2012年01月25日16時33分掲載  無料記事
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コラム

仏教の「共生と慈悲」を重視するとき 競争・格差社会が先鋭化するなかで 安原和雄

  仏教は「共生と慈悲」の重要性を説いてやまない。その共生と慈悲という仏教の基本的な教えが最近、重視されつつある。背景には企業の生き残りをかけた飽くなき私利追求が現代の競争・格差社会を先鋭化させ、生きづらくしているという事情がある。だから「世直し」のために「共生と慈悲」が注目されつつあるのだ。 
地球規模のグローバル化路線は「共生と慈悲」と果たして両立するのか。国境を越えた企業の私利追求が眼目なら、両立は難しいだろう。東大が呼びかけた秋入学も大学のグローバル化をめざすものだが、「共生と慈悲」への視点が希薄であれば、期待値は小さい。 
 
 以下、浅草寺(東京都台東区浅草)主催の仏教文化講座の一つ、渡辺章悟・東洋大学文学部教授「慈悲は共生社会の原理となりうるか」(小冊子『浅草寺』2011年11、12月号所収)の要旨を紹介する。その上で私(安原)の感想を述べる。 
 
(1)「共生」について 
 現在、「共生」は手垢(てあか)がしみついたくらいに多くの場面で使われている。しかしその意味や歴史はどこまで理解されているだろうか。共生とは何か。共生社会とはどのような社会なのか。 
 
*現代社会の対立と不平等の下で 
 現代社会では社会の矛盾や倫理の崩壊が顕(あらわ)になっており、その根底には現代社会のさまざまな対立と不平等が錯綜(さくそう)している。そこには対立と調和、つまり富む者と貧しき者、健常者と障害者が共に生きていくという意味での共生、また世代間の共生とか、男女の性による差別と共生などが求められている。 
 
*「自然との共生」が大きなテーマに 
 私たちは自然の中で生きているわけだから、その一員としてこの環境世界を守っていかなければならない。環境としての自然が破壊されると、私たち自身も深刻な危機に直面する。これは私たち人間が引き起こした問題が、自身に返ってきているということだから、人間がどういう形で自然と共生していくか、環境問題として大きなテーマになっている。 
 
*競争・格差社会が先鋭化するなかで 
 共生がなぜこれほど注目されるようになったのか。地球や地域の環境の悪化、そして今までの価値が必ずしも絶対的ではなくなり、ある意味では崩壊してしまった。したがっていろいろなひとが多様な価値観を持っていて、なかなかうまく生きていくことができない。また競争社会、格差社会がますます先鋭化していく。こういう社会であるからこそ、共生が叫ばれるわけで、つまり失われた共生社会のなかで、共生が求められてきている。 
 
*共生は「縁起(えんぎ)の世界」 
 すべてのものが互いに関係を持ちながら存在する結びつきの世界を仏教では「縁起の世界」という。通俗的な「縁起が良い、悪い」の縁起ではなく、例えば「私」そのものが、いろいろな関係性をもって存在している。その依存関係によってのみ存在していることを「縁起」という。 
 たとえば今日私が食べた天ぷらそばに、インドネシアの海で獲れたエビが入っていたとする。さらにそば粉は中国、小麦粉はアメリカ、醤油の材料である大豆はブラジルそれぞれの産物であり得るわけで、そういう地球規模の依存関係の連鎖の中で生きていることを指している。 
 
(2)「慈悲」について 
 「慈悲」という仏教用語は一般には馴染みが薄い。しかし仏教としては慈悲をきわめて重視する。慈悲とは分かりやすくいえば、他人の苦しみに同情して、これを救済しようとすることであり、慈悲を見失った社会は殺伐とするほかない。慈悲は共生社会のキーワードともいえる。 
 
*一つのいのちの連続として 
 「いのち」について普通は、「私」とか「あなた」とか、個体としての生命を意識していて、これを中心に考えている。しかし私たちがここにいるのは、私たちの親、そのまた親と、過去から今、さらに将来へとずっと続いているためだと考えれば、私たちの存在も、一つのいのちの連続としてある。祖先を崇拝するのは、そういう形でいのちをいただいているという考え方が根底にあるからだ。それが連続する個体としての生命にほかならない。 
 
