2012年01月12日12時55分掲載  無料記事
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文化

【核を詠う】(25)正田篠枝遺稿抄『百日紅―耳鳴り以後』短歌を読む(2)「三十万人が原爆にて爆死せり三十万名号われは書かなん」 山崎芳彦

 『原爆歌人の手記 耳鳴り』が出版された翌年の一九六三年(昭和三十八年)、正田篠枝さんは、それまでも貧血をはじめさまざまな原爆後遺症による体調の不調、苦痛に苛まれながらの生活を過してきたが、加えて乳の下や背中に痛みを覚え、かつてABCCの検査結果で「ガンの兆候」を指摘されたこともあって不安を強めた。彼女は『耳鳴り』に所載の詩「癌」に「癌なんて 嫌だと 思いました/癌よ 吹き飛んで 消えて 失(な)くなって/くれよっ とおもいました/・・・/癌は こりこりです 父は 原爆後 癌で/苦しみ 苦しみ 亡くなりました/癌よ 消えてくれ たのむ たのむ と思いました」と書いている。 
 
 父・逸蔵が被爆後五年後、義兄(最初に結婚した高本末松の二人の兄)のうち次兄が被爆十四年後、長兄が同十七年後に原爆症肺癌で死去している。正田さんの生前であり、彼女はその苦しみを目の当たりにしていた。その壮絶な死を作品化もしている。そのほかにも、身の回りで癌死した人を多く知っていたであろう。そして、原子爆弾は生き延びてきた正田さんの命の中でなお爆発をやめず、癌を進行させていたのである。 
 
 一九六三年七月、正田さんは広島大学付属病院で受診し、乳癌を疑われ、いったんはレントゲン検査で打ち消されたが、八月末には広島県立病院で受けた検査によって乳癌の宣告を受け、入院、手術を勧められた。さらに九月には実弟の正田誠一氏(当時九州大学経済学部教授、同氏にかかわる作品もある。)の紹介で、九州大学付属病院で細胞検査を受けた結果、やはり乳癌の診断であった。医師から知らされた弟の誠一氏を通じて、原爆症の乳癌であり、既に広い範囲に転移していて、コバルト治療・手術の治療を繰り返しても余命は約半年、との医師の判断が告げられた。誠一氏は泣きながら告知し余命まで告げたという。正田さんは、それまでの自分の体調から、あれが、と思いだすことが多々あったかとも思う。 
 
 九大病院も、弟の誠一氏も直ちに入院し治療をすることを強くすすめたが、篠枝さんはそれにしたがわず、広島に戻った。父や義兄をはじめ多くの被爆者が癌を病み、手術治療を受けても相ついで死んでいったことを見てきた彼女は、おそらく原爆症癌が病院での治療によって治るとは思えなかったこともあるだろうし、手術しても余命半年と告げられたこともあり、彼女には思うところがあったのかも知れない。当時の彼女に親しく接していた古浦千穂子さんは、正田さんが自宅の仏壇に向っている姿を、よく見たという。彼女は何を思っていたのだろうか。もちろん、彼女の創作活動は続けられていた。 
 
 その彼女に、杉浦翠子の死(一九六〇年、享年七十五歳)後、歌誌『短歌至上』を主宰し、正田さんの親密な歌友でもあった月尾菅子氏から、手術をしないで上京し、蓮見ワクチンで治療することをうながし、上京のための費用、航空券代を添え、さらに滞在するための住いまで用意して待っていることを知らせる便りが届いたのであった。九月に博多に行く前に正田さんが月尾さんに書き送った乳癌の不安や苦悩の便りを受け取って、これほどまで手厚く行き届いた手はずを進めていた月尾さんの友情の深さには感動せずにいられない。 
 
 十月半ばに上京した正田さんは月尾さんの配慮により珠光会診療所(阿佐ヶ谷)に通い免疫療法の蓮見ワクチンを受けたが、十二月には広島に帰った。この上京中にさまざまなことがあったし、正田さんの多くの人との出会いなども、彼女の残生にとって貴重なものであったろうが、ここでは三十万名号に取り組む契機になった経緯についてのみ触れたい。月尾菅子著『正田篠枝さんの三十万名号』(藤浪短歌会刊、昭和四十三年)に拠る。 
 
 月尾さんの配慮あるすすめを得て、昭和三十八年十月十八日に上京し月尾さんが用意しておいてくれた借家に落ち着いた正田さんは、できたばかりの「短歌至上」(185号)に掲載の、月尾さんの歴史学者・中村孝也氏訪問の記事を読み、その中で徳川家康が晩年に南無阿弥陀仏の六字の名号を書き続けたことについて、中村氏が「・・・家康は非情に信仰の厚い人でした。家康が、南無阿弥陀仏という六字の名号を書いた真筆が残っていて、日課念仏と呼ばれています。・・・ところで家康は、何を祈念して、日課として六字の名号を書いたものか、判りません。或人は、これは家康が、多くの人を死なせたことを顧みて、冥福を祈ったのだろうというけれど、どういう心境で書いたかは推定の他ありません」とあるところを読んで「正田さんは電気に打たれたように感動した」と月尾さんは書いている。 
 
