2012年01月23日11時43分掲載  無料記事
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文化

【核を詠う】(26)正田篠枝遺稿集『百日紅―耳鳴り以後』短歌を読む(3)「春までの生命と医師が告げし身の花の便りを聞くは嬉しも」 山崎芳彦

【核を詠う】(26)正田篠枝遺稿集『百日紅―耳鳴り以後』短歌を読む(3)「春までの生命と医師が告げし身の花の便りを聞くは嬉しも」 山崎芳彦 
 
 前回には正田さんの原爆被爆死の人びとの冥福を祈るための三十万名号書写について、主として月尾菅子著『正田篠枝さんの三十万名号』に拠って記したが、蓮見ワクチンの治療を受けながらの在京中は、月尾さんの親身で行き届いた気配りで、新しい出会いの喜びや、近郊(千葉、茨城など)へのドライブなどを楽しむ日々もあった。短歌を通じての交友、「歌縁」という言葉もあるが、正田さんの苦難の多かった晩年の中で、喜びの多い時間に恵まれたことがしのばれて、うれしい。名号書写に打ち込む姿は、見る人を心配させるほどの集中であったというが、これも正田さんの、ある意味では遠からず来るであろう日への覚悟と、自らをも救済する信仰、祈りの姿でもあったかと思う。月尾さんからは「篠枝さんはもう東京の人になりなさいよ」とまですすめられ、本人も 
 
 何故に帰り度くない広島か今日は七通の手紙届けど 
 
という歌を作ったが、十二月に入ると、家庭の事情などを気にかけ始めめ、上京して二ヵ月後の十二月十八日に広島に帰ることになり、その前日には送別お茶の会を開いてもらったという。在京中の名号書写は三万五千を越えていたという。「さよならの会をするから来なさいと聞けばこぼるる涙あふれて」と詠った。(以上、月尾さんの著書による) 
 
 月尾菅子さんとの深い交友は、時には三十万名号の扱いをめぐる行き違いなどによる齟齬もあったが、正田さんの死まで続き、さらにその後も月尾さんは正田さんへの思いやり深いかかわりを持ち続けた。 
 
 正田さんは広島に帰ってからも、名号書写を続けながら、家庭のこと、知友との交流、著書『耳鳴り』によってひろく知られた『さんげ』の作者としての読者との応接など、療養しながらも忙しい生活をすることになる。そして、作歌、作詩も続いた。 
 
 一九六四年(昭和三十九年)には、八月の原水爆禁止大会に出席し、国際平和行進に参加したインドのメノンとクマールという二人の青年が正田さんの自宅を訪問するということもあった。(『さんげ―原爆歌人正田篠枝の愛と孤独―』) また、その翌年にはNHKのテレビ番組「ある人生」シリーズに取り上げられて取材を受けていて、四月二十五日に放映された「ある人生―耳鳴り」には名号を書く姿も映され、死を見すえての彼女の姿は大きな反響を呼んだ。彼女はベトナム戦争にも強い関心を持ち心を痛めながら作品化もした。そんな中にも、原爆病院の紹介による温泉療養所滞在などの日もあった。こうした、強いられた「晩年」にも、彼女の作品は綴られていった。 
 
