2012年05月03日04時22分掲載
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アフリカ
現代の遊牧民 「モダン・ノマドの日記 8」 アンドレイ・モロビッチ
フジャはイフェルアン(Iferouane)という名の、牧歌的な小さな村で暮らしている。この村はサハラ砂漠の真ん中にあり、政治経済の中心地から遠く離れた北部に位置している。とはいえ、この地にも進歩の波は押し寄せていないわけではない。
壮大な御影石の曲線からなるエール山脈に囲まれた小村はその高度から夏は猛烈な暑さから解放され、十分な水と肥沃な土地に恵まれている。さらに、略奪者の潜む危険なルートからも遠く離れているのだ。住民は親切であり、泥と藁でかわいらしい家を建てている。彼らは農業に通じており、遺伝子組み換え種子の危険性についても詳しい。イフェルアンには地上の楽園と呼べるすべての要素がある。
フジャは幼い頃、現地語で「マドゥーグ」と呼ばれる隊商の優れた案内人だった父親について回った。しかし、気候が劇的に変化したため〜それは白人の男たちの到来とほぼ期を一にしていたのだったが〜生活の土台を大きく変えることを余儀なくされた。彼らトゥアレグ族にとって生活の基盤は隊商(キャラバン)であり、隊商こそはトゥアレグ族の存在の屋台骨とも言えるものだ。隊商の移動経路は、半年間で一周するのだが、全長にして2000キロに及ぶ。最初は東に向かい、次にかなり南下し、さらに西に向かい、最後に元の場所に戻ってくる。この長いサイクルによって貿易を行い、さらにトゥアレグ族のラクダに水と植物を与えるばかりでなく、生存に必要な十分な塩も補給しているのだ。
フジャは父親の後を継いで隊商の案内人になると思われていたが、一帯が干ばつに襲われ、トラックと隊商によるこのビジネスは中止を余儀なくされることになった。以来、フジャは20年もの間、観光客の運転手とガイドをして生計を立てている。
フジャはサハラで反乱を起こしたトゥアレグ族のカリスマ的指導者だったマノ・ダヤク(Mano Dayak)の初期の輝かしい活動を目にしたことがある。トゥアレグ族は勇猛果敢できわめて個人主義的だから、そんな彼らを1つにまとめあげることができたのはダヤクだけだった。
ヨーロッパ人観光客がこの地域に押し掛けるようになった初期、トゥアレグ族の多くは彼らがテネール(Tenere)の砂漠に何を求めてやってくるのか理解できなかった。テネールには死があるのみだ。実際多くの人々やラクダが命を落としている。そんな危険な砂漠にヨーロッパ人が喜んで押し寄せ、あたかもそこに根を下ろそうとしているかのような振る舞いをしている。トゥアレグ族の人々には全然理解できなかった。だが、フジャは今ではヨーロッパからの観光客を以前より理解できるようになった。ある人々にとって自明のことが他の人々にとっては自明ではないということなのだ。
白人たちは不動や沈黙、そして何もない空間を一般に好む。というのも、白人たちの生活が喧騒とストレスで満ちているからだ。たとえ完璧に理解することはできないにしても、ヨーロッパ人の生き方を認めることはできる。
こんな砂漠のテネールにも市場価値が生まれ始めており、フジャ自身も市場主義のメカニズムの中に自らが組み込まれたことを自覚している。そうであればこそ、彼らは騒々しく、興奮したフランス人たち(’ikufars’=不信心者)がやって来るのも歓迎なのだ。ヨーロッパ人観光客が滞在するのはせいぜい1〜2週間で十分なのだが。
フジャはテネールの砂漠で欧州からの観光客が海について話すのを耳にした。彼らは海とは砂の代わりに水で構成された砂漠だという。もちろん砂漠の中で水は生存に欠かせない。しかし、だからと言ってすでに静謐な砂漠に生きているトゥアレグ族には何千キロにも広がる水は必要でないと彼らはいう。
寄稿 アンドレイ・モロビッチ
翻訳 プリモス・トロベフセク(スロべニア語→英語)
翻訳 村上良太 (英語→日本語)
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