*大きな生命連鎖のなかで 
 いのちを大いなる「いのち」として捉えれば、個としての「いのち」ではなく、自分のいのちがさらに大きな生命連鎖のなかで連綿と続いていて、自分と人間だけではないものとの広い結びつきが考えられる。 
 「いのち」という存在が縦横に結びついて相互に影響関係を持ちながら存在する、総体としての「大きないのち」である。私たちはそれぞれがいのちの群として、大きな生命のリンクのなかで、一瞬を生きているという気がする。私たちは自分を個人として考えているにすぎないが、同時に、私たち自身は人間として「大いなるいのち」のなかにあるといえる。 
 
*仏教は慈悲を重視する 
 いのちの連続を積極的に意識する考え方が仏教のなかにある。それが「慈悲」ではないか。慈悲は一体感や、連続した「いのち」への意識という意味で重要である。「慈」と「悲」はそれぞれ二つの別の言葉で、「慈」は、他者に利益(りやく)や安楽を与えること、「悲」はうめき、哀(あわ)れみという意味だ。つまり慈と悲は、他人の苦しみに同情して、これを救済しようとすることともいえる。 
 
*慈悲は共生社会実現のための力に 
 経典『法華経』にも「世間を利益することを共感をもって実践する」とある。このように共に生きて共にそれを感じとっていく、見捨てないとか、触れ合いをつづけるというところが、この慈悲の実践ではないか。慈悲とその基盤にある「共感・共苦」こそ、異なった立場の存在が互いに分かり合い、互いが融和し、協力できる第一歩ではないか。 
 仏教の慈悲の思想によって、どういう地域の人、どのような身上であっても、民族、宗教、見解が異なっていても、必ずや共生社会を実現していくための力になると考える。 
 
<安原の感想> 慈悲、共生とグローバル化は両立できるか 
 
(1)いのち軽視と貪欲は「慈悲と共生」とは両立しない 
 仏教の説く慈悲と共生は、上述の「大いなるいのち」として「人間と動植物と自然」が存続していくために不可欠の条件となっている。言い換えれば、慈悲と共生を軽視するところにいのちの営みはあり得ない。 
 その意味では生存そのものを危険にさらす原子力発電も、「1%の富裕層」に対し「99%の反乱」を誘発させる新自由主義路線(=市場原理主義)も、「慈悲と共生」に背を向けている。 
 多国籍企業など大企業、大資本による国境を越えたグローバル化も、めざすところは大衆を犠牲にする飽(あ)くなき私企業利益の追求であり、「慈悲と共生」に反している。「慈悲と共生」に反するどころか、破壊してやまないのが、巨大な軍事力を振りかざす米国流の世界における覇権主義、単独行動主義への固執である。 
 いずれも表看板はグローバル化であるが、共通しているのは、いのちの軽視と貪欲そのものの行動であり、「慈悲と共生」とは両立しない。 
 
(2)大学グローバル化の波紋 
 さて大学のグローバル化をどう考えるか。最近大きなニュースとして報道された東京大学の秋入学の話題である。 
 それによると、東大は、5年後に秋入学へ全面移行する方針を明らかにした。米国など海外の大学は秋入学が主流で、その国際標準に合わせるためである。京都大など旧6帝大に加え、筑波大、東京工業大、一橋大、早稲田大、慶応大の計11校に参加するよう呼びかけて、波紋を巻き起こしている。 
 
 波紋の一つ、現役東大生の反応が興味深い。朝日新聞(1月21日付)によると、賛否相半ばしており、反対意見の「留学する気がない人には関係なく、周りに行きたいという人はあまりいない」が率直なところだろう。 
 朝日新聞社説(1月21日付)は「東大の秋入学 学生のための国際化を」という見出しで「留学を増やし、国際感覚を育みたい」と論じた。毎日新聞社説(同日付)も「教育改革のステップに」と題して「グローバル人材を求める経済界も巻き込んで論議は加速しそうだ」と指摘した。つまり秋入学のめざす合い言葉は「大学のグロ−バル化」である。 
 
 大学のグローバル化は、何を意味するのか。多国籍企業など大企業、大資本による国境を越えたグローバル化への人材供給をめざすとすれば、仏教の説く慈悲、共生と果たして両立できるだろうか。 
 多様な人的レベルで国際交流を深めることを意味する国際化は歓迎すべきことである。しかし昨今の企業のグローバル化は、飽くなき私利追求が念頭にあり、歓迎に値する国際化とは異質である。慈悲、共生への共感を見失った企業のグローバル化なら、危険な臭いがつきまとう。グローバル化だからといって単純に是認できる時代ではもはやない。 
 
*本稿は「安原和雄の仏教経済塾」からの転載です。 
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