 『百日紅』の短歌作品を、読んでいきたい。前にも書いたが、年月順の配列による構成ではないが、同書のとおり記して行く。 
 
 
  三朝(みささ)の秋 
朝深み三朝の山は色づきぬ高き青空に白雲たなびく 
 
コロコロとにわとり鳴きぬやだりにはゴマの束根が並べてありぬ 
 
連れだちてじじとばばとが湯の宿にまろき背を見せ膳に並びいる 
 
腰まがる湯の宿のばば涙ぐみ被爆して逃げ来し十七年前を語る 
 
庭隅ににわとり飼えり湯の宿はコロコロ鳴きて朝を目覚める 
 
ガラス戸を透(す)かして見ゆる薄青き空にほうほう鳥が鳴きゆく 
 
あかつきに目覚めてこれの世にあらぬほどのすがしさほとけおわす 
や 
 
あかつきの岩湯にひたり透(す)ける肌白きが寂し思うことあり 
 
原爆病院の義兄(あに)死ぬきわにしあわせを祈るよといいき旅に思う夜半 
 
昨日より今日と色濃くうつりゆくひそけきあゆみ朱の柿の実 
 
貸本屋明日(あす)は休みと告げられて重く三冊抱きて帰る 
 
薬包紙持ちて宿やの主婦にたのむ恵みたまわれケイトウの種子 
 
湯の宿のひとりの旅のひそやかさ心貧しきが思えてならぬ 
 
湯のけむりしきりにたちて小ぬか雨三朝(みささ)の秋は曇り日多し 
 
ひょうぜんと米子の駅に降り立ちて来しは皆生(かいき)よひとり湯に入る 
 
ひやめしのシップが効きしか昨日より今日の足関節痛み薄らぐ 
 
薄紙をはぎとる如く痛みとれ湯治の日々が三週間を過ぐ 
 
うつし身のかかわりなべて遠ざかり逝きし人のみわが胸にあり 
 
わが蒔きし花が育ちて咲きしという便りよこしぬ湯治のわれに 
 
春までの命と医師が告げし身の花の便りを聞くは嬉しも 
 
せつなさを短歌に納めん納め得ずまなこに広き澄みし青空 
 
さみしさをかみしめ抱くわれなればやさしき言葉も胸にひびかず 
 
 
 病中ながら忙しない日々を送っていた彼女に恵まれた温泉湯治は、詠う作品に、自然と向かい合い、こころをゆったりとさせる時間を持ったひびきのやわらかさがあると感じた。ゆったりとしたくつろぎが、時には病むからだの疼きがあるとはいえ、歌の響きをものびやかにしている。 
 同時に、彼女の境涯を作品から読んできた筆者には、自ら悟っている正田さんが残日を数えるような思いで、その日々の命をいとおしんでいることが、改めて心に沁みる。人間にこのような運命を押し付けた原爆、それを使用したものへの怒りと、そのような状況に導いた戦争犯罪者たちへの怒りがこみあげる。それを許してしまった、ある意味では犯罪者たちに加担さえしてしまった当時の国民(すべてをひとくくりにするものではないが)と同じ轍を踏むことのないようにと、自らを戒めなければならないと痛感する。 
 
 筆者が、戦後、小学生であったころ、いわゆる「反戦・反軍国主義」の映画が、学校で上映され、軍隊の犯罪が告発されることが盛んであった。自分の父親(赴任地の外国で病死した)が憲兵隊の中級幹部であったことを知っていた筆者は、特に憲兵の暴虐ぶりが映し出される場面では思わず俯き、目を背けないではいられないことがしばしばあった。夫を失い、兄妹三人を育てるのに苦闘した母親が、ある時期からいわゆる軍人遺族恩給を受け取ることを非難したこともあったが、それを自分の糧にしていたのも実態であった。そのような記憶が蘇えることがあるが、原爆短歌を読みながら、思うことは多い。 
 いま、すでに老齢期にあるなかで、現実と向かい合う時、過去は過ぎ去った時代ではなく現在につながり、現在を支配することさえあるのだと思えてならない。悪しき過去が、より進んだ悪を導いているのではないか、そうだとすると自分が生きてきて、何をなしてきたのか、主観的にはどうであれ、しっかりと総括しつつ、後に伝え遺すべきことを個人の思いや力にのみ拠るのではなく、共に生きてきた仲間達と共同してなさねばならないことがあると、思う。昨年の福島原発事故を契機に、原爆短歌を読み、記録することに非力を承知で取り組もうと考えたのもその故であった。原発を詠った短歌作品も読み、収録していきたい。また、拙いけれど詠う者の一人として自らの作歌のテーマにもしていくつもりではいる。 
 
