2012年01月19日14時19分掲載  無料記事
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コラム

古書評論の必要性   

  今、古書店が消えていきつつある。ブックオフのような大手のチェーン店は拡大しているのかもしれないが、個人でやっているような小さな古書店が町から1つ、また1つと姿を消しつつある。 
 
  私が住んでいる町では何年か前から、この傾向があり、この4〜5年の間に3つの店舗がなくなった。完全廃業したのではなく、インターネットでの販売は続けている。とはいえ、店がなくなると客が本を手に取って見ることはできない。だから実物の本との出会いの場がなくなってしまう。ある店主に事情を聴くと、店をたたんだ理由は売り上げが下がって家賃が払えなくなってしまったからだという。特に東日本大震災の後、町が全体に薄暗くなってしまったことが大きいと嘆いていた。大家さんがデフレや大地震後の不況に応じて、家賃を多少でも減額してくれたら違っていたかもしれないとも聞いた。 
 
  古書店が消えると、古書を町で手にする機会がなくなってしまう。インターネットで買えるからいいという声もあるかもしれないが、インターネットでは本をめくってみることができない。書店で本を買う時と言うのは、あらかじめ買いたい本が決まっていて、ただ買いに行く、という場合はむしろ少ないのではないだろうか。書店で棚にならんでいる本を眺めているうちに、1冊、2冊手に取ってぱらぱらめくっているうちに未知の面白さに巡り合う、というのが書店に入る喜びの1つだろうと思う。 
 
  新刊書店の最近の売り方を見ていると、さまざまな文庫を総花的に集めて何が来てもいいような形をとっている。その多くも最近出版された本である。高度経済成長の頃、出版点数が年間せいぜい2万点くらいだったのに比べて、年間7万点の新刊書が出る昨今、短期間で店に並べては撤去するという売り方が増えている。だから、売り場には概して歴史が感じられない。今、人気のもの、旬なもの、あるいはそう想定される本が棚のスペースのかなりの部分を占めている。しかし、何年も前に出版されて面白かった個性的な本がそこには滅多にない。 
 
  だから、そうした本を買いたければ古書店に行かなくてはならない。しかし、その古書店が町から消えつつある。そうなると、古書はどこにいくのだろう。今はインターネットで店主が販売を細々とでも続けているだろうが、次の世代はどうなるのだろうか。店主がいよいよ足腰が立たなくなって引退する日が来たら、古書を引き取って売る人が出てくるのだろうか。この世界ももしかすると、限界集落と一緒で、何年かすると一斉に店主たちが引退してしまうとしたら・・・。 
 
  レイ・ブラッドベリのSF「華氏451度」は本の所持や読書が禁じられた世界の話である。本の秘蔵が密告で発覚したら政府機関の人間たちがかけつけて来て焼き払ってしまう。ジョージ・オーウェルの「1984」では政府は言語を減らし、言語を改造することで本をどんどん新語に訳し直し、古典の中身を実質的に改造していく。いずれにしても、こうした本を封じる世界を描いたSFはナチスの焚書を発想の根に持っている。国民に物を考えるのをやめさせ、批判精神を奪い、コントロールするためには本を焼き払うことが必要なのである。日本でも戦争が終わるまで読むことが禁じられた本が多数存在し、そうした本を蔵や地面に隠している人々がいた。 
 
  今、本が年間7万点も出版されているのだから、本がなくなることはあり得ない、と考える人も多いに違いない。しかし、実際に思想や哲学、人文科学の古典に類するものは町の書店でほとんど見かけることができなくなっている。これらはインターネットで読めるようになると思う人もいるだろうが、インターネットのインフラは政府の管理下に置かれやすい。一瞬にして消えてしまう可能性もある。今ある紙の本をどんどん減らしてゴミにして焼き払ってしまい、インターネットに移行させることができれば管理もしやすくなる。将来、テロ対策と称して、携帯電話やパソコン、スマートフォンなどもナンバーを振った登録制や貸与制になることもあるかもしれない。 
 
  杞憂かもしれないが、そうしたリスクは一応考えておく方がいいのではなかろうか。ところで古書店がなくなっている、ということは古書が売れなくなっているということである。その理由の1つとして、新聞・雑誌の書評のほとんどが新刊の案内しかしていないことがあると思われる。文学・思想・哲学・人文科学の古典に類する本はすでに出版されて何十年も経ている。そうした本が再び書評の対象になることがほとんどない。しかし、それらの本が新刊だった頃に若者だった人たちが高齢化したり、亡くなったりしている。そうなると、それらの本を誰が今、紹介してくれるのか。優れた本が多数あるにも関わらず、かつての名作をもう一度今の時代に問う、という営みがあまりなされていない。新しいというだけで書評の大半が新刊書を対象としている。しかし、古書であっても時代を超えて、新たな意味を持ちえる本は多数ある。本を今の時代に再生させるための評論が必要ではないだろうか。 


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