 そして正田さんが「今年のように原水爆禁止運動が混乱した年はない。原水爆禁止の目的が幾通りもある筈はない。みんなが自分の党派のために利用しようとしているのである。真に祈る心で人類のためにこれを禁止せねばならんというのではない。ほんとうに犠牲になって死んだ人のことを思えばあの会があんなにいがみあって、もめるなんてありようがない筈なのに。―あれ以来のわたしの気持ちは悶々悩みぬいてどうしようもなかったが、この孝也先生のお話を読んで豁然として悟った。・・・今の人は信仰がなさすぎる。政治家も指導者も。わたしは原水爆禁止のために祈るばかりです。それを日課として名号を書こう。これでわたしも救われます。」と言ったと、月尾さんは記している。月尾さんはその正田さんに協力することを約束し、十月二十四日に二人で中村孝也氏を訪問し、話を聞いて、正田さんは「原爆犠牲者三十万人の冥福を祈って三十万名号を書きます。」と言い、それを書いたら「広島平和祈念資料館に納める」との月尾さんの提案で合意したことが、月尾さんの著書に書かれている。 
 
 一九六三年といえば、第九回原水爆禁止世界大会が、「いかなる国の核実験にも反対」の文言を決議に入れるかどうかをめぐっての共産党と社会党との意見対立により日本原水協の分裂の危機、はげしい対立抗争が展開された年であった。正田さんは、この事態に悩み、絶望的な思いに駆られ、原爆被害者をよそにしたと思える状況に苦悩していたのであったろう。原水禁運動の歴史的経過について、筆者は私感を述べることは避けるが、ついに分裂大会になった第十回大会の、一方の大会に参加していた一人であること、被爆者に対する思いより党派的な運動に心を奪われていたことに、慙愧の念を持ち続けていることは告白しておきたい。大会のある分科会で、「党派性」むき出しの内容の発言をした一人であった。 
その日々に、正田さんは三十万名号を、病身を励まし、原爆犠牲者の冥福を祈りつつ書き続けていたことを思いながら、いま、そのことにもかかわる正田さんの短歌を読んでいる。 
 
 
 日課念仏 
三十万人が原爆にて爆死せり三十万名号われは書かなん 
 
広島と長崎加え爆死せし人数はああ三十万と聞く 
 
家康が日課念仏書きたりきわれも一途(いちず)に書きつがんとす 
 
上質の紙を汚して拙なき文字ひたすらに書く六字の名号 
 
一日に二十一名号書けとのたまえどわれは書き継ぐ二千名号 
 
死の覚悟せよと言われしわれなるに日課念仏書かんと勢(き)おう 
 
原爆症の癌なんかでは死なないぞ勢(き)おうわれなり筆ダコ見つむ 
 
原爆症乳ガンのことは忘れおりただひたすらに名号書くとき 
 
隣り部屋に人の気配が無きときは念仏高く名号を書く 
 
静かにも念仏となえて名号を書きつつわれは身をかえりみる 
 
分量よりも誠意が大切と言われしが人生の日暮れとわが書き急ぐ 
 
名号をひねもす書きて飲食(おんじき)に行くべく立てば目まいひょろつく 
 
繰り返しすっても薄き墨の色晴れやらぬわが沈みし心 
 
名号の日課念仏書きおれば耳鳴りはげしはげます如く 
 
筆先はまなこかすみて見えざれど手さぐりながら名号書きつぐ 
 
死も生もみ仏のままと名号を書きつつ死なん書きつつ生きん 
 
 
 三十万名号を書く決意をした正田さんは、月尾さんの援助を受けて、すぐに名号を書き始め、その懸命さは非常なものであったようだ。そのことは、何より、中村孝也氏が月尾さんの『正田篠枝さんの三十万名号』に寄せた「はしがき」でも明らかにされている。 
 