 正田さんの作品に戻る。 
 
 
  野仏 
晩秋の時雨冷たく濡れながらさまよい探し見つけし地蔵 
 
原爆にあいます地蔵がおんくびにテープ巻かれてすこし横向く 
 
色あせし地蔵よだれのふくらみは合掌したもうみ手があるとこ 
 
まみふせしなごやかな顔されながら沈ますこころ見ゆる野仏 
 
原爆で頭(こうべ)とれたる地蔵尊背のコスモスは種(たね)こぼし枯る 
 
野仏のみ足の指がとれしままいたいたしもよ十七年経し 
 
野仏の頬をなでつつくびすじのきずあとさする夕暮るる墓地 
 
 正田さんの仏教信仰の深さが、原爆によって傷んだ野仏、地蔵を詠う作品に表出されて、しみじみとした響きの歌になったと思う。正田さんの歌の本領の一面であろう。発表されていない多くの作品にこのような味わいの歌が多いのではあるまいか。 
 
 
  詩碑 
貧しけれど情愛深き三吉なりきわれは詩碑を撫でて嘆くも 
 
雪の中をずぶ濡れの三吉が訪ね来て手術のための入院告ぐる 
 
蒼ざめて痩せし体にメス入るれば三吉の死は必定かあわれ 
 
身を動かせばすぐ吐血する体ゆえむしろ死なんという声かなし 
 
三吉が死なばこの世に己が血を継ぐものなしと寂しげに言う 
 
「絶対に死なない」といいて出でゆきし三吉はあわれ手術台上に死にぬ 
 
「青木書店へ交渉済む原稿送れ」とわがために励ましくれし三吉は亡し 
 
「父をかえせ母をかえせ」の三吉の堅き堅き石ひたと撫でたり 
 
 
 「ちちをかえせ ははをかえせ」で始まる峠三吉の『原爆歌集』の序詩は、いまや知らない人はいないかと思うほど有名だが、その峠三吉と正田篠枝さんは、深い交流があり、親密な往来があった。正田さんが書き綴った作品をまとめて出版することを三吉が勧め、出版社と折衝したこともあったという。『耳鳴り』の出版にあたっても三吉に励まされたと、正田さんのノートに書き残されていたと古浦千穂子さんは『さんげ―原爆歌人正田篠枝の愛と孤独―』の中の「峠三吉のこと」の項に記している。その中で、正田さんと三吉の微妙な感情をめぐる逸話も紹介されているが、三吉が昭和二十八年二月に正田さんを訪れて入院し手術を受けることを知らせた際に篠枝さんが手術をやめるよう懇願したことも明らかにされている。三吉が肺葉摘出手術中に亡くなったのは、翌三月十日のことであった。正田さんの落胆は大きかったに違いない。三吉についての正田さんの作品は多い。思いが深かったゆえであろう。上記の作品にも、そのことはうかがえる。正田さんの人恋しさは、自らの命のはかなさもあっただろうし、人を信じ心の拠り所を求める思いの強さや、情熱を秘めた人柄もあっただろうが、エピソードは多く残されている。母や夫を早くなくし、さらに原爆によって縁のある多くの人を喪ったことにもよるかも知れないと、これは筆者の推測である。 
 
 
慰霊塔 
この夏は睡蓮花をつけずして緑のまる葉池に浮くのみ 
 
赤き灯籠貴美子の如し貴美子の名前わがつけし八才原爆の子 
 
あやまちは繰り返しませぬ安らかに眠れの文字は誰のたろめにか 
 
年月日同じが並ぶ墓に来て原爆のいたみまたうずくわれ 
 
子を背負い掌合わす人形供えてありぬかけたるタスキに原水爆禁止 
と書かる 
 
雨の慰霊碑に二人の母娘額伏していつまでも居り身は濡れながら 
 
ただ一つ餡パンが供えられており慰霊祭も済みし原爆碑の前 
 
白薔薇咲き疲れしを横に見て原爆ドームに真向い歩む 
 
青赤の観光バスが密集す十八年前ここは死屍(しし)累々たりき 
 
 
 平和記念公園 
乙女子がドーム写生すこの娘等(こら)とひとしき学徒の爆死を思う 
 
ラムネ、ジュース氷の上に老母は並べごろりごろりと音させはじむ 
 
黙々と焼芋を売る媼の手のケロイド見ればかの日思ほゆ 
 
青ふさのぶどう垂れおるその下に一年坊や蟻を見ている 
 
さるすべり咲いて小風にゆれている木陰に憩うぢぢばばありぬ 
 
                         (つづく) 


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