2012年04月07日12時45分掲載
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核・原子力
【たんぽぽ舎発】魚の大量死−私の伊方原発反対運動のきっかけ 八幡浜・原発から子どもを守る女の会(斉間 淳子)
私の夫(斉間満)は、原子力がまだバラ色の時代に伊方原発反対裁判本人訴訟の原告であり、伊方原発反対八西連絡協議会の会員、さらに反原発を表明していた。しかし私の長兄は四国電力の上層部社員で原発推進であったため、当初、私は原発反対運動には背を向けていた。そんな私に衝撃を与えたのは1981年に起きた‘魚の大量死’である。伊方原発立地の隣の瀬戸内海側の瀬戸町と三机湾に、まるで真白な布を敷き詰めたように大量に死んだ魚が白い腹を出して浮いていたのである。
魚の大量死はこれまで7回も起きているが、私はその光景を生涯忘れることはないだろう。これが私たちの子供だったらどうするのか。私は心底怖くなり、原発に反対していこうと決めた。
1986年には旧ソ連でチェルノブイリ原発大事故が起き、目に見えない色もにおいもない放射能が8000キロ離れた日本でも確認され、その恐ろしさを実感した。そして1988年には伊方原発で全国初の出力調整実験が行われた。この発表がなされるや否や、九州の女性から反対の声が上がった。実験に失敗すれば九州も大きな被害を受けるという訴えは、チェルノブイリ事故後だけに切実な現実味があった。
私たちは「八幡浜・原発から子どもを守る女の会」を結成し、
伊方町にビラを配り反対署名を集めた。運動の主体は子育て中の母親や有機農産物やせっけん運動に目覚めた女たちで、柔軟で積極的なものだった。それまで一部の人たちだけだった原発反対の声は野火のように広がり、様々な原発反対団体が全国に生まれていった。
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