動家たちと将来の約束を交わすことができた。 占領地の若い活動家から話しも聞けた。
西サハラ国連代表で<西サハラとモロッコ交渉>の代表でもあるアハマド.ブハリにも再会できた。「10月に第9回非公式交渉を国連が約束していたのに、モロッコが無視し暗礁に乗り上げたままだ。国連外交を重視する日本は、是非モロッコに働きかけて、日本で両当事者交渉の場を設けて欲しい」とブハリは訴えた。
そして午後6時、翌日の300キロ砂漠走行に備えて横になっていたら、「大統領が会いたいといってる」と、ブラヒム.ガリ西サハラ亡命政府NO3が呼びに来た。 大統領は大会会場に向かおうとしていた。
「どうしてこんな砂漠の奥地で西サハラ民族大会を開いたのですか?」筆者はまず大統領に、一番疑問に思っていたことを聞いた。 「このティファリティは西サハラ民族の象徴的な古い砂漠中継点だ。しかも、スペイン旧宗主国が植民地の中心にした所で、国連が国連西サハラ住民投票実施地と定めた場所でもある」と、大統領は答えてくれた。 「アラブの春をどう思うか?西サハラの春はいつくるのか?」という筆者の質問に「アラブの春は2010年10月に始まった、モロッコ占領下の2万人西サハラ市民による8,000個のテント抗議デモがきっかけだ。アラブの春は再検証されるべきだ。西サハラの春は、アルジェリアの西サハラ難民とモロッコ占領地の西サハラ住民そして西サハラ解放区の兵士と遊牧民が一体となって、着々と実現しつつある。西サハラの春とは、西サハラ独立国誕生の時に訪れる」と、大統領は答え、「日本に西サハラ代表を送るからよろしく」との要望を受けた。 「出来る限りの努力はしますけど、なにせお金がな〜い」と筆者が答えると「金は後からついてくる」と、大統領は筆者の背中を叩た。
そして翌12月20日、復路の運転手は親友ハトリだった。 ハトリに<砂の壁>を見たいといったら、なんと国連立ち入り禁止を無視して一キロの所まで近づいてくれた。 高さ2メートル程の壁の上で、我々がカメラを回しているのに気づいたモロッコ兵数人が蠢いている。 西サハラを分断するためモロッコが作った全長2、500キロの地雷原、地雷の数は600万個以上と言われている。 国際社会は、モロッコ占領地での西サハラ住民に対する迫害や地雷問題を何故、真剣に取り上げないのだろうか?
第13回西サハラ民族大会では予測外の椿事が多発した。 が、それにもましてたくさんの素敵な出会いと出来事があった。 2012年は、モロッコが安保理非常任理事国の席を獲得し、フランスは強行にモロッコ支援を表明し、西サハラにとって国際情勢は厳しいものがある。 が、西サハラ民族自決権と西サハラ住民投票を約束したのは、その国連と国際社会だ。 約束は守りましょう、
文:平田伊都子 ジャーナリスト
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