 
 「病苦をこらえて三年のあいだ、朝も晩も休まず、机に凭りかかって念仏を唱えながら、一心不乱に三十万名号を書きつづける窶れた人の姿が、眼の前にちらつくのである。 
 
 払えども払えどもなお消えやらぬ疲れはてたるひとの面かげ 
 
 このようなことをお勧めするのではなかったと後悔する。量よりも質がたいせつですよ。一念が凝れば功徳は広大無辺、毎日二十一遍書写の行(ぎょう)にとどめなさいませと、賢(さか)しらだてに諫言して見た。死病にとりつかれて、衰弱している女人にとりて、それはあまりにも重荷なのである。しかしすべては後の祭りであった。・・・ 
 正田さんはわたくしの思いやりをよく理解して、たいへん感謝して下された。けれども書かずにはいられませんと申された。・・・ 
 一事が万事、この純情な執着心が、歴史あって以来、前代未聞なる三十万名号単独書写の大業を見事に成就せしめたのであった。・・・書写を継続せしめたのは、月尾さんの友情である。孤掌鳴らし難しという諺がある。これもまた一つの美談である。・・・。」「後日、病症が進んでのち『ご名号を書いているあいだは、苦痛を忘れるけれども、書かないでいるときは堪えられない。』と述懐された。ご名号書写の信仰は、ただ精神の慰安ばかりでなく、肉身の破壊をも阻止してくれたのである。」・・・。 
 
 
 筆者は信仰に縁なき者であるが、しかし、信仰のこころ厚い人を否定するものでもない。正田さんの名号書写も、中村氏の言葉もそのまま受けとめる。 
 
 さらに正田さんの短歌を読んでいきたい。なお、『百日紅』の作品掲載の順序は、作品の制作順ではない。同書に従って読む。 
 
 
 江田島 
祖母(おおはは)の家指させば竹群のみどりはうるむ陽ざしの中に 
 
招かれて連れだちて来し君と立つわがふるさとよ江田島の丘 
 
江田島はわがふるさとよ逢うひとのなまり言葉のなべてなつかし 
 
青き海みどりの島は貧しくて段々畠わがふるさとよ 
 
牡蛎いかだ弾薬庫よけ海に浮かぶ青き海原深みただよう 
 
バス道路畦(はぜ)の枯草焼かれあり黒き土塊(つちくれ)春陽ににおう 
 
戦いの陽ははるかなり弾薬庫人影もなく日米旗揺れおり 
 
山うがち青葉の島の地に深く築かれき米軍弾薬庫 
 
山鳩がどんでんばらから飛んできていちぢくの枝に二羽が並びぬ 
 
山鳩がつるみしあとに羽つくろい一羽が飛びたちあとまた去(い)にぬ 
 
瀬戸の海の蒼きをみおろしそよ風を受けてたたずむ山の墓処に 
 
ちちははの墓みすぼらし苔むして草おい茂り文字薄らぎぬ 
 
江田島はわれが生まれて幼な日を過ごせし地にて骨埋むる地よ 
 
 
 九大病院にて 
九大第一外科医師に原爆症乳癌で来春までの生命(いのち)と言わる 
 
九大病院の長塚節の歌碑の前に心沈みつ叢に座す 
 
長長と垂れ下りたる乳の図を描きて医師は癌腫を説きぬ 
 
あれから二十年生き残るわれ癌病みて死の宣告を沁みて思うも 
 
死ぬるよと医師に言われてそのあとに自覚の乳癌ずきずき痛む 
 
こんなことあってよいのか二十年過ぎ原爆症癌うずきに耐え得ぬ 
 
針さすか癌のうずきて虚仮(こけ)世事にかまけるわれの心めざます 
 
乳癌のうずき次第に広がりて左の腕のなかばに届く 
 
ずきずきと乳癌痛めどまだまだこれくらいでは死なぬと思う 
 
忘れんと努めいしことにこだわれば乳癌のこり転移かひびく 
 
あたらしく肩にひろがりずきずきとうずく癌腫よいつまでうずく 
 
ずきずきと癌のうずきを感ずれば死の跫音が近づく心地 
 
心中の相手が欲しやわれと死ぬひとありやなし癌に手を置く 
 
空(から)元気と他(ひと)は知らざりき乳癌の転移うずくにひそと掌を置く 
 
いのちかけ悔いなき仕事させ給え胸の痛みを押さえつつ思う 
 
癌病めば風引きやすく癒え難くあまたの注射アンプルたまる 
 
病む愁(うれ)い心は病まずと思いつつ癌のうずきに黙(もだ)し勝ちなる 
 
あう人に問われて病まぬこころをば告げねど癌はずきずきうずく 
 
口臭を感じつ癌のうずく上(え)に掌(て)をのせ治る奇蹟を捨てず 
 
アンプルの底に残りし血の液よ痛む生命を守られて泣きぬ 
 
灸すえて癌を治すとじじが来ぬ涙こぼしつあつきを耐えぬ 
 
苦しみの去りたる時はま静かにこの世を去るかいま癌えずく 
 
ずきずきとうずきし癌がうずかざるたたかい止めて死が近きかも 
                        (つづく) 


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